「いつか来る死を考える。」で
訪問診療医の小堀鷗一郎先生に
初めて「ほぼ日」にご登場いただきました。
あの対談がきっかけとなり、
2020年11月、小堀先生と糸井重里が
「死」について語った
『いつか来る死』が出版されました。
その刊行記念となるオンラインイベントが
新宿の紀伊國屋書店新宿本店にて開かれ、
小堀先生と糸井、さらに撮影を担当した
写真家の幡野広志さんも加わって、
「死」をテーマにした座談会が生配信されました。
その内容を連載にしてお届けします。
編集 中川實穗
- 小堀
- 糸井さんは、今回の本でもそうだけど、
非常によく、わたしのことを
理解してくださったと思っています。
どういうことかというと、
訪問治療というのは、
世間が美談に仕立てたがるんです。
平成や令和の「赤ひげ」か知らないけど、
いろんな状況の家庭を訪問して診療するからね。
だけど、実はそうではないということを、
十分に理解してくださったのが糸井さんだった。
これはぼくにとってずいぶん納得がいきました。
- 糸井
- 小堀先生は「自由な魂」が
一番大事なものだと思っているとおっしゃいました。
これはこれまで何回か先生の口から
聞いているような気がします。
そういう方はどこでも正直にものを言う。
しかし、だからといって
簡単に人を傷つけたりしたら、
お互いの自由が損なわれるようなことになります。
だから、節度やマナー、エチケットというものを
ものすごく身につけておられるのだと思います。
長く考えたり働いたりして生きると
こういうところに行けるんだなと、憧れます。
でも、小堀先生のなかでぼくが
覗いてない場所があるんです。
それは、本棚。
先生は医学の方だし、
言ってみればハードボイルドで、
「文学には触れてません」と
建前としておっしゃっている。
でも、話していてときどき、
文学や詩が背景にあるような気がします。
- 小堀
- 私が持っている本はほとんどが
ノンフィクションです。
詩集は、頭からちゃんと読んだものなんて
一冊もないと思う。
小説も真面目に最初から
ちゃんと読んだことはないです。
祖父(森鷗外)のものは家中にありましたから
機械的に読んだだけで、
いわゆるどなたでもご存知の作家の小説は
一冊も読んでないです。
でも、だから詩的な部分がないとかね、
文学的な素養がないとか、
そういうことにはならないわけで。
- 糸井
- 「機械的に読んだ祖父の」とおっしゃるけれども、
誰も機械的に祖父の本なんか読まないですよ。
ご両親が芸術家で、
小さいときから映画に連れて行かれました
というようなお話もされていたので、
大人になってメスを持つ仕事に就いたとしても、
それが残らないわけがないです。
- 小堀
- 今は月に1回、金曜日を休みにしてもらって、
5連休にして、だいたい本を読むんです。
この数ヶ月くらいは
『パリは燃えているか?』という
パリ陥落の数日間の話を読んでいました。
フランスではあれはフィクションだと
言われてるようだけど、
厳密に歴史を調べて書かれています。
最後のヒトラーの命令に背くくだりなんか、
実に印象的で、
ヴィシー政権側のパリ市長が
こんこんと説得するわけです。
それがぼくにとっては一編の詩のように感じました。
事実というものに熱中しても
詩的でないとは言えないと思います。
本当のノンフィクションなんてあるのか、
とも思います。
そこには書いた人の感情が必ず
入ってくるわけですから。
そういう意味では、
写真にあまりフィクションはないですね。
- 幡野
- 写真は確かに現実的なものしか撮れないです。
写真家は、撮るだけなので簡単とも言えます。
- 糸井
- でも、写真を撮るときも
ノンフィクションで何かを描くときも、
「いいな」を思う側の判断があるわけですよね。
その判断は、その人が生きてきた
歴史そのものとも言えます。
シャッターを押す「いいな」も、
おにぎりがどうおいしかったかと書くのも、
全部その人がそれまでに持っていた
「いいな」の結果で。
- 幡野
- そのとおりです。
写真はわざわざ嫌いなものなんか撮らないし、
文章だってわざわざ時間をかけてまで
嫌なものについて書かないです。
そして「いいな」が増えていけばいくほど、
その人の人生はいいなとぼくは思います。
感動するチャンスが増えるということだし、
楽しくなるにちがいないから。
- ――
- みなさんからいただいた
最後の質問にまいりましょう。
「好きな言葉はなんですか」です。
- 幡野
- 辞世の句のようなことを言えばいいのかな?
- 糸井
- うーん。ぼくは今はやっぱり
「女湯」です。
- 幡野
- わはははは。
- 糸井
- このところ「女湯」という言葉を
見逃していたという思いでいっぱいです。
「女湯」と書かれていたら、そこには
男のぼくは絶対に入っちゃいけないんですよ。
「立ち入り禁止」以上のことを、
「女湯」のふた文字で。
- 幡野
- 言われてみればそうですね。
- 糸井
- なおかつちょっと入りたいんです。
こんな言葉、ふた文字で、
あるだろうか!? って。
- 幡野
- わははは、なるほど。
- 糸井
- 以上です。
- 幡野
- ではぼくの番ですが‥‥、
小堀先生のお言葉「自由な魂」を
お借りするようで恐縮ですが、
ぼくもやっぱり「自由」という言葉が
すごく好きです。
病気になると行動も制限されるし、
食べ物や飲み物も制限されるし、
どんどん自由が制限されていくわけです。
そこで最後に残るのが
「自由な魂」だと思うんですよ。
それだけは、誰にも奪うことはできない。
自由が制限されないということが
一番幸せなことだと思います。
- 小堀
- 左に同じ。
- 糸井
- また(笑)。
- 小堀
- しかし、わたしのほうでは、
幡野さんのおっしゃる「自由な魂」を
ちょっと変えまして、
「魂の自由」と言いたいです。
- 幡野
- 「魂の自由」
ああ、そっちのほうがいい。
- 糸井
- ぼくもそれ、借りていいですか?
- 一同
- (爆笑)
- 糸井
- ああ、たのしかった。
小堀先生、また遊んでください。
まだ足りていませんから。
よろしくお願いします。
- 小堀
- はい。
- 糸井
- 幡野さんともこれからも。
- 幡野
- ぜひぜひ、お願いします。
とてもたのしかったです。
ありがとうございました。
(おわりです)
2021-01-18-MON
『いつか来る死』
すべての人に等しく関係がある「死」について、
400人以上を看取ってきた訪問診療医の
小堀鷗一郎さんと、糸井重里が語りあいます。
「『胃ろうは嫌だ』の決り文句に騙されない」
「親の死に目に会えないことは親不孝ではない」
など、これまでの死に対する考えが
少し自由になるような一冊です。
(C) HOBONICHI