魂はどうか自由でいてほしい。
「いつか来る死を考える。」
訪問診療医の小堀鷗一郎先生に
初めて「ほぼ日」にご登場いただきました。

あの対談がきっかけとなり、
2020年11月、小堀先生と糸井重里が
「死」について語った
『いつか来る死』が出版されました。

その刊行記念となるオンラインイベントが
新宿の紀伊國屋書店新宿本店にて開かれ、
小堀先生と糸井、さらに撮影を担当した
写真家の幡野広志さんも加わって、
「死」をテーマにした座談会が生配信されました。
その内容を連載にしてお届けします。
編集 中川實穗
第6回 生きている人が思い煩うことはない
幡野
他人事でいるのがいいと思っていても、
患者と家族の関係は、
どうしても他人事ではなくなってしまいます。
両方が自分ごとになっちゃう。
その関係をたくさん見てきたのですが、
いい感じになっていることがあまりないんです。



だから、小堀先生の、
家族に対してもちょっと他人事な感じ、
ちょっと距離感があって、
突き放すわけじゃないけど
自由にさせているくらいのほうが、
少なくとも患者さんにとってはいいなと思います。
ぼくなんかも妻にかなり
自由にさせてもらっています。
写真
糸井
悲しいことが起きたときに、
喉が潰れるほど泣き叫んでも、
ほんとうは何も起こらないことのほうが
多いんですね。
ぼくも涙が出ることはあるし、
みなさんが泣くのも止めないけど、
ぼくはしないです、ということを
言っていいと思う。
で、ぼくはそういう思いが最近は強くなって、
墓参りが好きになってきました。
幡野
墓参りが面白いですか。
ぼくはあんまりしないですけど、
それは知り合いの方の墓参りですか?
糸井
はい、親族というよりも友達の墓参りです。
「お前、いるよな」と言いたい気持ちが、
ぼくの勝手なんだけど、
彼の人生を延ばしている気さえします。
ものすごくいいですよ。
お墓参りするだけだから、
お花を持っていくだけなんですけど。
幡野
それ、いいですよね。
死んだ人間に対しても、
今いる人間に対しても、
周囲にいる人間に対しても、
利が発生します。
死を中心にして利が発生することがあるってのは、
ぼくはかなりいいなと思います。
糸井
そういう行動も、人に本能的に
組み込まれているもののような気がしています。
いない人のことをいるように思うことを、
科学の世界とはまた別のところで、
人はやりながら歴史を作ってきたような気もする。
「死んだ人に悪い」っていう気持ちもあるじゃない?
写真
幡野
ああ、いいですね。
糸井
死んだ人はまだいるんだよ、という部分を残す。
彼が死んで泣き暮らしましたって言われてもね、
彼は困るだろうとも思うから。
小堀
糸井さんは本質的にやさしい人なんですね。
しみじみそう思いました。
糸井
参ったな(笑)。
こうやってね、小堀先生は上手にからかうんだよ。
小堀
本音ですよ。
写真
糸井
先生は、死んだ人を偲ぶとか、
そういう気持ちになることはありますか。
小堀
あまりないです。
死んだ人に悪いなんて思ったこともないです。



たとえば聖書に、
「死にたる者にその死を葬らせよ」
という文言があります。
要するに、死んだ人間が死者の国で
元気だろうが元気じゃなかろうが、
我々は知ったこっちゃないです。
生きている我々が思い煩うことは、まったくない。
ぼくはそういうことを基本に考えていますね。
糸井
ぼくもそれはそうだなと思います。
小堀
ただ、わたしにも感情もありますからね、
そうならないこともあります。
しかし基本的にはそうですね。
糸井
基本的にはそうで、
ほかの感情もありますという言い方は
ずいぶんずるいですね(笑)。
小堀
感情的な人にも理解を示している
ということを言いたかっただけです。
最近は「エモい」って言うんでしょう?
糸井
え?
小堀
ご存知ない?
糸井
「エモーショナル」の「エモ」でしょう。
江本孟紀(野球選手)さんではなくて。
幡野
わははははは。
写真
――
ではここから、ごらんの方から寄せられた
質問コーナーに行きましょうか。
まずは
「みなさんが多忙な中で
心がけていることはなんですか?」
という質問です。
糸井
ぼくはそんな多忙じゃないです。
心がけていることは、
毎日お風呂に入る、歯は朝晩二度磨く。
水を飲んだりトイレに行ったりするのに
遠慮しない、というのは心がけています。
それだけです。
小堀
わたしは一言で言えば、健康ですね。
食事や睡眠。
たとえば遠方で講演するのを
できるだけ断ろうとしてますけど、
やる場合は、翌日が休みの日を選ぶ。
そういうことは意識的にやっています。
幡野
ぼくも睡眠です。
病気になってからいいベッドに買い替えて、
睡眠の質を向上させました。
睡眠でしか体力の回復はできないと思ったので。
それは正解だったなと思います。
――
次の質問です。
「介護生活で、小堀先生のように、
感情移入しないようにしながら
患者の気持ちを読み取っていく、
そのバランスを教えてください」
小堀
きっと質問をくださったこの方が
介護をされるのは肉親でしょう? 
そこで感情移入するなと言っても無理です。
ぼくが訪問診療しているのは赤の他人ですからね、
全然話が違うと思いますよ。
ぼくも家族を介護した時間はありますけど、
当然、感情移入だらけです。
だから、そんなことは
ちっとも気にすることないと思いますね。
それが介護というものだと
考えられたほうがいいと思います。
写真
――
次の質問です。
「全然会っていなかった知人が
8年前に亡くなっていたことを知りました。
会っていなかったのに、死んだと聞くと
その人の存在が自分の中で大きくなり始めました。
なぜもっと早く死を知らなかったのだろうと
後悔したりもします。
ずっと会っていなかった人の死について、
みなさんはどう向き合いますか?」
糸井
ぼくは、ずっと会ってなかった友達は
「ずっと会ってなかった友達」だと思う。
それは親しさの度合いという話ではありません。



小学校で仲の良かった友達と、
そのあとはあんまり
会わなかったりするじゃないですか。
当時のいちばんの友達だったとしても、
それはやっぱり
「ずっと会ってなかった友達」なんだよね。



実はご本人も、
「ずっと会ってなかった友達の死」だと
捉えているんじゃないかな。
もともと忘れていたように、
これからも忘れていっても
全然おかしくないんじゃないかと思います。



もし20年ぶりに会って、
その後に死んだんだよってことがあっても、
全部その通りのことなんですよ。
「その通りのことだよ」と、自分では思います。
小堀
右に同じ。
幡野
ずるいですね、それ(笑)。
写真
小堀
全くそうですよ。
ずっと会っていなかったということは、
要するにあまり付き合っていなかったし、
言葉を変えれば忘れていた人間です。



ただ、相談者の方は非常にやさしいというか、
キメの細かい方なんでしょうね。
だから亡くなってみると、
年に一回くらいは会っていればよかったなと、
そう思ったんでしょう。
非常に細やかな方だから
そのように思うかもしれないけど、
私の答えとしては「右に同じ」です。
幡野
ぼくが病気になったときに
「勘弁してくれよ」と思ったことのひとつが、
同級生から連絡が来ることでした。
「あいつ病気になったんだよ、長くないんだ」
という噂が流れたんでしょうね。
それこそ20年間連絡を取ってなかったような人とか、
高校のときに半年間付き合っていた女の子とか、
名前や存在すら忘れていたような方から
連絡が来ちゃう。
本音を言えば、それが面倒だったりします。



だからやっぱりそんなに連絡していないのであれば、
それはそれでそういうことなんでしょうね。
つまり「右に同じ」という。
糸井
どうも、右です(笑)。
幡野
まあでもショックなんだろうし、
自分とも重ねちゃうんでしょう。
それこそお墓参りがいいんじゃないかな? 
糸井
ある期間に濃密に付き合った友達って
確かにものすごく大事な友達です。
でもそこからそれぞれの世界を持って
別れているわけです。
「お前がいなければダメだ」
「お前がいないと俺の世界が成立しない」
というくらい付き合っていたとしても、
そのあと会っていないということは
それぞれの世界にちゃんと住んでいるんですよ。
それはもう、枝分かれしたということ。
再会して「昔通りだな!」ってのもいいけど、
死んだのを知ってどうのこうのっていうのは
それぞれがのちに作った世界を
認めないことにもなっちゃう。
それはぼくは違うような気がします。
写真
小堀
ああ、これは糸井流の表現ですね。
「そのあとの世界を認めない」
なるほど、確かにそうですね。
(つづきます)
2021-01-17-SUN
写真
『いつか来る死』
すべての人に等しく関係がある「死」について、
400人以上を看取ってきた訪問診療医の
小堀鷗一郎さんと、糸井重里が語りあいます。

「『胃ろうは嫌だ』の決り文句に騙されない」
「親の死に目に会えないことは親不孝ではない」
など、これまでの死に対する考えが
少し自由になるような一冊です。