「いつか来る死を考える。」で
訪問診療医の小堀鷗一郎先生に
初めて「ほぼ日」にご登場いただきました。
あの対談がきっかけとなり、
2020年11月、小堀先生と糸井重里が
「死」について語った
『いつか来る死』が出版されました。
その刊行記念となるオンラインイベントが
新宿の紀伊國屋書店新宿本店にて開かれ、
小堀先生と糸井、さらに撮影を担当した
写真家の幡野広志さんも加わって、
「死」をテーマにした座談会が生配信されました。
その内容を連載にしてお届けします。
編集 中川實穗
- 糸井
- 幡野さんは恐怖感に襲われた翌日にも、
カメラを持って出かけていくわけじゃないですか。
- 幡野
- そうですね。
- 糸井
- ぼくは、そういう人に、
ものすごくいて欲しい。
いちばん恐怖を感じている人が、
どんな人よりも長く生きたほうがいいと思う。
- 幡野
- 恐怖を感じながら生きるのも、
なんとも言えない生きづらさがありますよ。
今は体調がいいから平気なんです。
ただ、寝違えて首が痛いとか、咳が出るとか、
そういうちょっとしたときに
明らかに人よりも「落ちちゃう」から、
それをそろそろ
うまくコントロールできないかなと思います。
- 糸井
- 幡野さんならできると思う。
- 幡野
- がんになっても、4割くらいの方は治ります。
でも治った方は再発のリスクがあって、
年一回、がんの検査をするんですね。
そういう方々にお話を聞くと、
一番つらいのが、
その検査結果を待つ時間だそうです。
普段は平気でいるんだけど、
がんの検査をします、
結果を出るまで数日かかります、
という期間が、口から心臓が出るほどつらい。
一回どん底を見てるからなんでしょう。
もし再発したら、
またあれを経験するのかと考える。
「再発の検査が一年で一番怖い」と、
本当にみなさんおっしゃるんですよ。
恐怖心をうえつけられているのでしょうね。
- 糸井
- 病気に限らずなんでも、初めてのときは
思いがけない要素があるから、
驚きが恐怖を隠してくれるのかもしれない。
- 幡野
- 火傷を経験していない人は
火が怖くないですよね。
しかし火傷を経験している人は
マッチが近づくだけで「危ない」と思う。
それと同じことなのかな。
つまりは恐怖心です。
死ぬことが恐怖のひとつになるんでしょう。
- 糸井
- 初めての経験で
反射的に対処しなきゃいけないことが
たくさんあるというのは、
生き物としては不利な状態なんだけど、
そのほうが「なるようになる」ことも
あるのかもしれない。
- 幡野
- もし今、
病気になったばかりの頃にタイムスリップして、
もう一回経験しろと言われたら、
ぼくは絶対に耐えられないです。
- 糸井
- 小堀先生、
患者さんがネガティブになって
「もうダメだ」とおっしゃるときに、
医者としてそこから抜けだす手伝いを
やったりしますか?
- 小堀
- 全く考えたことないですね。
- 糸井
- あ、そうなんですか。
- 小堀
- 非常にシンプルに言うと、ぼくたちは、
例えば「うちに帰りたい」とおっしゃるのを
どうやって実現しようかなど、
その人が望んでいることに
なるべく近い時間を編みだそうとしています。
たとえばジャズミュージシャンが
自分の余命を知って、
「最後にライブをやりたい」という気持ちがあって、
実現させるという目標があれば、
一生懸命にやります。
でも「希望を持って」とか「落ち込まないで」とか
そういう言葉を発する余裕はないです。
いわば「痛い」と「苦しい」はなんとかするよ、
というだけです。
だから、痛いときはどうするとか、
ご自宅でなんともならないときは
入院してもらうとか、
そういうことばかり考えてますよ。
- 糸井
- 具体的に感情に関与しないんですね。
小堀先生と喋っていると、
ぼくはすごく気分が楽になります。
元々、この先生は気が楽だなと思えたのは
「美談の人ではない」という場所に
いつもいようとするからです。
意識して努力しているわけじゃないんだろうけど、
下手したら美談の主人公になっちゃう。
そこの居心地の悪さと、
「そこにいたって得るものがあるわけじゃなし」
みたいなところを見定めていて、
小堀先生はいつでも「嫌だよ」って言ってる。
これは幡野さんにも共通することなんだけど。
- 幡野
- そうですね、
ぼくは死や病気について、
ちょっと他人事みたいな感じがあります。
- 糸井
- そうそう。
違うところに豊かさの根源を
持っている方々なんだろうなと思います。
- 小堀
- 他人事という言葉は、
ぼくは当たっていると思いますね。
自分としても、ほぼすべてを
他人事だと思って暮らしてますから。
それは自分の子供に対してもそうです。
つまり、人間と人間の関係を
全く個別に考えるというところが、
根源的にあるんですよね。
だから、そばに寄っていって、抱きしめて、
「泣かないで」とか
「力を落とさないで」と言うような、
そういうセンスが微塵もないんですよ。
それができる人を立派だと評価するし、
否定しているわけでもありません。
自分にはできない。それだけの話です。
その根源には、ひどい言い方をすれば、
「抱きしめたって救われないんだ」という
諦めがあるんですよ。
- 糸井
- 根源には。
- 小堀
- 人間と人間というのは
そういうものじゃないか、と。
- 糸井
- 悪い意味で言うんじゃなくて、
ある種プラグマティックなのかもしれない。
つまり話は、そこに利があるのかどうかです。
利というのは単なる欲や利益じゃなくて、
喜ぶ人がいて、いい結果があるんだったら、
そっちに行こうよ、というようなこと。
何かを選択するとき、いつもその見地で
問題を立てておられるような気がします。
さっきミュージシャンのライブの願いを
実現するというのも、
そこに利があるからですよね。
そこで泣かないでと抱きしめるところに
あまり利が見出せないと思うと、
「それは俺はいいわ」
ということになる。
プラグマティズムというものは、
ある時代に流行ったアメリカ思想で、
日本では「功利的」と訳されて、
汚いずるいもののように捉えられてきました。
しかしぼくは今頃になって
幡野さんが言ってることや、
小堀先生の言ってることについて、
とてもスカッとします。
ぼくは出身が広告だから、
プラグマティックだなんていうのは悪口です。
じつはぼくも散々言われてきました。
だからちょっと、友を得たような気もあります。
- 幡野
- これを言うと結構誤解されるんですけれども、
僕は病気になってから、確実に、
損得勘定で動いています。
損得勘定と言うと、
金銭的なものと受け取る方が多いんだけど、
そういうことじゃありません。
自分にとって有利なことをする、
不利なことをわざわざする必要はない、ということ。
健康ならまだしも、死にかけているのに、
不利なことをすることはないと思うんですよね。
その究極ってわけじゃないですけど、
話を少し戻すと、
死に際の後悔って、
全然、利がないんですよ。
家族の後悔も、決して利があるわけじゃない。
損得勘定だけで考えていくと、
そういう後悔のたぐいは
減らしていったほうがいいと思います。
そこをもっともっと合理的に考えると、
するべきことが見えてくるような気がします。
(つづきます)
2021-01-16-SAT
『いつか来る死』
すべての人に等しく関係がある「死」について、
400人以上を看取ってきた訪問診療医の
小堀鷗一郎さんと、糸井重里が語りあいます。
「『胃ろうは嫌だ』の決り文句に騙されない」
「親の死に目に会えないことは親不孝ではない」
など、これまでの死に対する考えが
少し自由になるような一冊です。
(C) HOBONICHI