「ファンです。」と簡単に言いたくない。
少し説明が必要かもしれない。
たとえば、好きな音楽家でも俳優でも、
ある分野で尊敬している人が街を歩いているとする。
その時、ぼくは声をかけない。
なぜなら、そこで声をかけたら、
「ただのファン」になってしまうからだ。
もちろん「ファンになること」がいけない訳ではない。
自分が心から応援できる対象があるのは、
純粋に毎日の活力になると思う。
その道にはきっと進まないだろう分野であれば、
(たとえば、ナノテクノロジーやフラッシュ暗算)
単純にすごいと思えるし、たぶん、
臆面もなく「すごいですね!」とか言えちゃうと思う。
でも、自分がこの先、
少しでもその分野に進みたいと思ったり、
こんな風にできたらいいのに、
と思う人が目の前に現れたら、
声はかけない。
相手がステージにいて、自分が客席にいる。
という感覚があるのなら、声はかけない。
本当に少しでも、みかん箱の上でもいいから、
「ステージに上がった」という感覚があって、
はじめて、そうする。
ぼくの場合、松山という街がそうだった。
そこには、伊丹十三記念館がある。
ぼくが伊丹さんをちゃんと知ったのは、
ここ5、6年の話だ。
まるで年代を感じさせない洒脱な文章で、
何度読んでも楽しいエッセイ。
専門的な知識や社会背景を全部飲み込んだ上で、
エンターテイメントに落とし込んだ映画作品。
伊丹さんが生み出したものは、
どれもこれも本当に面白く、ためになる。
松山に伊丹十三記念館があると知った時は、
いつか行ってみたいと思っていた。
「まだ行けない」「今じゃない」とためらっていたが、
ようやくこないだの3月に行くことができた。
ある大きな仕事がひと段落つき、
自然と「今なら行ってもいいんじゃないか」
と思えたからだ。
3月の初旬だというのに、
松山は春真っ盛りの気候で、
そこら中で菜の花が元気に咲いていた。
チェックインしたあと、早速現地へ向かう。
バスを乗り継いで、中心から少し離れたところへ。
バス停を降り、少し歩くと見えてきた。
建築家中村好文によって設計された、黒く四角い建物。
街に馴染んでいながらも、少し異質な印象だ。
おそるおそる館内に入ってみる。
受付で注意事項などを聞き、荷物を預け、
いよいよ展示室に入る。
展示室に入るドアには、
「やぁいらっしゃい」と笑顔で迎えてくれる、
伊丹さんの写真がある。
…
館内で体験したことは、
ここでは書かないことにする。
もし、伊丹十三という人に興味があるのなら、
ぜひ一度行った方がいい。
そのためだけに松山に行ってもいいほどだ。
ひとつだけ言えるとすれば、
伊丹さんのステージはとても高く、大きかった。
今のぼくのステージとの距離を覚えておいて、
きっとまた何年かして、
この街に戻ってこようと思う。
たまに、映画「スーパーの女」のワンシーンを思い出す。
スーパーの経営者である主人公の五郎と花子が
自分の店を丘の上から眺めながら話す場面だ。
ここには何万という人が住んでいて、
みな、それぞれの稼ぎの中で
最大限のいい暮らしがしたいと頑張っている。
そのためにも、スーパーは少しでも
安く、いいものを提供しなければいけない。
そう言いながら、決意を新たにするシーンだ。
どんな街にも、たくさんの人が住んでいて、
みなそれぞれの仕事や暮らしがある。
松山という街のはずれに、
黒く四角い建物がある。
伊丹さんはいつだって、
「やぁいらっしゃい」と
笑顔で迎えてくれる。