沢木耕太郎の紀行小説「深夜特急」を
読んだことがありますか?
主人公である「私」がバッグひとつで
世界中を旅をしていく話で、一度読むと最後、
必ず旅に出たくなってしまう名著だ。
もちろん、ぼくもその一人だった。
2007年、当時20歳。
大学の制度を利用して、
アメリカ東部の港町に留学していた。
10ヶ月の滞在も残り一ヶ月になった5月、
学期末テストを終えたぼくは、
帰国する前にぐるりとアメリカ中を
旅してみたいと考えた。
計画はこうだ。
グレイハウンドバスというアメリカ中を走る
バスの一ヶ月周遊券を使って、
夜に出発し次の街へ移動していく。
そうすれば宿泊代も浮くし、
寝ていれば次の街に着く。
髪は肩まで伸ばしたし、
パスポートはお腹にまいたバッグの中だ。
「地球の歩き方」は持ったし、
「深夜特急」も改めて読み返した。
旅先で出会った景色は素晴らしかった。
ひたすら続くトウモロコシ畑、
ゴツゴツとした岩場の谷あい、
ギラギラとしたネオンサイン、
どれもこれも美しかった。
たくさんの出会いや発見があったが、
今でもありありと覚えている話をしよう。
それは、深夜の食堂で起きたちょっとした出来事。
時刻は深夜2時。
バスは乗り換え用の小さなバスターミナルに着いた。
街の名前は覚えていない。たぶん、中部のどこかだ。
次のバスの出発は朝の5時。
3時間ほどここで時間を潰さなければならない。
木のベンチは固く、
ずっとここにいようものなら
体が冷えてしまうだろう。
食堂と呼ぶには少し簡素な、
ちょっとした休憩スペースで休むことした。
赤い絨毯の床、アルミの椅子とテーブル、
コカ・コーラの自販機と、大きなジュークボックス。
ぼく以外には4人の客がいた。
白人の高校生が2人。ゲラゲラと笑いながら、
ジュークボックスの前で曲を選んでいる。
疲れた体で深夜に聞くには
うるさく感じてしまう
ダンスミュージックを大音量で流していた。
30歳前後だろうか。
赤いメガネをかけたお姉さんは、
分厚いハードカバーの本を読みながら、
白いマグカップでコーヒーを飲んでいた。
もうひとり、お腹の出たおじいさんは
くたびれた白とグレーのストライプシャツを着て、
ブツブツとなにかひとりごとをつぶやいていた。
ぼくは水のペットボトルを買い、
大きなリュックを向かいの椅子に置き、
ぼんやりと店内を見回していた。
高校生達は続けてもう一曲、
同じようなうるさい曲を流していた。
お姉さんもおじいさんも
この曲が好みじゃないようだ。
ときより横目で高校生を見る目に、
好意は感じられなかった。
ようやく曲が終わると、
高校生達は無言で食堂を出て行き、
空間は無音に包まれた。
せっかくなら一曲流してみようかな。
無音から10分ほど経ったころ、
ぼくはそう思い立ち、ジュークボックスへ向かった。
どれどれ、と覗いてみると
なんだか知らない曲ばかりである。
古いカントリーやジャズ、
そして最近のヒット曲といったところだ。
それでも、一度立ち上がってしまった手前、
何も選ばずに席に戻るわけにもいかないだろう。
うーん、なにか、知ってる曲はないかなぁ。
あ、あった!ビリー・ジョエルの「ピアノ・マン」だ。
ぼくは特段彼のファンではなかったが、
この曲なら何度か聴いたことがある。
「週末の夜のバーで起こる悲喜こもごも」を
感情たっぷりに歌う名曲だ。
深く考えず、ぼくは25セントを入れた。
ピアノの美しいイントロ、
少しかすれたハーモニカが鳴りはじめる。
甘く、少しもったりとした声で、
ビリー・ジョエルは歌い始めた。
イッツ・ナインオクロック・オン・ア・サタデー。
ぼくは席に戻ると、
この曲の持つ独特のせつなさと高揚感に、
一人しみじみとしていた。
食堂の空気は、さっきと打って変わって、
少しずつ温かい親密なものに変わっていく。
お姉さんは、「おや?」という顔をしたあと、
読んでいた本に栞をかけ、パタンと閉じた。
そして、指で本の表紙にトントンとリズムをとっていた。
ほっそりとした指が動く姿がとても綺麗で、
ぼくは思わず見とれてしまった。
少しだけ彼女の口元が笑顔になったように見えたが、
ぼくは恥ずかしくてよく見れなかった。
シング・アス・ザ・ソング・ユー・アー・ザ・ピアノ・マン。
シング・アス・ザ・ソング・トゥナイト。
おじいさんはどうだろう、
最初は反応がなかったのだが、
だんだんひとりごとが増えていった。
そして曲が中盤に差し掛かった頃、
左手で机をドン叩き、こう叫んだ。
「これは俺の歌なんだ!俺のことを歌ってるんだぜ」
それは大きな叫び声だったので、
ぼくはびっくりして彼の方を向いた。
だが彼はぼくとお姉さんの方は見ておらず、
あくまで自分の目の前の空間に向かって叫んでいるようだった。
曲がクライマックスに近づくにつれ、
ぼくとお姉さんとおじいさんは、
それぞれの方法で音楽を楽しんだ。
そこには、言葉を交わさなくても感じられる、
不思議な一体感があった。
シング・アス・ザ・ソング・ユー・アー・ザ・ピアノ・マン。
シング・アス・ザ・ソング・トゥナイト。
ぼくは、10ヶ月間の間に経験したことを思い出していた。
つらいこと、楽しいこと、どうしても納得できないこと。
なるべくこの出来事を忘れないようにしよう、と心に誓った。
曲が終わったあと、あたりにはまた静けさが訪れた。
ぼくはなんだか恥ずかしくなって、
お姉さんとおじいさんの方を向かずに立ち上がった。
そのあと二人がどうなったかは知らない。
ぼくは木のベンチに座り、次のバスが来るのをひとり待った。
あれからもうすぐ10年も経ってしまうが、
お姉さんのほっそりとした指と、
おじいさんのくたびれたシャツをよく覚えている。
「移動すること」にまつわる、ぼくの好きなもの。
それは、深夜の食堂で起きたちょっとした出来事。