もくじ
第1回はじめに 2016-11-08-Tue
第2回ギターソロはとりとめもない考えを運ぶ 2016-11-08-Tue

21歳、学生。都内の大学で日本近現代文学を学ぶ傍ら、レンタルCDショップでのアルバイトに勤しむ日々を送っています。

僕の好きなもの</br>ギターソロ

僕の好きなもの
ギターソロ

担当・スガ カイタロウ

ギターソロを聴いているときの僕はいつでも
とりとめのないことばかり考えています。
そのとりとめのないことをとりとめのなさを極力残して
書いてみました。

音楽に関する文章を読むとそのほとんどに
「この曲(アーティスト)を聴いてほしい」という
強い動機があります。
僕が書いたのも一応音楽に関する文章なのですが、ここには
「聴いてほしい」という動機はありません。
では、なにがあるのかというと、
「僕はこんなこと考えましたけど皆さんは何かあります?」
なのかもしれません。

第1回 はじめに

「ボブ・ディランさん ノーベル文学賞受賞」

初めてこのニュースを聞いたときはそりゃあ驚きました。
驚きましたし、ここ最近ないぐらいに興奮しました。
ロックが世の中を変えるなんて甘い夢など、
それこそロックに目覚めた中学生の頃から今の今まで
一度たりとも抱いたことのない僕に、
ロックが世の中の価値観を(ほんの少しであっても)
変えた瞬間を見せてくれたわけですから
驚きも興奮もひとしおです。
‥‥とまあ、ここまでの個人的感慨はまったくもって
余談なわけでして。
あくまでもここで問題にしたいのは
ボブ・ディラン「さん」という呼称についてです。

このエッセイのテーマは「ギターソロ」であり、
この後の文章には固有名詞、
早い話がロックミュージシャンの名前が出てきます。
その際に敬称をつけるか否かが
非常に大きな問題になってくるのです。
もちろん、広く公に言葉を発信する以上、
一個人(そしてその中には故人も含まれています)を、
それも二回りから三回り、下手をすると四回りも
年上の人物を呼び捨てにするのは不適切である
ということは百も承知です。
しかし、それでも敬称をつけて
ロックミュージシャンの名前を記すことには
拭い去りがたい違和感があるのです。
「ボブ・ディラン」は「ボブ・ディラン」と
呼ぶほかないのにいったい何だい
「ボブ・ディランさん」って、といった具合に。

お分かりいただけ‥‥ないですよね、これでは。
もう少し真面目にこの違和感を説明してみます。

違和感といってもそれは決して、呼び捨てにすることで
ある種の親近感を抱いていたのに敬称をつけることで
その対象が遠くに行ってしまったような寂しさを
感じてしまうといった単純なものではありません。
むしろ僕が感じているのは親近感とは真逆の
畏れに似た感情であって

 

文章が途切れてしまっていますが、
これはミスでもなんでもありません。
ただ単にこの先が書けないでいたのです。
僕が抱いている違和感をどう説明しようか悩んでいるうちに
二日も経過してしまいました。
そんな中、偶然読んでいた
『小説の自由』(著:保坂和志 中公文庫)という、
いわゆる小説論をまとめた本の中に
この悩みをストンと解決するような文章を見つけましたので
少し長くなりますが引用します。

 この本の中では直接に私が会話した場面を除いては
 作家名に敬称をつけていない。/現役で私よりはるかに
 年長の小島信夫氏や大江健三郎氏にまで敬称を
 つけないのは抵抗がないわけではないけど、読者にとって
 作家とはそういう存在ではないか。(中略)/
 三島由紀夫、小林秀雄、川端康成など文学史に名を残す
 作家たちは「氏」や「さん」などの敬称をつけて
 自分の側に引き寄せることがかえって失礼と感じられる
 ほど、私たちにとって遠い存在なわけだ(後略)

他人の言葉を引用して自分のことを語るほど
みっともないことはないのですが、この引用が
僕の抱いていた違和感をズバリ説明してくれています
(こういったしかるべきタイミングで
しかるべき言葉に出会うこともまた「僕の好きなもの」
であるのですが、それはひとまず置いておきます)。

鬱屈とした中高生時代を過ごしていた僕は実家の六畳間で
ジョン・レノン(The Beatles)、
ルー・リード(The Velvet Underground)、
トム・ヴァーライン(Television)、
ベック、そして何も海外のミュージシャンだけではなく
宮本浩次(エレファントカシマシ)、
鈴木圭介(フラワーカンパニーズ)といった
敬愛するこれらのミュージシャンのことを
必死になって理解しようと、
理解といってもそれは曲の構造を知ることでも
曲に込められたメッセージを解釈することでもなくて、
一音一音の、あるいは一シャウト一シャウトの
必然性を感じ取ろうとしていました。
これはある種彼らの思考をたどる試みでもあり、
僕が大学生になった今でも続いているのですが、
聴いても聴いても一向に分からないままです。
というよりも聴けば聴くほど
遠ざかっていくような思いです。

僕は、自分の考えも及ばない遠いところで創作活動を続ける
ミュージシャンたちに敬称をつけて
近くへ引き寄せるよりも、
敬称をつけずに手の届かないところへ
位置づける方を選びます。
そして理解できないと分かりながら何度でも何度でも
彼らの音楽を聴き続けていたいのです。

僕の中に彼らの音楽が鳴り続けているだけで
それだけでもうじゅうぶん敬意じゃないか、
今ではそんな気がしています。

やや錯綜気味ではありますが、そのような理由で本稿では
個人名に敬称はつけません。あらかじめご了承ください。

(続きます)

第2回 ギターソロはとりとめもない考えを運ぶ