千葉県旭市の人が小さい頃から
おやつ代わりに食べて育ってきたしぐれ揚。
そもそもこのしぐれ揚の誕生は1963年。
創業当時は水飴屋からスタートしました。
その後しばらくして
お菓子作りのしぐれ揚に転身し
現在に至ります。
また「しぐれ揚」の名前の由来が
少々ゆかいで・・・
なかなか商品開発がうまくいかないことが
続いていた、ある日の午後。
たまたま納得いくものが作れたときが
降ったり、やんだり、小雨が続く、
「時雨」のような天気だったそうで(笑)
そこから「語呂の響きもいいし?」とか
なんとかで「しぐれ揚」が誕生したそうです。
価格は、1袋・220円。
(復活した現在も当時と同じ値段です)
千葉産のお米「ヒメノモチ」を使った
さっぱりとした塩味のあられで
今なお50年以上続くロングセラーに
成長しました。
絶頂期には全国的にも人気となり、
年間「2億4千万円」を売り上げたときも
あったそうです。
そんな「しぐれ揚」ですが、
私がその存在を知った当時、
2012年には震災の影響で、
すっかり市場から姿を消していました。
更地の工場跡を訪れて以降、
地元・旭市の人に話を聞くたびに・・・
「とにかくおいしかった」
「あの懐かしい味をまた食べたい」
「いくら食べても飽きない」
そんなツバが出る「うわさ話」ばかりが
耳に入ってきました。
・・・まあ、食いしん坊の私が、
「しぐれ揚って、もう食べられなくなっちゃったんですよね?」と、
ことあるごとに聞いていたからなのですが。
・・・(笑)
そして、そんなことがありながら
数日が経った、2012年3月。
取材依頼をこころよく受け入れてくださり
しぐれ揚の生みの親・山中食品の山中社長に
お逢いすることができたのです。
復興のシンボル「山中食品の門柱」と
当時60歳の山中武夫社長です。
山中社長は、おじいさんの代から数えて
3代目の社長にあたる方です。
初めてお逢いした時の感想は
「明るい人だな〜」でした。
見た目は「町工場のおやじ」という風貌で
一見、怖そうなのですが、話してみると
すごくやさしい(笑)
- ーー
-
大変な時にすみません。
地元の方から山中社長が
すごく落ち込んでいると
伺っていたのですが・・・
- 山中社長
-
いや〜、いつまでも塞ぎこんでても
仕方ありませんよ。それよりね、
この門柱に負けないように
復活の準備を始めてるんですよ。
- ーー
- それは、すごいですね!
- 山中社長
-
とりあえず、私と奥さん。
それと工場長の3人で
立ち上げようと思ってるんです。
- ーー
-
たった3人で?
それは随分と思い切りましたね。
- 山中社長
- 戦友みたいなものですから。
- ーー
-
そうですか。
離ればなれになったパートさんは
呼び戻すんですか?
- 山中社長
-
それはわかりません。
もう新しい働き口を見つけて
がんばってる人も多いですからね。
- ーー
-
そうですか。
それで復活はいつ頃をメドに
考えていらっしゃるのですか?
- 山中社長
-
今から1年後ですかね。
来年の春には間に合わせたいと
思ってるんですよ。
- ーー
-
がんばってください。
応援しています。
- 山中社長
-
はい。ありがとうございます。
がんばりますよ。
文字通り「0」からのスタート。
すべてを波に流されてから、わずか2年間で
工場を建て直そうと決めた山中社長。
その決断には素直に「強さ」を感じました。
あと、こうもおっしゃっていました。
- 山中社長
-
『またしぐれ揚が食べたい』って
全国から応援FAXが届くんですよ。
それを見るたびに妻と二人、
泣けてきましてね。
よし!やるぞ!
地震に負けてなるものか!って
思うわけですよ。
こんなお話を伺うにつれて、
私の気持ちは、次第に、
応援から「ファン」になっていきました。
そこから、ことあるごとに、旭市を訪れ、
山中社長に「しぐれ揚・復活」の進捗を
お伺いする日々が続いたのですが・・・
あるとき、私は「ひとつのこと」に
気がついてしまったのです。
それは「山中社長は相当に人がいい」(笑)
工場のとなりに住んでいた山中社長は
津波で、工場も、社員も、自宅も失い、
ご自身も被災された厳しい立場なのに、
「旭市に来てくれてありがとうございます」
「お腹すいてませんか?お食事でも・・・」
と、こちらが申し訳なくなってしまうほどに
「おもてなし」をしてくるのです。
- ーー
- 今日はそろそろ帰りますので・・・
- 山中社長
-
あ、これを持っていってください。
旭市の名産なんです。
- ーー
-
いやいや。
そういう目的で来てるわけじゃないですから・・・
お気持ちだけでじゅうぶんです。
- 山中社長
-
そうですか。
じゃあ、また旭に来てくださいね。
- ーー
-
もちろんですよ。でも・・・
旭市やしぐれ揚を応援したい
気持ちで来てる私たちの方が
いつも励まされてますね。
- 山中社長
-
なんだか、ごめんなさいね〜(笑)
来てもらえることがうれしくて。
- ーー
- また、ご連絡しますから・・・
震災直後ボランティアを逆におもてなしする
被災地の人たちのことが話題になりましたが
まさに、これと同じ。
自分のことはさておき、他人を思いやる心。
私は、あのとき、
「日本人ってすごいな〜」と
ひとり勝手にほっこりしていました。
同時に、こういう「ひとがら」が、
人をよろこばせる味作りにつながっていると
あらためて思えた瞬間でもありました。
再スタート
2012年12月 工場建屋を大規模工事。
そして、旭市を訪れはじめて、
約1年後の2013年4月。
山中社長の公言通り、
しぐれ揚が復活する日を迎えました。
ただし工場の規模は被災前の1/3。
地元のパートさんを中心に、
総勢15名での再スタートとなりました。
復活のハレの日には
取材という名目で訪れたのですが
不謹慎ながら、いちばん感動したことは
「とにかく、できたては、うまいっ!」
ということでした。
考えてみれば、これから商品化されるという
「ホクホクの揚げおかき」を
食べたことがある人が世の中に
どのくらいいるでしょうか?(笑)
しかも、あちらこちらに置かれた
「しぐれ揚」が入ったケース。
・・・なぜだかわかりませんが
テンションが上がります(笑)
うれしさのテンションにつられて、
思わず、山中社長もパクっと(笑)
一見、こわもてに見える山中社長。
ほんとうはこんなにお茶目な方なのです。
復活までに歩んできたみなさんの
これまでの道のりを想い返したとき
いつもはほんのり塩味のしぐれ揚が
涙で濃い目の塩味になってしまったことは
私だけの秘密にしておきましょう。
考えてみると、東日本大震災をはじめ、
いろいろな場所で起こっている自然災害で、
すべてを失った状態から、もう一度、
立ち上がろうとしている企業は
数えきれないほどあるでしょう。
今回、お届けした「しぐれ揚」のお話も、
もちろん、そのひとつ。
当時、山中食品の「しぐれ揚」の復活は、
震災で大きな被害を受けた地元をはじめ、
千葉県内でも多くの人に「勇気」を与える
出来事として伝えられました。
復活したばかりのときは、
工場の横に隣接したプレハブ小屋を
臨時の「直売所」にして、
しぐれ揚を売っていたのですが、
わざわざ遠方から車でやってきて、
ダンボール箱でひとり何個も
買っていく人も目につきました。
あ、そうそう。
魅力にハマって何度も通っていると、
パートさんとも仲良くなります。
その中でもすごく印象に残っているのが、
中国から日本人のところにお嫁にきた
「王(わん)さん」という女性でした。
山中食品では中国や東南アジア系の女性も
多く雇い入れていたのですが、
みなさんとにかく明るい(笑)
特に中国の王さんは、仕事中、
しぐれ揚を「つまみ食い」しすぎて、
10キロも太ってしまったと、
くったくのない笑顔で話してくれました。
そのことが、ずっと記憶に残っています。
山中社長に王さん、パートさん・・・
震災を通じて出会えた多くの人たち。
あらためて思います。
私が「しぐれ揚」を好きな理由。
それは「感情移入」にほかなりません。
私の敬愛する脚本家・小山薫堂さんが、
前にこんなことをおっしゃっていました。
食べ物をよりおいしく食べるための最良の秘訣、
それは『感情移入』だと思います。
作ってくれた人の想いを感じながら食べる・・・
作ってくれた人に感謝しながら食べる・・・
『おふくろの味』がどんな美食にも勝るように、
作り手への感情移入こそが最もすぐれた調味料になり得ます。
(マルシェジャポン公式HPより)
山中社長をはじめとした
山中食品の人たちのあたたかなひとがら。
これこそが最高の「感情移入」です。
そこには、
山中社長のように他人を思いやる「やさしさ」があり
たった3人で復活を誓った「つよさ」があり
復活したしぐれ揚を食べてこどものようにはしゃぐ「おもしろさ」がある。
そうです。
震災を乗りこえたしぐれ揚の道のりこそ
まさしく「ほぼ日」が大切にしている
「やさしく・つよく・おもしろく」の
考え方と同じだと気づいたのです。
課題のエッセーとしてちゃんとしたものに
なっているかどうかはすごく不安ですが
この未熟なエッセーを通してひとりでも
しぐれ揚に興味をもってくださったなら
私はそれだけで、じゅうぶんです。
そろそろ、おしまいにしましょう。
最後はこの言葉で・・・と、
はじめから決めていました。
山中社長が復活を誓ったプレハブ小屋の中に
ずっと飾っていた色紙です。
「人生、笑顔はこころの宝」
やっぱり、しぐれ揚は、おいしいです。
(おしまい)