「いらっしゃいませ。あぁ!
お久しぶりです。すっかり桜も散っちゃいましたねぇ」
女将が、和らぎ水とお通しを差し出しながら、語り掛けてくる。
数寄屋橋の桜もすっかり散って、
路面を舞う花びらを楽しむ時季を迎えている。
今日のオススメ日本酒は、雄町と書かれた純米吟醸。
飲みながら、ふと気になったことを聞いてみる。
「雄町は、酒づくり用のお米の名前ですよ。
食用米の米どころと同じに考えている人も多いから、
新潟、秋田が一番良いんじゃないかって言う人も多いけど、
酒米の王様と呼ばれている山田錦の一大生産地は、兵庫県。
この雄町だったら、岡山県。
食べるお米とは、別物なんですよ。
あと、山田錦のなかでもさらに等級があって、
特A地区という最高級品は、通常の2倍以上の高値で取引される。
それでもやっぱり日本酒の原料は、お米。
良い酒米ほど、酒づくりがしやすいって、
杜氏さんや蔵元さんはよく言いますねぇ」
ふぅん、と相槌をうちながら聞く。
女将は仕事柄、酒蔵にもよく足を運ぶらしい。
しかし、全国に1200もあるという酒蔵を一軒ずつ回ったり、
たくさんの酒の銘柄や、味を覚えたり、
女将はそもそも、どうしてそんな仕事に就いたのだろうか。
*
「とあるバーで飲んだ、
ウイスキーがきっかけだったんです」
「銀座にある老舗のウイスキーバーに行ったとき、
『あなたは、どんなウイスキーを飲んだことがありますか?』
と、マスターから聞かれたので、
普段慣れ親しんだ銘柄を答えると、
わたしの前に2つのお酒が置かれて、
どちらがその銘柄なのか当てろ、と言われました。
簡単に、当てたつもりでいたんですけど、
『正解のようだけど、実は2つは同じお酒です』と言うんです。
ひとつは、アルコール臭くて、分子がバラバラの荒々しい液体。
もうひとつは、口と鼻全体を包み込むような芳醇な香りがして、
まろやかな甘さが癖になる、まるで甘露。
あれが同じ酒であるはずがないの。
全く信じられないんですよ」
そのマスターの話は、簡単だ。
片方は、日本で輸入販売されているもの。
女将が”高級品”だと思えた方は、
マスターが、生産地で直接買い付けしてきたもの。
全く同じ銘柄で、同じ顔をして売られているけれど、
それだけの違いがある。
表面上は「日本人好みにブレンドしたもの」という体裁だろうが、
「日本人にはウイスキーの味がわからない」と思われているのではないか。
そういう大きな憤りと不信感を持つのに、
女将がとって十分すぎる、味覚体験だったのだ。
「決してマズイ訳じゃなかったんですよ。
でも、今まで騙されていた!とさえ思えるほど、
現地のウイスキーがおいしかった。
どうせなら、飲むほどに感動するような、
そういう完成されたお酒を飲みたいじゃないですか。
ただそこは、関税の関係もあるだろうし、
企業努力のたまものなのかもしれない。
もしそうなんだとしたら、
日本人として、
日本でつくられる、日本酒を飲まない理由ってなんだろう?
前から好きだったこともあるけど、
そう思えたのがキッカケです」
その後、様々な日本酒を飲み、
酒屋や酒蔵に足を運んで、体験をし続けた彼女は、
知るほどに、日本酒に魅了されていったそうだ。
「日本酒って、世界で最も複雑な製法でつくられる、
とも言われています。
化学がない時代に、昔の日本人は
よくぞこんな技術を生み出したものだ、
って、他のお酒の醸造家が嫉妬するくらい。
出来上がったお酒だって、
含まれる旨味成分の数が、他のお酒の比じゃないそう。
繊細な味付けや出汁の文化で育ったわたし達だからこそ、
感じることができて、楽しめるお酒なんじゃないかな。
経験したことのない味は、感じることができない。
正確にいうと、感じてはいるけど、
気づくことができないんだと思うんです。
だから逆に、飲めば飲むほど、
味覚が発達して、無限に楽しみ続けることができる。
日本酒はそういうお酒です」
(つづきます)