ここ2年、母の洋裁熱にはすごいものがありました。
母のワードローブに新たに加わったのは、
オーバーやコートなどの羽織ものが5着、
ブラウスが10枚以上。
私のワードローブに新たに加わったのは、
ワンピースが1枚、ブラウスが4枚。
スカートが2枚、パジャマが2枚。
すべて母の手作りです。
そればかりではありません。
お友達に頼まれたコートもあれば、
同じくお友達に頼まれた洋服の直しもあり、
初めて手がけた帽子作りは、
すっかりはまって20個以上を完成させ、
お友達や親戚にどんどんあげていました。
- ――
- なんだかすごい勢いで作っていたね。
- 母
- 安くていい生地が手に入ると、
いろいろとイメージが浮かんで作りたくなっちゃうのよ。
- ――
- お母さん、洋裁はどこで習ったの?
高校? それとも洋裁学校?
- 母
- 仙台の女学校よ。朴沢(ほうざわ)高等女学校。
実家の津久毛(宮城県栗原市金成津久毛)からも
通えないことはなかったけど、冬になると、
真っ暗な中を帰ることになるから、仙台に下宿をしたの。
家庭科の授業が他の教科よりも比重が大きい学校で、
そこで和裁と洋裁を習ったのよ。
【朴沢(ほうざわ)高等女学校】
現在の「学校法人朴沢学園・明成高等学校」。
女性の社会進出を図って、明治12(1879)年1月に、
裁縫技術を教える「松操私塾」として開設された。
宮城県では最古の高等学校。
昭和23(1948)年4月の学制改革に伴い校名を
「朴沢女子高等学校」と改称。
母はこの学校名のときの生徒になる。
<参考:朴沢学園HP、Wikipedia>
- ――
- 習いはじめたときから洋裁は好きだったの?
- 母
- 洋裁が好きというより、洋服が好きだった。
私が小さい頃は、洋服が流行り出した頃でね。
それまでは丈の短めの着物に、帯ではなくて紐を結んで、
下駄を履いて学校に行くのが普通だったの。
それが、裕福な家からだんだんと洋服を
着るようになっていったのよ。
洋服は憧れだった。洋服が着たかったの。
- ――
- 最初に着た洋服を覚えてる?
- 母
- 着る物が変わったなと自分ではっきり覚えているのは、
小学校1年生に上がる年に、
兄が買ってきてくれたセーラー服だった。
10歳上の兄は、長野県の鉱山で働いていたんだけど、
家に帰るようにいわれて、そのときにお土産として
黒地に白の線の入ったセーラー服を買ってきてくれたのよ。
ブラウスとスカートの上下のをね。嬉しかった。
特別な日にしか着せてもらえなかったけど、
着られた日は嬉しくてね。
- ――
- すごく気の利いたお土産だね。
- 母
- セーラー服が流行りだした頃だったのでしょうね。
- ――
- おじいちゃんがせっかく買ってくれた
毛皮のオーバーコートを
泣いていやがったという話があったよね?
- 母
- あれはね、小学校1年生か2年生のとき。
おじいちゃんが私のオーバーを買いに行ってくると言って、
馬に乗って一ノ関(岩手県一関市の鉄道駅)に出かけたの。
楽しみだったから、暗くなっても起きて帰りを待っていたのよ。
それでいざ包みを開けたら、真っ黒なマントが出てきたので、
「男のオーバーなんていやだ」って泣いちゃった。
- ――
- ん? でも、おじいちゃんが買ってきたのは、
真っ黒な色をしていても、女の子用だったんでしょう?
何がいやだったの?
- 母
- 私が欲しかったのは、ケープだったのよ。
マントの裾にひらひらしたヒダがついている、
女の人しか着ないものがほしかったの。
うちの隣の家には私と同い年くらいの女の子が
2人いたのだけど、家がお金持ちだったから、
そういうのを着ていたのよ。それが欲しかったの。
- ――
- おじいちゃんには伝わっていなかったの?
- 母
- 伝わっていなかったのでしょうね。
当時は、学校にオーバーを着てくる子なんていなかった。
大きな四角いショールを三角形に折って、
頭からすっぽりかぶるのが流行っていたの。
首のところで合わせて、そこを手で持ってね。
おじいちゃんが買ってきてくれたのも、それに似ていて、
本物の毛皮ですごくあたたかかったけど、
みんなが着ているようなのはいやだったの。
男物か女物かわからないようなのもいやだった。
- ――
- それで、そのマントはどうしたの?
- 母
- おばあちゃんに「せっかく買ってきてもらったのに、
そんなこと言うんじゃない」って怒られて、
しょうがないから着たわ。
<つづきます>
*洋服、帽子の画像はすべて母の作品(以下第6回まで同)
*最後の人物画像はコートのみが母の作品(1枚目の作品と同じ)