取引先こそ変わりましたが、
東京を離れて茨城県の海沿いの町に越したあとも、
母の洋裁の請負仕事は続きました。自分の足で歩いて、
2軒の洋裁店から仕事をもらう約束をとりつけ、
子どもたちを幼稚園や学校に送り出したあとは、
せっせと手を動かし続けたのです。
小学校低学年の頃、「ただいまー」と家に帰ると、
窓を正面にして座布団に座り、針仕事をする、
うつむき加減の母の背中をよく覚えています。
それは茨城に住んでいた頃の当たり前の光景でした。
母いわく、それでも学校の夏休みと冬休みには、
一切仕事を入れなかったそうです。
長い休みは子どもたちと一緒にいる。
母の中で最優先事項は兄と私でした。
そんな生活が一変する日がやってきました。
田舎暮らしがどうしてもいやだった母は、
子どもたちの教育のことも考えあわせ、
東京至近の街に引っ越すことを決めました。
新天地で転職した父の給料は減り、その穴埋めに、
母は外に働きに出ることを考えます。
安定した収入を確保するには、
パートではなく、正社員がいい。
そうしていくつかつなぎの仕事を経て、
ようやく正社員の口を見つけました。
鋳物工場に併設する事務所での仕事です。
フルタイムの仕事が始まったあとも、
母は日曜日になると、洋裁に向かっていました。
自分の服や私の服を作ったり、直したり。
しかし、いつしか既製品で間に合わせるようになると、
手の込んだものを作ることからは
どんどん遠ざかっていきました。
- ――
-
お母さん、いつだったか、
「着たい服がないなあと思っていたら、
そうだ、自分で作れるじゃない、と思い出した」
って話してくれたことがあったよね。
- 母
-
そうそう。おばあちゃんの服を探していたときよ。
おばあちゃんから、「かぶりの服は首が締め付けられるようで
いやだから、前あきがほしい」といわれて探したけど、
いいなあと思うのは、かぶりばかりで、前あきがないのよ。
そうだ、私、作れるじゃない、と思い出して、
おばあちゃんの服をまず作ってあげたの。
そこから自分の服もまた作りはじめたのよね。
- ――
- 洋裁ができることを忘れちゃうってすごいね。
- 母
-
正社員の仕事だからそういう時間はない、
会社の事務所は古くて汚いからおしゃれはできないって、
勝手に決めていたのよね。なにしろその頃は毎日、
慌ただしかったから。子どもたちはまだ学校に通っていたしね。
- ――
-
そこからはどういう服を作ったの?
お母さんはどういう服が欲しかったの?
- 母
-
既製服はどれも、がぼがぼして大きくて、
私の体型に合わなかったのよね。
だから、私よりもずっと洋裁のできる友達が、
自転車で行ける距離に住んでいたので、
型紙をとってもらったり、
いろいろとアドバイスをもらったりして
だんだんにいろいろなものを作るようになったの。
- ――
-
私もその人に洋服を作ってもらったことがあったよね。
その人とはどこで知り合ったの?
- 母
-
茨城で一緒の社宅に住んでいたのよ。
その人は、よその家の洋服を頼まれて作っていたので、
洋裁をする者同士として、よけいに仲良くなったの。
洋裁の頼まれ仕事をする人はなかなかいなかったからね。
- ――
-
頼まれ仕事? お母さんみたいに、
どこかの洋品店から仕事をもらっていたということ?
- 母
-
あの人はお店ではなくて、友達から頼まれていたと思うわ。
私もおばあちゃんの冬物のスーツを
何着か作ってもらったことがあるのよ。
1着何万円かだったと思うけど。
- ――
-
おばあちゃんのスーツは、
お母さんは作ってあげなかったんだ。
- 母
-
自分で作るとなると、寸法から測って
型紙を起こさなくちゃならないでしょう?
いちいち計算して寸法を割り出していくのは、
めんどうなのよ。でも、あの人は、
計算して割り出すなんてことはしないで、
そのまま型紙の線を引いていっちゃうの。
- ――
- ん? どういうこと?
- 母
-
「こういう形のを作りたい」と言うと、
「こういうの?」と絵に描いてくれて、
「そう」と言うと、その場で型紙を作ってくれるの。
教わってできることじゃない。長いことやっていると、
体が覚えて、できるようになるのでしょうね。
- ――
- その友達も高校で洋裁を習ったの?
- 母
-
あの人は高校には行かないで、
中学を卒業したらすぐに洋裁の専門学校に通ったの。
だからたいていのものは縫えるのよ。
娘さんのウエディングドレスも自分で縫っていたもの。
いろいろと聞ける人がいるのはありがたかった。
ずっと洋裁を続けることができたのも、そのおかげね。
<あと1回だけおつきあいください。つづきます>
*複数の人物が写る画像は私の服のみが母の作品
*ただし、複数の人物が写る3枚目は母の服も母の作品
*最後の画像は3人とも母の作品(内2着は1枚目と同じ作品)