須曽蝦夷穴古墳(すそえぞあな)を見学して 駐車場に戻ってきました。 蝦夷穴歴史センターがあります。 詳しい資料や、出土品などが見られるかもしれません。
まいどおなじみ、 スソさんのかばんの中の土人形、 ミミズク土偶の健太郎、 略してミミケンです。 さて、スソさんはただいま、 石川県の能登島にいます。 海の見える古墳を見学したあとにきたのは、 「蝦夷穴歴史センター」に 移動したのでございます。 スソさんのおっしゃるとおり、 こういう施設は通常は 月曜日お休みなのですが ここは、火曜日と水曜日が休館なので、 行かれるときは、0767-85-2022まで お電話をかけて確認をどうぞ。
須曽蝦夷穴古墳では、 石室が2つあるのは前回御覧頂いたとおり。 東側が雄穴、 西側が雌穴と呼ばれているのでございます。 雄雌の話といえば、 ミミケンは、健太郎ですが、 本当には性別があるのでしょうか? よくわかりません。 名前がそうだから、ということで、 振る舞いを男性としていますが、 よくわかっていない、というのが 本音なのでございます。 しかし、ミミケンの性別は まあ、この場合まったく関係のない 話でございますね。
どうしても反応せざるをえませんね。 妖婦ということばに。 たしかに……。 手の位置などがおかしいですが。 ミミケンは、妖婦というよりも 愛くるしさを感じてしまいます。 ジャミラっぽさも少々ございますね。
「通ジゾハナ遺跡」、 「ジゾハナ」は漢字でかけるのでしょうか? 古墳まわりは、時として、 カタカナが登場しますね。 「キトラ古墳」など。 とおもってたら、 キトラは「亀虎」とも書くとでていて びっくりしました。 ミミケンは、スソさんのかばんの中の iPhoneで調べ物をしています。 小さい声で、siriさんにしらべてくれと お願いをしています。 「siriさん、 キトラ古墳、漢字。」
絵画土器とは文字通り 絵画が書かれた土器でございまして、 文字の資料がない時代なので、 生活様式などを知る上で たいへん重要なのでございます。 日本でたくさん出土している場所といえば、 奈良の鍵・唐古遺跡だそうでございますよ。
ふたたび土錘。 ちょっと前のコマででてまいりました。 網につけるおもりですね。
さて、これはたいへんに解説しがいのある 土器なのでございますよ。 実は、縄文時代にも、 関東〜東北一円での太平洋側で、 塩を作っていました。 でも、これはあるとき終わり、 空白の期間があるんです。 その後、弥生時代の中期の 瀬戸内海・児島付近で 塩をつくっていたとされ、 古墳時代には、大和政権の勢力拡大とともに ひろく伝播していったという説があります。 5世紀になると、 能登の富山湾の近くまで到達して、 6世紀以降には『棒状脚付製塩土器』が (二番目の写真でございます) 使われるように成ったとか! さらに、 8~9世紀になると、 福井の若狭湾から 『平底形の製塩土器』が導入されました。 (これが上のほうの写真です。) このころになると、 能登半島の真ん中から北、 七尾西湾沿いや外浦(志賀浦・福浦)だけで 製塩がおこなわれるようになりました。 ちなみに、『棒状脚付製塩土器』は 鹿児島湾の荻原遺跡や出雲でも 同じ形の土器(7世紀頃のもの)が 見つかっているそうですよ。 文化のつながりを感じてしまいますね。 しみじみー!
最後に中央のパネルを見ていたら、 「坪井正五郎」のことが書かれていました。 なんと、須曽蝦夷穴古墳を 初めて発掘したのが 坪井正五郎氏だと!! わたしの行く先々に 明治時代の坪井正五郎の影がーーー! はじめてこの人を知ったのは、 埼玉県の「吉見百穴」。 坪井氏は穴を調べて、 「土蜘蛛の住処」だといっておった。 (今は横穴墓と呼ばれている) 遮光器土偶と名付けたのも、 そして弥生土器を発見して 弥生時代と呼ぶことになったのもこの人が……。 その坪内氏が 「能登の蝦夷(えぞ)の岩屋」 つまり、異人の住処の噂を聞きつけて、 はるばるやって来たのだ! なんと鼻のキク人なんだろうか! 坪内氏は3日間のうちに実測して、 論文を『東京人類学会』に発表したそうです。
戦後になって、東京大学による発掘調査があって、 石室の特異な構造などから、 高句麗古墳と強く関連していることが 明らかになりました。 あ~~須曽古墳が 土蜘蛛の家にされなくてよかった!!
さて、次回は熊本へ行きます!お楽しみに!