大野 |
『困ってるひと』が出版されてから、
こんなからだと具合なのですが、
秘密のフィールドワークを
再開するようになりました。
もちろん、やれることの範囲や方法は
激変しましたけれど。
でも癖って、ほんとうに抜けないんですね。
自分の半径5メートル以内の視界に入った細部。
それらをとにかく「記録」しようとする癖。
最近、その秘密のフィールドワークで
いろんな人に会うんですが、
ときどきすごい人たちがいます。
その人たちは「自分はすごい」とか、
つゆほども思ってないんですけれども。
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糸井 |
ほんとにすてきな人はそうですよね。
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大野 |
もちろん「えへっ、すごいだろ!」
みたいなところはあるんですけれども。
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糸井 |
それはもう、子どもみたいなもんだからね。
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大野 |
そうなんですよ(笑)、ほんとにそういう感じ。
「すごいだろ」の言い方がぜんぜん違います。
自分の知識とか能力じゃなくて、
ほんとにその場でやったことについて
ただ「すごいでしょ?」と言います。
そういう人たちを見ている反面、
憂えている人がとても多いと思ってしまいます。
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糸井 |
今日大野さんとお話してる中で
ずっと通底しているテーマなんですが、
大野さんは、人の倫理に触らないところに
話がいくんですよ。
倫理に触れないようにするほうがいいんだ、
というのは、おそらくそうとう大人の考えです。
大野さんが大学生のときだったら
触れちゃってたと思うんですよ。
「そういう人に増えてほしい」
と、啓蒙的になったり、
「もっとちゃんとこっちの人のことを考えてくれ」
と言ったりね。
「それは考えたほうがいいんじゃないですか?」
と言われたら、
「人として考えたほうがいいでしょう」
と答えるしかない。
順番にした場合には、そりゃあそうなります。
大野さんの『困ってるひと』でも、
対立場面に近いところが出てきます。
しかし、対立場面として
描ききれないというところに
リアリティがありました。
「ありがとう」だし「困った」、
そういう場面です。
人と人が対立するときは
倫理を入れちゃったら書きやすい。
しかもみんなが「そうだ!」と同意してくれて
感想の声も揃います。でも、
「揃わなくていいからこういうことが言いたい」
というときは、ああなるわけでしょう。
つまり、愛とか思いやりの問題じゃなくて、
それこそ「困ったね」という話だからね。
人はそれぞれの飛び石のリズムで
道を歩んでいます。
そうして来ちゃった以上は、
飛び石の上で寝転んでる人がいると、
「ちょっとどいてよ」ということになります。
寝転んでる人の視点からも、
お互い「困ったね」だし。
じゃ、どうしようか、というときに、
道具を発明するかのように
仕組みを発明しなきゃいけない。
倫理の問題を仕組みに置き換えるところに
たどり着くために、大野さんはやっぱり、
昔「倫理だった自分」をちゃんと見つめた
けっこうな自己問答があったんだろうな、と
感じました。
宮本常一さんが、あんなに長く活動していても、
『調査されるという迷惑』を
書かざるを得なかった。
人はやっぱり倫理を語りたくなるし、
責めたくなるし、
愛の問題に置き換えようとする。
そこを、行かないようにあれだけ
抑えられたというのは、ものすごい大人です。
しかも、読者が『困ってるひと』を読んで
「これ、わかるんだよね」と思っている気持ちが
ぼくはうれしかった。
もっとぎゃーぎゃー言ったりしたほうが
わかられるんじゃないかな、と
みんな思い込んでいます。
大野さんというひとりの女性が
本の中で言ってることと、
読んでる人が「そうそう」と思うことの、
けっこう大きな数が、いままで描きにくかった、
「叫ぶのではなく、仕組みのことで
困ったよね、という話にしようよ。
さて、どうしましょうか」
という、あたりまえのことを実現してしまった。
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大野 |
そうですね。
最近自戒をこめて
「ポエム系」と言ったりしているんですが、
「こういうことを考えるのが大事ですよね」
「こういうことについて努力したいですよね」
というように、
なんとなくポエムで終わって、憂う。
憂う気持ちは大事で、
きっとそれがないと成立しません。
そのこと自体は、非常に大切なことだと思う。
でも、その境界線をどう踏み越えていくかが、
これから問われる気がします。
でもいくら「かわいそうだね」と言っても、
わたしの生活や、
たとえば震災の被災された方の生活は
変わらなかったりします。
やっぱり、困ったときに
「困った」と言うことは大事です。
それが「患者らしくないだろう」とか
「被災者らしくないだろう」とか
「被災者たるものこうあるべきだろう」
みたいなことにかき消されていったりして。
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糸井 |
弱ったね。
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大野 |
バッシングというのはおそらく、
こういうところから出てくると思うんです。
「反射」の筋肉ですね。
たくさんの情報を
無理やり処理しようとするとき、
「反射」の筋肉は自動的に鍛えられていく。
ものわかりのいい、自分と同じような考えを
もっている相手のほうが、
当然「反射」の速度は上がる。
効率的なように感じる。
でも、それはやっぱり、
いつか必ず自分に返ってくることです。
人を支える、「支援」の筋肉は、
ちょっと鍛え方が違う気がするんです。
うまく言えないんですけど、
ただひたすらの忍耐です。
ものわかりのよくない、自分とは違う相手と、
とにかく対話し続ける。
骨が折れますが、我慢して耐久する筋肉ですね。
これは本の中でも書いたことですが、
例えば会社で、いきなり上司に
「君は明日からクビ」と言われたとします。
そのときに、自分がかつて
他人にとっていた態度──つまりは無関心、
なんとなくの憂い──「反射」が返ってきます。
わたしは面と向かって差別されるよりは、
無関心でいられることのほうが
ずっとつらいと思っています。
それはその人が「いない」のと同じですから。
無視されたり無関心でいられるのは
いちばんしんどいことです。
自分が病気になってつくづく
これまでいろんなことに無関心だった、と
すごく反省しました。
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糸井 |
ビルマ少女をやっているような人だったのにね。
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大野 |
はい(笑)。でも‥‥なんだか、
そのくり返しなんですよ。
いまでもそうです。
「この問題について考えよう!」と思ったときに、
いつも一生懸命調べます。
実際に会いに行ったり、
話を聞きに行ったりすると、
「ちがーう!」「無関心すぎた!」
ということになる。
で、どんどんうまくいかなくなってくるんですよ。
うまくいかないことが
だんだん増えていく。
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糸井 |
パズルみたいな感じだね。
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大野 |
そうなんです。迷宮です。
でもそれでも、どんどん行きます。
自分がなんでも知っているとか、
万能感とかじゃなくて、むしろ逆。
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糸井 |
無力感?
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大野 |
無力感‥‥あと、
知らないことがあるということへの気持ち。
人は自分が知らないことを必ず知っているはずで、
それはすっごく、知りたいことなわけです。
糸井さんの知ってることもすごく知りたいです。
すごく知りたい、という気持ちで
どこかへ出かけてる。
いわば、人への健全な好奇心。
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糸井 |
ああ、それは
とてもいい言葉だね
「健全な好奇心」、それはもう、
「愛」にかえたいぐらいいい言葉だね。
その、いい感じの無責任さは(笑)! |
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(つづきます) |