第七回 棟梁の仕事は「気づくこと」
小川 自分らが使う道具の中で
いちばんというのは、砥石です。
今は天然の砥石が少なくなった時代です。
いい砥石に見える
人造の砥石が作られていますけど、
やっぱり違うんです。

自分らの仕事は、
弟子に教えるということは
ほとんどありません。
教えることがひとつあるのは
「刃物を研ぎなさい」ということだけです。
刃物はだいたい一年研げば
使えるようにはなります。
しかし刃先に一点の曇りもなく
ビシーッと研ぐということになると、
十年研いでも研げない子は研げないんです。

仕事が終わると、
毎日研ぎ場でみんなで研ぐ。
一生懸命一生懸命研いで研いで研いで、
研げていると思えば研げている……
結果は、人には誰にもわからないんです。
研いでいる本人にしかわからない。

わかろうと思えば、
隣で研いでいるヤツが
ちょっとわかるぐらいなんです。ですから
「自分はこれが一番ビシーッと研げた」
と、その研げているということが
わかるかわからないか、
感じるか感じないのか、
まだと思えば一生懸命研ぐ。
その感覚は教えることができません。

十年研いでも研ぐんです。
その間に、職人としての
研ぎすまされた精神が養われてくるわけです。
糸井 文字通り、
自分が研ぎすまされていくわけですね。
小川 まだ研げてない、
まだ研げてないと思って
研いでいくことで職人が作られてくるわけです。
そこでは研げているかどうかも
教える必要がないんです。

「これは研げているよ。なぜなら
 顕微鏡で刃先を見てみると……」

こんな風にやったら、
常にそればかり見なきゃいけなくなるわけだ。
一度見ると、
いつもそれで確かめなきゃいけない。
確かめる人生になる。
ポッと見ただけでもわかるようになって、
しかも顕微鏡以上に
目が肥えなければダメなわけです。
気づくか気づかないかということだと思います。

研いだ後に鉋で削ってみる。
「あれよりも俺の方が鉋屑はいい」
「あれのほうがいい」
ちょっとしたことに
気づくか気づかないかですよね。
形を作るにしても、
ほんのちょっとした加減が
形のいい悪いになるわけで、大事なのは
「気づくか気づかないか」だけです。
アドバイスでわかるものではないですし、
教えられませんね。
糸井 お弟子さんと一緒に
暮らしているというのは、結果、
そのことを教えていることになりますよね。
小川 それがいちばん大事なんです。
一緒の空気を吸って、一緒の飯を食べて、
一緒のところに寝て、一緒の目的を持って
生活するという……そうすると、
学ぼうという雰囲気の中に入っていれば
「捨て育ち」でいいんです。
放っておけばいい。

もう構わないで、
手をかける必要はないんです。
雰囲気は作っておかなくちゃダメです。
雰囲気がいちばん大切ですから……
中には、雰囲気に
うまく溶けこめない子もいますし、
逆らう子もいます。
そういう子はそういう子なりに
うまく指導してやるというか、
指導ってことはねぇけども、
言ったりなんかして
うまく溶けこめるようにしとけばいい。
糸井 雰囲気が壊れないのは、
何か理由があるんでしょうか。
小川 ちょっとしたことに
気づけば壊れません。
ほんのちょこっとのことだけど
軌道修正するんだな。
つまんないヤツが来たらそれを少し直す。
そういうもんだよ。
糸井 長年いても
雰囲気を壊しやすい人と
壊しにくい人がいて、
何となく力関係もあるわけでしょうし……
そこを小川さんは、じっと見ているんですか。
小川 それが棟梁や。
棟梁はそれだけでいいんだ。
コンコン打ったりしてるのは職人だ。
糸井 気づくことが、棟梁の仕事?
小川 気づくことは難しいんだよ。
ほんの、ちょっとしたこと。
だけど気づくか気づかないかがすべてだな。
だから職人を育てるには研ぎものしかない。
刃物を研ぐことで、物を作る時にも
ちょっとしたことに気づくようになるわけですね。

「あの人は何となくきれいに削る」
という、その「ちょっとしたこと」は
教えることができませんから。
技はその人が感じるものだから、
絶対に教えることができないんだな。
糸井 そういう中で育つと、
回り道はするけども、
その子の持つ個性は出るわけですか?
小川 出ます。
しかし、個性が出るなんていうのは、
もう最後の最後のものです。
  (明日に続きます)
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2005-07-13-WED