[糸井]
ずっと、一人で「職人」をやってきたぼくが、だんだん、組織やチームで仕事をするようになってきた。
3人、4人、5人‥‥と、仲間が増えて、
「経営」を考えざるを得なくなったとき、まわりの詳しい人が
「こうしたらいいよ」ってくれるアドバイスが、根本的なところでドラッカーの言葉と、重なってたんです。



[上田]
ええ、ええ。

[糸井]
ドラッカーのなかでも名言として有名ですけど、やはり大きかったのは「顧客の創造」という言葉。
「仕事とは、顧客をつくり出すことである」
大きく言えば、ぼくは、この言葉をたよりにして、いまの会社を少しずつ歩ませてきたんです。

[上田]
うん、うん、うん。

[糸井]
経営なんて‥‥と思ってた職人からスタートして、ドラッカーって人のおかげで、会社を経営するってことが、大変だけど、おもしろいなぁと思えるところまで。

[上田]
最初は「政治学者」として出発してるんですよ。
ドラッカーは。

[糸井]
いまでは「経営学者」とか
「社会生態学者」という肩書きが一般的ですよね。

[上田]
でも、あるときに、気づくんですね。
より良い世の中をつくるうえでは、組織が重要になる‥‥組織がカギである、と。
つまり‥‥「イズム」じゃなくて。



[糸井]
なるほど、頭で考えた観念じゃなくて。

[上田]
そう、でもね、おもしろいのは、1942年かな、第二次大戦中に書いた『産業人の未来』のなかで
「これからの時代は組織だ」って言い出すんだけど、ドラッカー自身、まともな企業で働いたことはなかったわけです。

[糸井]
なのに、そういう結論に達しちゃったんですか。

[上田]
だから、企業組織を調査しようとしたんですけど、
「企業の活動」を調べさせてくれってどの会社に頼んでも、変人あつかいされ、門前払いされちゃったんだな。

[糸井]
ほう。

[上田]
でも、当時、世界一の自動車メーカー・GMのドナルドソン・ブラウンって副会長が『産業人の未来』を読んで感銘を受け、ドラッカー宛に、一本の電話をかけさせたの。
それが縁で、ドラッカーは1年半くらいGMという会社の内部調査をしたんです。
そのときの成果を本にまとめたのが、人類に「マネジメント」という考えかたをもたらすことになる『企業とは何か』。
1946年の本なんですが。



(GMの内部調査から『企業とは何か』を書き上げたあと、1949年(40歳)ころの若きドラッカー。)

[糸井]
当時は、イデオロギー全盛の時代だったわけですけど、政治学者として出発したドラッカーは、頭で考えた「イズム」じゃなくて具体的な「組織という生きもの」を見るようになった。

[上田]
そうそう、そうなんですよ。
彼は、子どものころから
「自分は『見る人間』だ」ってことを感じてたそうなんですけどね。

[糸井]
社会生態学者と呼ばれるゆえんですよね。

[上田]
「反抗的な甥」って呼ばれてたんだって。



[糸井]
へぇー‥‥ドラッカーが? 甥?

[上田]
誰がそう名付けたのかは知らないんですけど、
「甥」というからには、
「おじ」に対して反抗的だったらしいんだね。

[糸井]
ほう。

[上田]
で、そのおじさんって人が、どういう人かというと、超一流の法律学者だったらしいんですよ。
第二次大戦で負けたオーストリアの憲法を変えたりアメリカに亡命したあとはカリフォルニア大学の法学部長かなんかになったり。

[糸井]
ええ、ええ‥‥つまり、イズムの人だ。

[上田]
そう、世の中を良くするものは法律であり、最高の法律は「頭でつくれるんだ」って人。

[糸井]
そういう人に対して「反抗的」だったんだ。
‥‥みごとですねぇ、その構図も(笑)。

[上田]
「そんなもん、 あたまで考えてできるわけないやん」って思いながら、本人は、問題解決に対する原則や具体的な方法論を追及して、歩くんですよね。

[糸井]
現実の世界を。

[上田]
カール・ポランニーという経済人類学者にも自分から「ついてってもいいですか?」って頼んで、あとをくっついていって、なんだかんだと、親しくなっちゃうわけです。

[糸井]
ええ、ええ。

[上田]
最近めっけた、ドラッカーの言葉があって、‥‥2週間ぐらい前だったかな、まさに、いまの話の典型例だと思うんだけど、
「理論は現実に従う」って言ってるの。

[糸井]
はー、いい言葉ですねぇ。

[上田]
理論は現実に従う。Theories follow events.


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