[村松]
屈折したインテリみたいな暮らしをしてて、
「日本の一般常識なんてものは」
と、世間を冷ややかに見おろしてさ、日本の映画なんか見向きもしないで外国の映画に2本出て、当時の伊丹さんにはそういうカッコよさがあった。
ほかの映画にバンバン出てたわけでもないから実生活としては川喜多和子さんが稼いでるくらいなものでさ。
その頃の伊丹さんが、俺がハマっちゃう原点だった。
もし、全財産が1000円しかないとして、スッと道を歩いてて、
「あ、1000円の、いい消しゴムがある」
と思ったら、買っちゃう。
それで喜んでるようなタイプね。
でも、そういう時間って、あまり長くは続かないんだよ。
和子さんと暮らしてる途中で、4チャンネルの『2時です、こんにちは』という午後の番組の司会をやりはじめるんだ。
そうすると、月収140万とかになってきて。



[糸井]
金持ちになっちゃうんですね。

[村松]
うん。映画の出演料を全部はたいてロータス・エランを届けてもらってたのに、ロータス・エランがふつうに買えることになっちゃうわけです。
そうなると、伊丹さんのある部分のおもしろみが消えちゃうんだよね。
普通のやつだったらみすぼらしく見えるところを、あの人独特の余裕でカッコよく見えるというのがミソだったんだけど、それが満たされていく過程になったんだよ。

[糸井]
わりと、すぐ起こっちゃったんですね。

[村松]
そう、すぐですよ。
伊丹さんの生活も、今度は普通の意味のおもしろさや遊びに入っていくようになりました。
結局、和子さんとは別れてしまうんだけど、これもおかしな話でね、和子さんが出ていっちゃう形で終わったんだよ。
だって、伊丹さんは和子さんの家に転がり込んだんだから。

[糸井]
あ、もともとは。

[村松]
川喜多長政さん(川喜多和子さんの父)の持ちものだった場所だったんだけど、そこから和子さんが出ていっちゃって、伊丹さんがひとり、
「女房が出ていっちゃった」
「またこれもカッコよさ」みたいな感じで、グラビアで撮られたりしてたんだ。

[糸井]
そういうグラビアがあったんですか(笑)。

[村松]
うん。
コガネっていう名前の猫といっしょにさぁ。

[糸井]
いちいち(笑)、おもしろいなぁ。



[村松]
映画に出たのも、そういう空間を与えられたのも、きっと川喜多さんの影響や環境によるものが大きかったんだよね。
だけど、テレビに出ることによって今度は自分に現実の金が入ってくるようになった。
そうすると、1000円の消しゴムの価値がそれまでとは違うようになってきたんじゃないかな。

[糸井]
価値が自分の金と相対化されますね。

[村松]
そう。
1000円しかない人が1000円の消しゴムを買うおもしろさは、1万円持ってる人が買うときには薄くなっちゃう。
俺の知ってた1000円の消しゴムの伊丹さんは、最終的に、何十億の配収がないと次の作品ができない、というふうになっていった。
だけど、どっちがほんとうで、どっちが嘘というわけじゃない。



[糸井]
村松さんが追いかけてる人って、
「無理してる感じ」の人が多いですよね。

[村松]
そう(笑)、好きなんだよね、そういう人が。
何だかフィクションめいた感じでさ。

[糸井]
伊丹さんが『2時です、こんにちは』に出てからも、おつきあいはつづくんですか。

[村松]
うん。だけど、そこでやっぱり年が8つ違うことが関わってくるんだよね。
ぼくが23だったら伊丹さんは31でしょ?
23のやつが31の人と一緒に夜中じゅうビリヤードやるのはね(笑)、そうは言ってもしんどいんだよ。
30と38だったらいいわけです。
だから、なんだかんだで30歳になるまでは、けっこう距離を置いてたんじゃないかな。
最初は、中央公論で伊丹さんに何かを書いてもらうことが俺にとっての仕事だったから、『婦人公論』で連載してもらったときは、ほんとうに密度の濃い関係だったと思う。
だけど、伊丹さんがテレビに出はじめて、連載も終わることになった。
名前も「一三」から「十三」になった。
いっしょに遊ぶには無理のある年齢差だし、なんだかちょっと自分のほうでもゴチャゴチャしてきたのかな、離れていく時期だったんだよ。
だけど、別に喧嘩して離れるわけじゃなかったんだ。
だいたい、伊丹さんの人づきあいは、蜜月、喧嘩、蜜月、喧嘩で絶縁になっちゃうから、ずっと見てる人があんまりいないんだよね。

[糸井]
うん。全部の時代を突き抜けられない。

[村松]
俺は年が違ったし、密な関係じゃなかったから、わりあい長くつきあえることになったんだと思います。

(つづきます)


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