[糸井]
「人間が育つ」ということについて、たくさんのことを学校にまかせてしまっている気が僕なんかは最近、するんですが。

[吉本]
そうですね、学校に関して言うとすれば──まともには言わないけど、まず、親は子どもに対して、
「これ(子ども)にかまってたら大変」
という思いが、どこかにあるんじゃないでしょうか。

[糸井]
‥‥なるほど。

[吉本]
つまり、どこかに都合よく子どもの面倒を見てくれるところがないかと、親は思っているんだと思います。
子どもは通常、四つぐらいになったら幼稚園に行きますね。
幼稚園や保育園だけではなく、幼児教室のようなものもあって、たくさんの子どもたちが通っています。
親も、教室の経営者も、遊び相手や友達ができていいとか、家にばかりいたら引きこもりになるとか、さまざまな理由をつけるでしょう。
けれども、早期教育をやりたいとか、そういうところまでの意識は特にはないと思います。
とにかく子どもがそこにいる間、親は「自分の手がかからない」。
誰もそう言わないかもしれませんが、それが本音じゃないでしょうか。
学校の先生に教育のすべてを委ねてしまうことのおおもとにあるのは、結局そのあたりの
「声にならない本音の部分」だと思います。
のちのちいろんなことの原因になるのも、その部分であると僕は思います。

[糸井]
それは、昔からそうだったんでしょうか。

[吉本]
少し前はそうじゃなかったです。
「数え年でいえば、八つか七つ、 そうなったら学校へ行くもんだ」
と、義務的に考えていて、親が「手が抜けてよかった」と思っているふうには、子どものほうからすると、見えませんでした。
親が子どもをかまう期間は、赤ん坊のときからはじまります。
柳田国男流に言うと「軒遊び」です。
それは、家で子どもを遊ばせておいて、親は縫い物をしたり、掃除したりしていればいい、という時期です。
子どもに全くかまわなかったら、外に出ちゃって危なくてしょうがないからどこかで用心して子どもを見ているけれども子どもに夢中になってるわけでもない、そういう状態です。
子どもが外で遊んでも大丈夫、というふうになりかけたときが、ちょうど小学校に上がる歳ですね。
学校が云々という前に、親と子の関係の変化のほうが大きいんだ、と僕は思っています。
子どものことは基本的に、全部親がやることだよ、というふうに思っています。
だって、ほかの人が責任を取りようがないことじゃないですか。
こういうことを言うと、
「それは一時代前の、家父長制度の名残だ」
と言われますが、そんな馬鹿なことはないと僕は思ってます。
子どもの時期のことは両親の責任です。

[糸井]
親がそう思えなくなって、学校の責任が大きくなってきたことのおおもとにあるのは、何でしょうか。

[吉本]
まずは、親の「自分のやりたいこと」が昔に比べてたくさん出てきたということです。
そうすると、子どもを「半分かまう」ことが鬱陶しくなります。
それよりも、働くとか、おしゃべりしあうとか、自分も何かを習いに行くとか、そのようなことが優先されるようになってきました。
「女の人は子どもを半分かまってればいい」
という時代じゃなくなって、自分自身が何かしたい、ということのほうが主になってきました。
ですから、子どもをあんまりかまっていられません。
そしたら子どもは、どこかに預けたほうがよくなる。
結婚したあとの女の人が、自分自身のことについて活動的になったということが第一なんじゃないでしょうか。
そしてそれを声にして言わないことに何か原因があると思います。
(明日につづきます)


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