[糸井]
ぼくは、たまたまコピーライターという商売が人生の間にはさまったから、そのあたりは運が良かったと思います。

[横尾]
コピーは、ジャンルがあるのかないのかわかんないよね。
コピー界なんていうのもないし。
コピーの伝統もないし。
伝統があったとしても、それは体系づけられてないからさ。



[糸井]
そのおかげでインチキ扱いされるのかもしれないけど、ずいぶん楽です。
美術界とはぜんぜんちがいますね。

[横尾]
なにしろ伝統があるからね。
ぼくの伝統じゃなくて、芸術の伝統がね。

[糸井]
ギリシア・ローマのときだって、お金持ちの家にあった彫刻は立派だったんですから、ずっと昔から価値の体系はあったんですよね。
そういうところで、この分量で格闘し、試合を続けてるのは、横尾さんしかいないと思います。

[横尾]
だけどこの量はなにも、社会のマス化に合わせてるんじゃないんです。
社会の影響ではなく、もっと個人的なものなの。

[糸井]
ですから、外からみたらむやみにエネルギーのある人に見えます。
だけど、エネルギーだけでは横尾さんの仕事はできない。
新しい発想が次々に出てくること、様式に納まらないで出し続けること、いちいち驚異なんですよ。

[横尾]
でも、それは雑念みたいなものでね。

[糸井]
雑念!

[横尾]
ぼくは、目をつぶって座禅すると、次から次にいろんな雑念が去来するの。
困ったもんだね。
雑念が来なくなれば、ぼくは最高だと思うわけ。
雑念というのは、だいたいどうでもいいものですよ。
そのどうでもいいものを、雑念として、ぼくは一個一個形に置き換える作業をしているんじゃないかなと思ってるの。



[糸井]
そうしたら、横尾さんはやっぱり、さっきのシッダールタとゴビンダの話の、俗世間でやっていった人のほうに似てますね。
それだけの雑念は、自慢じゃないけど、湧かせられないですよ。
横尾さんがやってることも言ってることも、よくそんなに湧くな、とぼくは何度もあきれます。

[横尾]
雑念がもう全部出て、のどがカラカラになって、すっからかんになって、最後にちっちゃい赤い玉がコロンと
「はい、これで雑念最後です」
って、出てくればいいんだけどさ。

[糸井]
赤い玉が出て、もう出ないでしょうと思っても、なんだか出ないフリをして、昔描いた絵を新しい雑念にリニューアルしたときがありましたよね。
「この人は無限大だ」と思いました(笑)。

[横尾]
いや、あれは、もうこれから先は何も浮びません、ということの表現であり、証明なんですよ。

[糸井]
いや、あれは別の雑念になってる。
そのエネルギーは恐ろしいです。

[横尾]
いや、エネルギーなんてないんだよ。
そういうことをやることによって、エネルギーが出てくる。
エネルギーがあるからやってるんじゃない。
エネルギーは、もうないんですよ。



[糸井]
やることによって出てくる。

[横尾]
だから、やらないとしょうがない。
エネルギーって生命力だからさ。
生きてるためには、描かないとしょうがない。

[糸井]
ああ、そうか‥‥溜まってるものが出てる、というよりは、回転が横尾さんを作ってるんだ。

[横尾]
そう。

[糸井]
横尾さんが夢について書いていた時代にも、
「この人は夢でもこんだけよく見るかね」
と思って呆れてたんですけど。

[横尾]
最近、夢はぜんぜん見ないの。

[糸井]
見ないですか。

[横尾]
まったく見ない。
見ても日常の延長でつまんない。
夢というのは無意識が変化したものでしょう。
だけど、それをどんどん見える形にしていくと、顕在意識になってしまうわけですよ。
無意識をことばに置き換えたりビジョン化したらその瞬間からそれは顕在意識です。
夢見たものを本に書いて、それをずーっとやってきたせいで。

[糸井]
きたせいで!

[横尾]
とうとう見なくなっちゃったの。
それはものすごく寂しいんですよ。
寂しいんだけれども、もしかしたらこれは、無意識と顕在意識が一体化したんじゃないかな?
そう考えると、ちょっとおもしろい。
「あっ、直感が来た」と思って絵を描いてるときは、無意識の助けで描いてるわけでしょう。
夢見なくなるのとほとんど同じように、その直感もひらめきもなくなってきたんですよ。

[糸井]
ということはつまり、これからは夢みたいなことを日常で言い続けることが起こりうる‥‥という。



[横尾]
そう。夢みたいなものがないわけよ。

[糸井]
ま、単純にいうと、ボケ老人になるということですよね。
人から見たらね?

[横尾]
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