[糸井]
横尾さんは、そう考えながら、ずーっと、ものすごい分量の表現をやってこられて。

[横尾]
いや、量で見せてるだけの話でね。
量が質に変わってくれればいいけれども。

[糸井]
でも、量は意識なさってますよね。

[横尾]
うーん、量は意識じゃなくて、衝動ですね。



[糸井]
そうですか!

[横尾]
自転車操業じゃないけども、どんどん作らざるを得ない。

[糸井]
とんでもない分量ですよ、実際。



[横尾]
でもさ、いまのこういう消費社会は、量だけの世の中じゃないですか。
どこ行っても、かしこ行っても、量ばっかりでしょう。
スーパーマーケットへ行けば、ものすごい数のおんなじ商品がバーッと並んでる、みんな、それを見てるわけだからさ。
量を日常生活の中で見て、触れてる。
だから、誰かがすごい数の作品を作ろうが、あんまり驚かないんじゃない?

[糸井]
だけど、横尾さんは型にはめたものを磨いて作ってるんじゃなくて、ゼロから作ってるんですからね。
ご自身の表現については、批評的に見ることはあるんですか?

[横尾]
まず、表現をしないことだよね。

[糸井]
はぁあ、なるほど。

[横尾]
表現ということの中には、美術の、あるいは絵画というものが持ってる──
あるいは美術界が求めてる表現というものがあるんですよ。
その表現に則ったほうがいいし、則らないとまたダメなんだけども、最終的にはその表現は邪魔になると思うのね。
たとえばね、キュービズムを発明したブラックは、それにずっとこだわって、表現、表現、表現‥‥と、袋小路に入っていったの。
ピカソはもっと頭いいというかずるいからさ、ブラックのことを
「こいつバカだ」
「なにまじめにやってんだ」って言うの。
「そんなことより、 女と遊ぶほうが表現に貢献するんじゃないか」
と言って、ピカソは表現なんてバッと捨てて、女の数ばっかり増やしていって、それで自分の絵を次から次へ変革させていった。
ブラックは表現にこだわったために、変革がぜんぜんできてなかった。
ピカソとキリコは早い時期に表現を捨てたから生きのびられた。



[糸井]
はぁーあ。

[横尾]
芸術の、なんというかサンクチュアリをブラックはめざそうとしたわけ。
表現という御神体を彼は作りたかったんだよ、きっと。
さっきのゴビンダとシッダールタの話と同じです。
ブラックはまじめだからゴビンダ、ピカソは女遊びするシッダールタだと思う。

[糸井]
ピカソは、きっと、無理がなかったんですね。

[横尾]
無理がない。ぜんぜんない。
無理があったらすぐやめるからね。
女に飽きると、別れのカタもつけないうちに、次へ行っちゃう。

[糸井]
うんと昔の芸術家がいたら、そうでしょうね。
なんの形もルールもなかったら、そうなりますよね。

[横尾]
そう。ピカソが偉いのはね、芸術という冠をかぶってないことです。
だけど、ブラックはそれをかぶって、表現という、せまーい世界に入っていった。
まぁ、ピカソはブラックのやることを片っ端から換骨奪胎してしまった。

[糸井]
つらいですねぇ。



[横尾]
でも、大半の芸術家は、表現をいちばん大事にしてるわけ。
美術評論家は、その人がどういう私生活や人生を送ったとか、そんなことに興味はないわけですよ。
表現された作品にしか興味がない。
アーティストはみんな、美術評論家に評価されたいから、表現にこだわっちゃうでしょう。

[糸井]
美術評論家の言語の中に、取り込まれちゃうんですね。

[横尾]
取り込まれる。
そのほうが、自分が認められやすいし、より評価されやすいから。

[糸井]
そういうことをしてたら、相手の土俵でポイントを1個ずつ上げていってぴったりの作品を作るというところに行ってしまいますよね。
受験生のように。

[横尾]
そう。
そこで「表現なんかやーめた」ということは、すなわち「芸術をやめた」ということです。
ピカソのすごいところは、ぼくは、そこだなと思うわけ。
だけど、美術評論家はピカソが表現をやめたというふうには絶対に書かないです。

[糸井]
「ちがう表現を発見した」と書くんでしょうか。

[横尾]
「どんどん表現を変化させていった」
という言い方をするんでしょうね。

[糸井]
あくまで道ははずれてないよ、と言いたいわけですね。

[横尾]
うん。ピカソには、
「表現」という概念が、まずなかったと思う。
彼に必要なのは女と人生でしょう。
芸術はあとからついてくる。



[糸井]
ピカソは、ぼくにも、誰にでも通じさせる力がちゃんとあって、とんでもない高みに行っちゃってるというところが特別な人なんだと思います。
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