ほぼ日の糸井と早野と河野が、
東京大学の特別講義に講師としてよばれました。
講義のタイトルは
「学ぶこと、盗むこと、仕入れること。」
名づけたのは糸井です。
若い学生たちの希望にあふれる視線を受けて、
3人は、人生の先輩として、
「知恵や知識、行動のいろんなやり方を
どうやって覚えてきたのか」
を話すことになりました。
20歳のほぼ日とほぼ同い年の大学生からすると、
私たちのことをくわしく知らない人も
多かったことでしょう。
それでも積極的に質問を投げかけてくれました。
今回はほぼ日をあまり知らないという方々に向けて、
〈参考〉もつけましたのであわせてどうぞ。
みじかめの文章で全10回、
どこからでもよんでいただます。
- 早野
-
この話には触れなきゃいけないと思って
スライドを用意してきたんですけど、
約1年前に「アートとサイエンスとライフ」(#1)という鼎談を、
新入社員として僕と河野さんが
ほぼ日に入ったことを知らせるために公開しました。
僕は東京大学を退官したばかりで
サイエンスフェローという肩書もなく、
河野さんも新潮社を退職されたばかりでしたね。
- 河野
-
そうですね。
まだ学校長という肩書もありませんでした。
- 早野
-
この鼎談のキーワードが
「ライフ」だったことを、
おふたりは覚えていますか?
- 糸井
-
はい。
- 河野
-
はい、そうでしたね。
- 早野
-
どうしてこういう話になったのか、
糸井さんがいちばん話せますかね。
- 糸井
-
そうですね。
なんというのか、
「アート」も「サイエンス」も
人が幸せになるためではない方向に、
使われてしまうことがあります。
そこで「ライフ」という切り口で
今までも考えてきましたけれど、
これからも意識的に、
むしろ強調するくらいの気持ちで
考えたいと思っています。
「ライフ」というのは、翻訳すると、
生活、人生、命を指します。
たとえ話でよく話すことなんですが、
ある人が亡くなったときに
「総理大臣だった」とか
「ノーベル賞をとった」とか
どのくらいすばらしい方だったかを肩書で語られても、
それはその人の価値になるとは思えなくて。
それよりも、
「この人にこれだけ親切にされた」とか
「一緒に遊んでいて楽しかった」とか
「お父さん、死んじゃ嫌だ」と泣かれたりとか。
肩書のないひとりの人間として語られることが、
その人自身の価値だと僕は思うんですね。
- 早野
-
はい。
- 糸井
-
この「ライフ」をキーに
さまざまなものごとを見るようになると、
他人と比べて競争することもなくなるし、
誰かによろこんでもらうことを
はじめに考えられるようになるんです。
これがほぼ日の大事にしているひとつの考え方です。
いちおう言っておくと、
僕も競争とかゲームは好きです。
勝ったとか、負けたとかわあわあ言うのが。
- 早野
-
僕も好きですね。
- 糸井
-
コピーライターのときは、
自分よりいいコピーを書いた人がいると
「くっそー!」と思う気持ちが絶対にありました。
逆にいい仕事をしたときは、
「どうだ」と鼻高々だったと思います。
そういうゲーム感覚というのはおもしろいんですけど、
また勝たなきゃいけない苦しさと表裏一体なんですよね。
そのまま仕事を続けていこうと思うと、
精神的にけっこう苦しいです。
極端な話、勝つためだったら
相手が傷つくことでもやってしまって、
お金を稼ごうとしてしまう可能性があります。
たとえば、早野さんが研究している分野に関して
「◯◯はうそです」と本当っぽく書けば、
ニュースが注目されてお金になるかもしれない。
さらに周りの人のコメントを聞き出して、
たびたびニュースを書けばもっと稼げます。
- 早野
-
それは、勝ったことになるんですね。
- 糸井
-
飯のタネになる、
という意味では勝ったことになります。
いま、そういうような、
人が迷惑になることでも
自分が勝つためだったらやってしまえる、
簡単に誰かをどん底まで落とせてしまう
怖い世界に僕らはいます。
でも、そんな世界って嫌じゃないですか。
- 早野
-
嫌ですね。
- 糸井
-
そういうときに「ライフ」をキーに
ものごとを考えると、
勝負に勝っても、
同時に自分の命も失われていることに気づけるんです。
そういうふうに、
なにかを考えるときに照らし合わせる鏡として
「ライフ」という言葉をいつでも置くようになりました。
- 早野
-
僕は、糸井さんの『インターネット的』(#2)は
名著のひとつだと思っているんですけど、
あれは何年前ですか?
- 糸井
-
2001年ですね。
- 早野
-
もう、そんなに前ですか。
あの本に書いていた
「3つのキーワードがインターネットの特徴である」
というのをあらためて話してもらえませんか。
- 糸井
-
はい、わかりました。
『インターネット的』は、
普及していくであろうインターネットに対して、
僕がどう思うかを書いた本なんですね。
3つのキーワードのうち、
ひとつが「フラット」です。
役職や男女、年齢など一般的な関係性が
インターネット上ではフラットになれる。
そういう視点で実社会の組織をみれると、
三角形のヒエラルキーのトップに社長がいるのではなくて、
三角形を壊して、船のような形にして
みんなで推進していくイメージを持てます。
社長は船頭さん、
個々がエネルギーを発揮できるような組織です。
ふたつめが「シェア」です。
得た知識や知恵を人に分けることが簡単にできるので、
みんなの情報の価値が高まります。
みっつめが「リンク」。
リンクが貼ってあるおかげで、
あらゆる角度から知識を得られます。
たとえば早野先生のことを知らなくても
検索すれば仕事内容だけでなくて、
家族のことや趣味も調べられるんです。
この3つはインターネット以前は
できなかったことです。
ただ、インターネットは
あくまでも道具のひとつ。
道具がどう進化していくのかよりも、
インターネットを使う側の人間が
どういう風に、なにを考えて、
どういう使い方をするかが、
インターネットのこれからの運命を決めるだろう、
と書きました。
- 早野
-
嫌な世界という意味では、
2001年とSNSがある2018年の
インターネットの在り方は
だいぶ違うと思うのですが、
糸井さんはどんな風に思いますか?
- 糸井
-
そうですね‥‥
ごく普通にやり取りしていた世界が
目立たなくなりましたね。
「大福を食べておいしかった」よりも、
「この大福は賞味期限切れのあんこが使われている」
というニュースのほうが情報として広まる。
そして、広まるニュースのほうが情報価値が高い、
とされているように思います。
そして、それが快感になっている。
だから「大福を食べておいしかった」
なんていう広まらない話は
ほとんどされないし、
逆に拡散されるように刺激的な発言をしたり、
ありもしないことを言ったりする人が
増えたように思います。
- 早野
-
ああ、はい。
- 糸井
-
もっとコミュニケーションの頻度が上がると、
また変わってくると思うんですよね。
SNSという場所はありつつ
直接会える場所もきちんと確保することが
大事になっていくように思います。
- 早野
-
編集者の河野さんとしては、
今の時代の発信について
どう思われますか?
- 河野
-
糸井さんがおっしゃるように、
情報過多と同時に、
刺激もどんどん過激になっていますよね。
なにがほんとうに大切なのか、
なにが人間にとって自然な姿や大切な拠り所なのか、
そういうことがわかりにくくなっていると思います。
いま「ほぼ日の学校」という場所で
シェイクスピアや歌舞伎など、
古典をたのしく学ぶ場をつくろうとしています。
古典と深く関わるようになって思うのは、
どれも何百年も、あるいは千年、二千年もの
風雪に耐えてきたもので、
人が立ち返るべき原点が
凝縮されているということです。
将来に向けてアイデアを出すときは、
最新の情報から学ぼうとします。
でも、うしろを振り向いて、
古典に向き合って先人たちの知恵から
学んだり、盗んだり、仕入れたりすると
アイデアとともに、
なにかしらの勇気や自信が得られると思います。
風化せずに残ってきたものには、
それだけの価値があると思います。
- 糸井
-
僕らはどこかで
「どうでもいい早さ」にとらわれていますよね。
僕がテレビに出始めたころは、
司会している人がかならず
「この人、原宿の最新情報にくわしいんだよ」
なんて紹介してくれるんですよ。
それが、すっごく苦手で(笑)。
数日後には変わってしまう情報を知っていることなんて、
自慢でもなんでもないんです。
新しいことを追いかけていたほうが
需要があると思われがちなんだけど、
僕はそのころくらいからかな。
なるべくいつ見てもおもしろいもの、
古くならないものをつくろうと思っていました。
(つづきます。)
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- #1 アートとサイエンスとライフ
- 国際的な物理学者である早野さんと、
『婦人公論』や『考える人』の編集長を務めた河野さんの
ふたりがほぼ日に仲間入りすることを
お知らせしたご挨拶代わりの鼎談です。
3人が今考えていること、これからのことを
「ライフ」という言葉を鏡にたっぷりと話しました。
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- #2 インターネット的
- 2001年に発刊された、
インターネットに触れた感動や、
当時のほぼ日の様子や考え方をまとめた本です。
時代は、インターネットが普及しはじめたころ。
「生きている場所によってではなく、
生きている時間によって、
さまざまな考えを持って、
自由にいられるようになったことを
『インターネット的だなあ』と僕は感じた」
と糸井は書いています。