ほぼ日の糸井と河野と早野が、
東京大学の特別講義に講師としてよばれました。
講義のタイトルは
「学ぶこと、盗むこと、仕入れること。」
名づけたのは糸井です。
若い学生たちの希望にあふれる視線を受けて、
3人は、人生の先輩として、
「僕らが知恵や知識、行動のいろんなやり方を
どうやって覚えてきたのか話します」
と口を開きました。
ほぼ日とほぼ同い年の彼らからすると、
知らないことも多かったことでしょう。
それでも積極的に質問を投げかけてくれました。
はじめてほぼ日を知る方々に向けて、
〈参考〉もつけましたのであわせてどうぞ。
みじかめの文章で全10回、
どこからでもよんでいただます。
- 早野
-
僕は2017年に東大を退官して、
今は20年間所属していた
スイス・ジュネーブのCERN研究所( #1)の、
国際研究チームリーダーを
引き継いでいる最中なんですけど、
たくさんの人に
「他の大学には行かないんですか?」
「研究は続けないんですか?」
と、ずいぶん言われたんですね。
- 糸井
-
そうでしょうね。
- 早野
-
でも僕は「やらない」と決めていました。
なぜかというと非常に簡単な話で「お金」です。
研究者の人ならわかりますよね?
- 聴講者
-
(数名がうなずく)
- 早野
-
僕の研究は実験が中心で、
かつ、現場の多くが外国です。
なのでお金がないとできないことが多いんですね。
現役時代は東大教授として
非常にめぐまれた資金調達をしていました。
有名な助成金は一度も外したことはありませんし、
もっとも多額な「特別推進」という助成金も
2度獲得しています。
おそらく、この分野の研究者としては
異例ともいえる資金調達力がありました。
でも、現役の教授でないと
場所も人もいなくなりますから、
これまでのような資金調達は難しくなります。
これが理論の研究ならひとり紙と鉛筆で
研究生活を続けることができるかもしれませんが、
僕の場合は絶対続けられないとわかっていました。
そして、59歳で東日本大震災が起こったんです。
ますます、自分が退官したときに
なにが起こるかなんて想像できないと思った。
それで僕は60歳のときに、
退職をしたらなにをするか
「TO DOリスト」を書いたんです。
- 糸井
-
へえ。
そのタイミングでは「ほぼ日で働く」なんて
まさか想像もしなかったですよね。
- 早野
-
そうですね、
むしろ今のところひとつも当たっていないですね。
- 糸井
-
早野さんのことは想像しても
誰もなにもわからないでしょうね(笑)。
- 早野
-
TO DOリストを考えていたころは、
あれもこれもやろう、と
妄想をふくらませて書いたんですけど、
まさかほぼ日で仕事をすることになるとは
思わなかったし、
まさかスズキ・メソード(#2)の会長に
なるとも思わなかったし、
人生設計は完全にくずれました。
でも、なんだかそれが、おもしろかったんですね。
河野さんは僕と同世代ですけど、
ほぼ日に入る前はどんな未来を想像していましたか?
予想通りですか?
- 河野
-
いえ、全く想像通りではなかったですね。
むしろ未来のことは想像していなかったと思います。
最初の出版社は54歳までつとめていましたから、
年齢に応じて経営的な立場に立つことになりました。
そこで「収益を生むために」という
発想に縛られることが多くなりまして。
僕はあまり我慢ができない性分なので、
それが自分の本意かどうかを
心に問いかけていたんですね。
2つの雑誌で編集長を経験して、
そのまま役員になり、
ほっといてもこの先8年は地位が安泰。
でも、もう現場は離れていたので、
実につまらない編集人生の最後を
迎えることになるのではないかと思ったんです。
それで、アドバイスしてくれた方が
「なにも決めずに辞めてみたら
おもしろいと思いますよ」と。
- 糸井
-
54歳で、あてもなく退職ですか。
- 河野
-
そうでしたね。
学生の時はやりたい仕事を真面目に考えて、
計画もたてていました。
でも、たまたま視界に飛び込んできた
編集の仕事を「おもしろそう」と感じて
なにも考えずに飛び込み、
結果、深入りしていきました。
そのころを思い返すと、
自分の心を裏切りながら仕事を続けては
いけないなと思ったんです。
- 糸井
-
なるほど。
- 河野
-
仕事を辞めたときに心に誓ったことは3つ。
自分よりも若い人と仕事をしよう、
今までやったことのないことをしよう、
気が合わない人とは仕事をしない。
そうしたら半年も経たないうちに、
若い人たちからベンチャー企業に誘われました。
インターネットのビデオをつくる会社で
畑違いではあったんですけど、
非常に気持ちのいい、おもしろい人たちで
数ヶ月ご一緒させてもらいました。
TO DOリストはつくらずとも、
頭の中で考えて、心の準備をしていたから
出会いが実ったように思います。
(つづきます。)
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- #1 CERN研究所
- 早野さんが在籍されていた、
世界でいちばん大きな原子核素粒子の研究所です。
ここで反物質の研究をされ、
1990年代の後半から多国籍チームの
リーダーをつとめられていました。
「活きる場所のつくりかた」という
イベントで語られています。
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- #2 スズキ・メソード
- 早野さんは国際的な物理学者である一方、
幼少期から通われていたスズキ・メソードの
5代目会長をつとめられています。
スズキ・メソードは音楽指導方法のひとつで、
全世界に音楽教室を展開、
40万人もの生徒さんがいるそうです。
どんな幼少期を過ごしていたのかは、
こちらをお読みください。