俳優の言葉。 001 本木雅弘 篇

ほぼ日刊イトイ新聞

俳優の言葉は編集しにくい。扱いづらい。
きれいに整えられてしまうのを、
拒むようなところがある。語尾でさえも。
こちらの思惑どおりにならないし、
力ずくで曲げれば、
顔が、たちどころに、消え失せる。
ごつごつしていて、赤く熱を帯びている。
それが矛盾をおそれず、誤解もおそれず、
失速もせずに、心にとどいてくる。
声や、目や、身振りや、沈黙を使って、
小説家とは違う方法で、
物語を紡いできたプロフェッショナル。
そんな俳優たちの「言葉」を、
少しずつ、お届けしていこうと思います。
不定期連載、担当は「ほぼ日」奥野です。

> 本木雅弘さんのプロフィール

本木雅弘(もとき・まさひろ)

1965年12月21日生まれ。いて座。

第2回 得体の知れない。

──
ご自身のことを「ニセモノ」だと感じていた、
というお話に、まず驚きました。

だって、僕たち一般人にとって「モックン」は、
ファッション誌のカバーを飾るくらい
おしゃれで、かっこよくて、
と思ったら急にヌードになったり、
ちょっと危なげなパフォーマンスをしたりと、
つまりニセモノなんて感じは、まったく。
本木
本人としては、ちがったんです。
──
じゃあ、その後、
映画や役者の世界に転身されるわけですけど、
それも「華麗に」というより‥‥。
本木
ええ、アイドルのグループもどこかで終わり、
まあ、業界的には、
大手の事務所を辞めちゃったってことは、
たとえば、テレビの仕事も、
なかなか難しくなりそうだという感じもあり、
あえて、しがみつく必要もないかなと。
──
テレビ業界に。
本木
はい。
──
それで‥‥映画俳優になったんですか?
本木
そうです、そのとおりです。まったくの手探りで、
映画の世界へ足を踏み入れたんです。

最初は、五社英雄監督の『226』の青年将校役。
今でこそ、幸運なはじまりだったと感謝ですが、
お芝居の勉強もしていないし、
ただ、もう体当たりで演技するしかなかった‥‥。
──
そうだったんですか。
いや‥‥この展開は予想していませんでした。
本木
だから確固たる、役者としてのスキルだとか、
自分なりの「役者道」みたいなものを、
磨いてきたという意識がほとんどないんです。
──
いや、でも、
アイドルが嫌だったわけでもないですよね?
本木
ええ、もちろん。シブがき隊のころも、
懸命に、いろいろ背負ってやっていましたし、
まぶしい思い出だし、
キャリアの汚点だとも思ってないんですけど、
とにかく、出が出なだけに、
映画俳優に転向したと言われても、
「元ニセモノが、
 新しいニセモノのワクを広げただけですよ」
という自己卑下の意識がありました。
──
そんなこと、まったく思わずに、見てました。
当たりまえですけど‥‥。
本木
紅白のコンドームとか、わかります?
──
はい、よく覚えています。

本木さんが、
コンドームの首飾りみたいなものをつけて、
紅白歌合戦で、歌ってらっしゃった。
本木
当時は、ああいう身投げ行為みたいな感じ‥‥
何て言ったらいいのか、
「もう二度と呼ばれることもないだろうから、
 変わったことやって帰ろうぜ」って。
──
そうすることの「新しさ」というか、
何か、ある種の「奇矯さ」みたいな振舞いを
楽しんでるのかな、と思ってました。
本木
たしかにまあ、当時、出演していた作品も、
ストーリーがカルトっぽかったりして、
自分は役者だって自負していたというより、
メジャーとマイナーの狭間を歩く
エッジな存在でありたいみたいな、
そんな意識で仕事を選んでいたと思います。
──
では、そのような気持ちに、
どこかの時点で、折り合いをつけたんですか?
本木
いえ、自分の中で何かが劇的に変化したとか、
受け容れられるようになったとか、
乗り越えたというようなことは、ないんです。

ベースとして、今もある気持ちです。
──
じゃ、「本木雅弘」という
みんなが知ってる役者さんの心の奥底には、
そういう意識が、今もある‥‥。
本木
少なくとも伝統的に芸事を受け継いできた
歌舞伎の世界の方々や、
心底、芝居に打ち込んで、人生を賭けて、
日夜探求している役者さんのように、
得体の知れないものと格闘している人とは、
自分は、少しちがうと思っています。
──
得体の知れないもの?
本木
じつは、心から、腰を据えて、
「演じる」ということに向き合うのには、
戸惑いがあるんです。

ちょっと話がとっ散らかりますけど、
たとえば、イランの
アッバス・キアロスタミ監督の映画なんか、
まったくの素人を‥‥
たしか『桜桃の味』という作品でも、
起用してるんですけどね。
──
ええ。
本木
自殺志願者の中年男が
死に場所を探して旅をするって話でね、
ある青年を車に乗せて、
「死ぬのを、手伝ってくれないか」
みたいなことを言うシーンがあるんですよ。
──
はい。
本木
そんなことを言われて、
青年は車から降りて逃げちゃうんですけど、
そのシーンをどう撮ったかっていうと、
監督だか助監督だかが、
実際にヒッチハイクの青年をつかまえて、
とんでもない要求‥‥
つまり何か性的な話をもちかけて、
その青年が怖くなって逃げ出したところを、
撮って使っちゃってるらしくて。
──
えええ。
本木
つまり、その青年にしてみれば、
カメラで撮られていることだけじゃなくて、
ヘタすると、
映画に出ていることさえ知らないまま‥‥。
──
逃げていっちゃった‥‥んですか。
でもそこまでして、リアリティを追求して。
本木
そう、そんな無茶な撮影をしているので、
演技じゃないんだけど、
青年の困惑が、名演技のように見えます。

つまり、懸命に演じた結果じゃなくても、
カメラを通すと、芝居になりうる。
──
それも、名演技のように、見えちゃう。
本木
西川監督にも、言われました。

「申しわけないけど、
 役者がどう感情を込めたかよりも、
 こちらにはどう見えたかが
 重要なんです」と‥‥。
──
『永い言い訳』の、西川美和監督ですね。
本木
演技とか役者業というものは、
ある種、人生を投じて
追求したり研鑽するものかもしれませんが、
映画表現においては、
素人を撮ったほうがリアルに見えたりする。

与えられた役どころをまっとうしているなら、
役者であれ、素人であれ、
演技であれ、そうではない何かであれ、
人の心を動かすことができる‥‥。
──
はい。
本木
そういうところが、
ああ、得体の知れないものだなあって。
──
役者だとか、演技というものは。
本木
はい。

<つづきます>

2018-03-24-SAT

写真:池田晶紀