子どもの話はおもしろいに決まってる。
だからわざわざやらなくても‥‥
というわけでもないんですけど、
これまで「ほぼ日」では、
子どもとか、子育てを軸にしたコンテンツは
あんまりやってこなかったんですよね。
よそでもやってるし、親バカっぽくなっちゃうし。
でも、ぼちぼちやってみようかな!
と思っていたところ、ちょうどタイミングよく
「&こども」という子育てに役立つことを考えた
「ほぼ日手帳」のカバーができあがりました。
じゃあ、その記念にということで、
短期集中的に「子ども投稿企画」をはじめますよー。
全国のママさんパパさん、ぜひご参加ください!
担当は、永田とスガノです。どうぞよろしく。
3月11日の、こどものこと。
- 3月11日がきました。
- はい。2年が過ぎました。
-
先週の金曜日に募集を告知したのですが
たくさんのメールが届きました。
-
いろんな場所の、いろんな出来事が届きました。
重い話、明るいエピソード、さまざまでした。
- 読みながら、いろんなことを思い出しましたね。
-
そう、あと、
たくさんの「あの瞬間」を読むことで、
気づいたこともありました。
多くの小学校や幼稚園で、
「子どもたちが家に帰るとき」
だったということや、
卒業式をひかえていたということ。
-
インフルエンザが流行っていたということ、
3月だったけど、寒い日だったということ。
-
たくさんの思い出、記憶を紹介します。
ぜんぶ掲載できなくてごめんなさい。
- 長いですけど、どうぞお読みください。
みなさんの投稿です。
神棚が大きく揺れた事。 外の電柱や電線が大きく揺れた事。 自分はテーブルの下に素早く潜れた事。 2年生の息子は怖かったその瞬間を 一気に話した後、もう一度 「今日は帰って来れないの?」 と聞いて来ました。 「ごめんね、明日、電車が動いたら帰るからね」 といって電話を切りました。 ともかく実家にいてくれてあの日は幸いでした。 朝、始発に乗って実家へと向かいました。 都内方面からの電車が 4時台発の電車なのに満員で ああ、こんなに帰れない人が いたのだなぁと感じました。 玄関を開けて「ただいま!」というと 「ぎゅうして!」と抱きついて来た 息子の温かさは本当に愛しかったです。 (せがわ)
あの日は、当時3歳の息子と 0歳6カ月の娘と一緒に家にいました。 息子は普段は保育園に通っているのですが、 病気で1週間入院し、 退院したばかりで自宅療養中でした。 地震の時、息子はお昼寝中で、 娘はお昼寝から目を覚ましたばかり。 私は寝ている息子の隣りに座って 娘に授乳していました。 揺れ出した時、娘に授乳しつつ、 息子を守るように覆い被さりました。 かなり揺れたのに熟睡中の息子は起きず、 娘は動揺する私を見て少し乳首を離したものの、 すぐにくわえ直して ぐびぐびと母乳を飲んでいました。 心配した夫からすぐに電話があったのですが 「○○(息子の名前)、熟睡してる!」 という私の報告を聞いて、 拍子抜けしつつとても安心した様子でした。 お昼寝から起きた息子に 「大きな地震があったんだよ」と言っても、 「どこで地震があったの? 遠く? 昔にあったの?」 とよくわかっていない様子。赤ちゃんだった娘は 「あーあー」とかわいらしい声をあげながら、 いつもと変わらない様子。 大地震の事実に気がついていない 子どもたちを見て、 私自身はパニックにならずにすみました。 (naka)
小学校の特別支援学級担任です。 あの日、船のように揺れ続ける教室で、 一年生の子と一緒に机の下にもぐっていました。 発話がなく、いつも笑顔でいる おとなしい子です。 机の下でもにこにこと私を見つめ続ける彼に、 大丈夫、上手だね、などと声をかけ続け、 手をつないで校庭に避難し、 お母さんのお迎えを待ちました。 あれだけ大きな地震を体験したけれど、 いつも通りの表情で避難して、 お家に帰ったと思っていました。 私も何とかその日のうちに帰宅でき、 お風呂に入ると、 右手にピリピリッと刺激を感じました。 見ると、 手の甲に小さな小さな爪あとがたくさん。 彼は、「怖いよ」「助けて」と、 つないだ私の右手に一生懸命伝えていました。 あの時、私自身が怖くて、 彼の気持ちに気づけませんでした。 次の日から数日間、 チャイムなどの校内放送が入るたびに、 彼は自分から机の下にもぐりました。 私も一緒に机の下に入って、 「怖かったね」「守ってあげる」と 抱っこしながら話しかけました。 もぐらなくなるまでは、 いつも手をつないで過ごしました。 もうじき4年生になる彼は、 今ではうるさいくらいに自己主張します。 (toro)
保育士をしています。 あのとき、2歳児の担任でした。 子どもたちは半分がお昼寝から起きてトイレへ、 半分はまだ寝ていました。 みんなで頭を隠し、 寝ている子は布団ごと引っ張り 「小さくなあれ」と唱えました。 揺れが収まり、停電がわかり青ざめた私に 他の職員とトイレから帰って来た子達が一言。 「先生〜! おふねみたいだったねぇ!」 「ちんちんがユラユラしたよ〜!」 先生脱力しました。 そして、冷静になりました。ありがとう。 職員皆で「今日はトクベツだよ」 と言い合いながら、ジャンバーを着せ、 おやつを食べ、歌いながら 保護者の方々を待ちました。 笑っている子どもたちの顔をみた、 保護者の方の表情は忘れられません。 私の一番古い記憶は、日本海中部地震です。 彼らの一番古い記憶は、今回の地震でしょう。 少しでも、この地震の記憶が彼らにとって 心苦しい物でありませんように。 (とき)
千葉県で小児科医をしています(勤務医)。 その日は診察中でした。入院させる こども(小学校高学年の女児)に 点滴をとりつけてテープで固定した瞬間に 揺れ始め、だんだん強くなってきて‥‥。 彼女の母親は入院手続きに出ていたので 診察室には彼女と二人。 とりあえずベッドにあったタオルケットを かぶせて頭のまわりに枕を置いて。 そのうちベッドごと動き始めてしまったので (搬送もできるよう ストッパーはいつも外れているのです)、 私もベッドに乗ってタオルケットで くるんだ彼女を抱き抱えました。 自分の体重でベッドを固定できるかと 思ったのもつかの間、 ベッドごと揺れで動き出してしまいました。 幸い広い診察室だったので ものにぶつかることはありませんでした。 同じころ新生児室では、やはり動き出した 新生児用のベッド(コットやクベース)に 医師と看護師がしがみついていたそうです。 (やぶい)
前日(3月10日)、 第2子になる娘を出産しました。 地震が来た時間は義父が娘を見に 来てくれていたところでした。 免震構造のしっかりした病院だったので 船のようにゆっさゆっさと揺れる病室の中で コットに入ったままの娘はガラガラと右に左にと 揺さぶられましたが 目覚めることもなく泣くこともなく すやすや眠っていました‥‥。 「大物になるな」という 義父の一言が印象的でした。 一方当時2歳の息子は その時間保育園にいました。 (息子は当時はまだ診断されては いなかったのですが発達障害があり、 周りのことに興味が向かず ただ1日をぼーっと過ごす毎日でした。 親がいてもいなくても全然平気な 感情を見せない2歳児でした。) 地震が起こったときは教室の中、 いつもどおり過ごしていたようです。 先生があわてて息子を抱き上げて 園庭へ避難し無事でした。 外ではほかの園児が恐怖と不安で 泣いたりぐずったりする中 表情も変えずにいつも通り 先生に抱かれていたようです。 私の父母が慌てて保育園にお迎えに行って、 息子と顔を合わせ、母が抱き上げた途端に、 「ぎゃ〜〜〜」と泣き出したそうです。 「この子も感じられるんだよ、 家族がわかるんだよ、大丈夫」と 何度も何度もようやくつながった電話先で 母が泣いていたのが印象的でした。 世界が悲惨な状況に置かれる中、 息子の将来がほんのちょっと、 針の先ほどの光が見えた 印象的な出来事のあった日、 それが私にとっての3月11日です。 P.S 4歳になった息子は発達障害ですけど 毎日家族に笑顔を与えてくれる太陽です。 (ステテコ母さん)
当時娘は小学校6年生でした。 両親共働きで日中は家族バラバラですが、 学校にいたお陰で ひとりで震災に合わずに済みました。 でも、先生の引率のもと集団下校で帰宅した後は 自宅にひとりぽっち。余震は続くし、 両親とは連絡が取れないしで、 心細い思いをしていた時、同じマンションの人が 様子を見に来てくれました。 その方とは、普段会えば話しはするものの、 その家の子とは学年が違うため、 そんなに交流はありませんでした。それでも、 「きっとひとりでいると思って。 良かったらうちにいれば?」と、 気にかけて下さったのです。 夕方、どうにか自宅に戻れた主人は、 ドアに貼られた「○○ちゃんちにいます」という 貼り紙を見て座り込むほど安心したそうです。 父娘が自宅に戻って少しすると、 今度は近所の幼馴染みの男の子が ふたり、訪ねて来ました。 主人と一緒にいることを知ると 「とーちゃんがいるなら安心だな」 と言って帰って行ったとのこと。 日頃、働いていることもあってか 地域との関わりが薄いと思っていましたが、 なにかあった時に気にかけて下さる人がいる。 そんなことに改めて 気づかせてくれた出来事でした。 それ以来「困った時はお互いさま」という言葉が 私の心の中に刻み込まれ、 あの日の感謝の気持ちを忘れずに、 私も誰かを気にかけてあげられる人で ありたいと思うのです。 (母は帰れず会社泊)
こんな内容は、被害に遭われた方に 申し訳ない気持ちでいっぱいですが、 投稿させていただきます。 当時小4だった娘は、 学校からの帰宅途中で地震が起きました。 余震もおさまり、家にいた私が 迎えに出ようとしたまさにそのとき 帰って来た娘は、開口一番 「こわかったよー、 フラフープやってるみたいに なっちゃたよー」と。 フラフープ‥‥ あまりの揺れに一歩も動けず、 転ばないようにしようとその場で両腕を広げて、 バランスを取らざるをえなかったらしい。 被災したわけではありませんでしたが、 家の中はめちゃくちゃ、計画停電など つらく苦しかった思い出しかないなか、 唯一、くすっと笑ってしまったできごとでした。 (つきまま)
2月に2歳になったばかりの息子の、 4月からの保育園入園グッズを 作っているときでした。 すぐに二世帯の義母スペースに行き、 テレビで故郷の惨状を知るや、 すぐさまメールでの連絡要員となった私。 状況がわからない友人、 親戚とのやりとりにあけくれ、 ふっと気がついて慌てたら、我が子の笑い声。 義母がDVD見せながら 一緒に踊っていてくれました。 高齢出産での大切なひとりっこ。 衛生が、育児の常識がと難癖つけて、 預けることも離すこともできなかった我が子。 初めて、 その我が子の存在を忘れた日でありました。 初めて、 お婆ちゃんに任せ切った日でありました。 状況を認識できずに、故郷思う母の涙を 不思議そうになでて 「かっかん、かっかん(おかあさん)」 と繰り返していました。 覚えていてほしくないけど、覚えていて欲しい。 (まにちゃん)
息子は、保育所の年長さんでした。 私も主人も偶然家にいて、テレビをみていたら 地鳴りと揺れがきた途端にテレビが消えました。 二度目の揺れの後、 歩いて息子を迎えに行きました。 外遊び中だったそうで意外に冷静でした。 携帯が使えなかったので、帰宅してから 拠点病院で看護師をしている シングルマザーの友人に連絡をとり 彼女の娘を預かる事にしました。 東北ほどではないけど津波が来たのを 電気が復旧してからテレビで知りました。 今にない体験と恐怖を味わいましたが、 看護師の友人たちの 「何時に帰れるかわからない。 家族はいったん忘れる事にした。」 というプロの言葉が忘れられません。 (かーこ)
震災の日、横浜の外れの保育園にいた 1歳2ヶ月弱の娘は、近所に住む 実家の母が連れ帰っていてくれました。 彼女は、生まれて初めて両親と離れて 夜を明かすことになりました。 疲れた様子で寝入ってる娘は、 早朝実家に戻った私が小さく声をかけると、 ばね仕掛けのように飛び起きて、 「マミイ!」と叫ぶと、泣きもせず、 ぎゅっと抱きしめていました。 それから数日は、トイレにも ついてくるほどべったりでした。 両親に前夜の様子を聞くと やっぱり泣きもせず、食べもせず 飲みもせず、緊張した面持ちで手持ち無沙汰に 遊んで過ごしていたとのことでした。 添い寝していたおばあちゃんに寝ぼけて 「マミイ!」と おっぱいをねだっていたそうです。 (たばきち)
2年前の3月11日、 福島在住で息子は1歳8ヶ月でした。 その日は午前中から息子を連れて、 友達の出産祝いをするために 友人宅へ赤ちゃんを見に行きました。 1ヶ月検診を終えたばかりの 小さくてフワフワな赤ちゃんを見て、 息子はニコニコしていました。 そんなほのぼのした帰り道、あの凄まじい揺れを 私と息子は車の中で感じました。 運転していた私はタイヤが滑る感じがして 路肩に車を停めた瞬間でした。 今まで生きてきて体験した事のない揺れでした。 幸いあの揺れの中でも爆睡していた息子を チャイルドシートごと抱え込んで 私は頭の中が真っ白になりました。 その後、しばらく動けなくなり 車の中でテレビを見ながら、自分の 今やるべき事の優先順位を必死で考えました。 その後の5日間は、 とにかく必死に生きていたと思います。 食べ物も水もお風呂もオムツも制限されて、 いつガソリンと灯油が底を尽きるか 不安だけの5日間でした。 息子にはいつも通り接することを 家族みんなで意識してはいたものの、 息子は普通じゃない状況を感じていたのか 3月13日の夜に熱を出しました。 被災者優先のため病院も 子供の熱ぐらいでは受け入れてくれず、 新幹線が復活した3月15日に 私の実家に息子と二人で避難しました。 あの日から2年、 私達はまだ実家でお世話になっています。 1歳8ヶ月だった息子も、この4月から 実家近くの幼稚園に通わせる事にしました。 あの日の揺れの恐怖、その後の不安な 5日間の事は全く覚えていない息子ですが、 なぜ父親と離れて暮らさなくてはいけないのか 理解できずに何度も泣きました。 今では半ば諦めて週末父親が 福島県に帰って行くのを見送っています。 息子と父親の関係に不安を感じ、 家族で話し合って来年には 福島県に戻る予定でいますが、 結局福島県で過ごした期間より実家にいる期間が 長くなってしまった息子にとって、 戻った後も、また試練がまっているかと思うと 震災の影響はいろんな形でまだまだ続いています。 (はるきよ)
私は神戸で被災しています。 311の瞬間は神戸の記憶が蘇り、 身体が硬直しました。 しばらくして、ハッと我に返りました。 1歳の娘を保育園に迎えに行かなければ。 そこから10キロ程の道のりを テクテク歩きました。 道中、神戸にいる母が何度も何度も メールで励ましてくれました。 震災に怯える子どもの私と、 娘を迎えに行かなければならない、 という母の私が交錯する道中でした。 (ゆか)
都内在住在勤。子が1才1ヶ月。 産休明け復職1ヶ月目のことでした。 「余震がある可能性が高いので 会社に留まるべきだ」 という皆の静止を振り切り、 15時前には会社を飛び出しました。 保育園、保育のプロに 預けているのだから大丈夫。 そう信じていましたが、明るいうちに 自力で動かずにはいられなかったのです。 発生直後だったため、帰宅難民ラッシュ前に 移動でき約3時間で子と合流できました。 子は幼すぎて、 あの日のことは記憶にないはずです。 記憶に残ってはいませんが、 その後の彼の人生に、 この地震は大きな影響を及ぼしました。 当日「お前が帰ってるのなら、 俺は帰らなくていいだろう」と夫は会社に留まり 私は乳飲み子を抱え眠れぬ一夜を過ごしました。 その後も 「職場から徒歩1時間圏内」への 引越を譲らなかった私と 「百年に一度のことなのに」と呆れる夫は あの日のことをきっかけに離婚したからです。 (z)
その日の午前は、しばらく続いていた 体調不良で婦人科に行きました。 驚いたことに、 おなかの中には赤ちゃんがいたのです。 私は独身でした。 妊娠を素直に喜べない。モヤモヤした気分で 会社を休んで家でぼーっとしていると あの揺れが。怖い! 机の下に潜り込み、おなかを丸めて、 自然と言葉が出てきました。 「大丈夫だよ、大丈夫。 ちゃんと守ってあげるから大丈夫」 怖かったけど、不思議と体の真ん中が 温かだったのを覚えています。 私はひとりぼっちじゃない。 守り、そして、守られている。 あの地震があったことで 息子を大切に思う気持ちを しっかりと両手に掴むことができました。 今、息子、1歳半。私、独身。 つまり母子家庭です。 大変なことは多いけど、私は大丈夫です。 (でごきゅう)
3月11日。@千葉県。 私は徒歩20分の場所へ パートの仕事に行っていました。 軽度発達障害のある22歳の長男はニートで 築約30年の社宅の3階にいました。 地震の直後、ようやく通じた電話に 「災害伝言ダイヤルあるでしょ? ちゃんと見て」との返事。 無事を確認し、 それでもすぐには帰れず8時頃帰宅。 幸い大きな被害はありませんでした。 玄関のスチールのドアは開いたまま。 観音開きの食器棚は、 扉が開かないよう紐がかけられていました。 棚の上などの物は、 余震で落ちたら危険とすべて床に。 さすがに寒くてリビングのドアは閉めましたが、 何かあっても割って出られるから、 と家にあった木刀(元剣道部)を ずっと抱えていました。 ずっと二人でテレビの前に。 時々「母さん、寝ていいよ。俺がいるから」 と言ってくれましたが、眠れませんでした。 夫は社用車で埼玉にいたため、帰宅は翌朝。 ふだんはぼーっとしている長男が、 これほど頼もしく感じたことはありません。 今でも「あれだけできるのに、なんで 社会に対応できないのか」と夫と話します。 そして、本人いわく 「俺でさえあんな大変だったのに、 発達障害の子はパニックになっただろうな」 おまえは何者だ(笑)。 (くまま)
2年前、長女6歳、次女4歳。 卒園式があって夫が休みを取っていたため、 「その時」そして、「その後」も 家族でそろっていることができました。 午後になって旅行のため神奈川県の自宅を出発。 行き先は福島県いわき市のハワイアンズでした。 高速道路で地震に遭遇しましたが、 最初は何が起こったかわかりませんでした。 運転している夫がハンドルを 取られているようだったので、 車のマシントラブルかと思いました。 しかし、看板などが揺れ、 周りの車も次々に止まり、 地震だとわかりました。 子どもたちは、「揺れてるね」 「大きい地震だね」という程度。 車を進めると、 三郷料金所が閉鎖になっていました。 おそらく1時間強、そこで足止めでしたが、 こどもはDVDを観ていました。 旅行気分だったのです。 その後、強制的にみんな柏で 高速道路を下ろされました。 その頃には旅行どころではないと わかっていたので、子どもに事情を説明し、 これから帰ることを伝えました。 楽しみにしていた旅行が中止になり、 不満でいっぱいの様子でしたが、続く余震に どんどん不安になっていったようでした。 親の私たちの様子もいつもとちがっていて、 子どもも感じ取ったのでしょう。 その後車がまったく動かなくなったので、 コンビニの駐車場で一夜を過ごしました。 余震は続いていましたが、子どもたちは途中 起きる事もなくしっかりと寝ていました。 自宅に戻ったのは翌日の昼ごろでした。 子どもたちは、予定とは違うけど 一泊旅行という感じでした。 余震にはおびえていましたが、 家族みんな一緒だったせいか、 今でもそんなに怖い記憶としては 残っていないようです。 むしろ、その後にテレビで見た津波の映像や、 節電生活のほうが印象にあるようです。 (まだハワイアンズには行けてない)
3月8日に初めての妊娠が発覚。 子供はまだエコーにも映らず、 ただ子供を包んでいる胎のうという 袋が映るだけでした。 妊娠5週、 まだ1mmにも満たない大きさだったと思います。 それから数日後に地震。 交付されたばかりの母子手帳の入った鞄を持ち、 慌てて4階から階段を降りようとしましたが、 転んだら大変だと思い、 踊り場で揺れが収まるのを待ちました。 焦っていましたが、他のお母さん方が 子供を連れて建物の外に逃げているのを見て、 しゃんとした気分になりました。 私もお腹の子を連れて逃げないと、 子供を守るんだ、と 初めて強く意識したのがその時です。 夜、なんだかお腹が痛くなり、トイレへ。 けっこう出血しているのを見て、 頭が真っ白になりました。 産科に行こうにもひどい渋滞で、 車が帰ってこないため 派遣できる車がないということで、 タクシーはどこも断られます。 電車が動かないため、 夫は都内の勤め先から帰れません。 東北に住む母や祖母とは連絡がつきません。 病院に電話すると、この週数での出血の場合、 急いで病院に来てもできることは あまりないと言われ、翌朝まで 家で安静にしているように勧められました。 一人で揺れる暗い天井を見つめて、 お腹に力を入れないように 一生懸命脱力していました。 翌日になってもタクシーは断られ、 出血も続き、不安もピークに。 藁にも縋る思いで、 電話帳の便利屋さんに電話しました。 本来の業務ではなかったのでしょうに、 こころよくトラックを出してくれました。 どうにか受診しましたが、 胎児が小さすぎてまだ心拍があるかどうか エコーで見ることができません。 心拍を見ないと、胎児が生きているかどうか わからないのですね。 それから心拍が見えるまで十日あまり、 不安な日々を送りました。診察室には 「日本の危機です。一丸となって、妊婦さんに 不安を与えないように頑張りましょう」 という院長先生の訓示が貼ってあり、 涙が出そうでした。 計画停電で診療が中止になったりと混乱が続く中 産科のスタッフの皆さんはもくもくと、 必要な仕事をこなしてくださっていました。 ようやく心拍を確認できたのが確か、3月22日。 診察台の上で泣きながら万歳しました。 エコーの不鮮明な画像の中、1mmもない心臓が、 点滅するようにぴこぴこと動いていました。 その時の娘は無事に生まれ、 1歳4ヶ月になります。 よく笑い、よく泣く娘です。 大きくなったら 必ずこの時の話をするつもりです。 助けてくれた人のことや、 必要な仕事をこなすことで 妊婦さんたちの世界を回してくれていた、 病院の人たちのこと。 不安に負けずにいられたのは、 あなたと一緒だったからだよ、ということを。 (ぎょもこ)
趣旨がずれてしまうのですが、 こどもからみた 親の話を送ってもいいでしょうか? うちの父は2年前の3月に 定年を迎える予定でした。 本当に仕事一筋で生きてきたので、 辞めたら死ぬんちゃう? などと からかっていたところの震災でした。 「福島に行ってくるね。 名簿に入れてもらった」と言い出したのは 3日目くらいだったでしょうか。 まだ原発に海水をどうのと 言っていたころだったと記憶しています。 父の職場から派遣された第一陣が、 電気も水道も止まっている状態で、 何もできずに帰ってきたこと、 それは多分、父なら何とかできたこと、 なにより、父自身がずっとだまって、 涙を流しながらテレビをみていたことを 知っていたので、 「来たか」と思ったけど何も言えませんでした。 震災直後に兄から連絡があり、 万が一親父が行くって言い出したら、 お母さんは行ってらっしゃいって言うだろうから、 お前が止めろ、と命令されていたのですが、 何も言えませんでした。 結局、年寄りはいらんということで、 父は外されたのですが、 あの情報も、交通手段も何もない混乱の中で、 実際に被災地に行き、働いたみなさんには、 送り出した家族がたくさんいることを、 きっといろんなこどもが、 どうしようもなくお父さん、 お母さんを送り出したことを思うと、 苦しくなります。 あれから2年、定年を迎えたはずの父は なぜかバリバリ働いています。 今年の夏はまとまった休みがとれそうなので、 家族で福島に行こうと計画しています。 今さらかもしれませんが、父と一緒に 「できることがあったのに、 何の力にもなれなかった」という後悔の場所を しっかり見てきたいと思います。 (キタノショウ)
海外に住んでいます。 生後5ヶ月になる息子と二人きりでの 初めての里帰りのときに震災は起こりました。 被災地から遠く離れたところだったため、 直に震災の影響を受ける事はありませんでしたが 自分と同じように小さなお子さんを抱いている 被災地のお母さん達をテレビで見ると 涙が止まりませんでした。 あれから2年、毎年、この時期を選んで 息子と里帰りしています。いつか息子に、 あの日、自分たちは日本にいて、 たくさんの命が奪われたこと、 お母さんはその人達のこと、忘れたくなくて、 忘れてないよということを伝えたくて、 春になると日本に帰るんだよ、 ということを伝えたいです。 そして、今年も息子と二人で帰ります。 (杏)
あの日は、かつての職場の仲間達と 久々にランチでも‥‥と 子連れで新宿に集まっていました。 わたしは次女(当時三歳)と一緒で、 友人の中にはまだ生後六ヶ月くらいの 赤ちゃんを連れて来たコもいました。 久しぶりの再会に話題は尽きず、 大いに盛り上がっていた時、地震は起きました。 テーブルの上のグラスが倒れた瞬間に これはただ事ではないと思い、 それぞれにこどもを抱えてビルの7階にあった そのお店から非常階段で地上に出ました。 その後は、帰宅難民という状況に陥り、 友人二人とそのこども二人、わたし達の六人で カラオケボックスで朝まで過ごしました。 度々起こる余震の中‥‥ 頭に浮かぶのは、こんな時に 離れて夜を迎えてしまった長女の事‥‥。 もし、また大きい地震が来て‥‥ このまま長女に会えなかったら‥‥と思うと 不安と恐怖で叫びたい気持ちを押し殺して、 ひたすら朝を待ちました‥‥。 やっと電車が動きだし、無事に自宅に帰り着き、 まだ眠っていた長女の寝顔を見た瞬間、 張り詰めていた糸が切れて、 おいおい泣いてしまいました。 手を伸ばせば我が子のぬくもりを 感じる事が出来る‥‥ それがどんなにしあわせなことか‥‥。 あの時、心からそう感じました。 (シモーヌ)
広島は、揺れませんでした。 職場でつけられていた テレビで状況を知りました。 当時、小学校1年生の息子。 学校から帰って家で1人留守番をしていたときに めずらしく携帯に電話がかかってきたので、 でてみると、 「東北で地震だって。じいじ、大丈夫かな‥‥」 岩手に住んでいるじいじを心配する電話でした。 「大丈夫。あのじいじだから、心配ないよ」 と言って電話を切りましたが、 ひっきりなしにテレビから流される映像を見て ますます不安になったようで、それから2回、 同じような内容で電話がかかってきました。 岩手のじいじとは連絡がつきません。 息子のことも気になり、 いつもより早めに職場から帰宅しました。 繰り返し流される映像の中に、 見覚えのある場所があったこと、 何度電話をかけてもじいじと 連絡がつかないことを不安に感じながら その日、息子は眠りました。 「生ぎでっつぉお」 と、力強い じいじの声を聞いたのは、 津波発生から2日たった13日の昼すぎ。 息子にもやっと笑顔が戻って、 安心したようでした。 (ふるきち)
ほぼ日手帳の無償提供を受けた者です。 その節は、どうもありがとうございました。 今年の手帳は、あの日使う前に無くしてしまった カズンspringにしました。 今年こそ、カズンを使いますよ。 さて、私には子供がいませんが、姪が二人います。 ひとりは、当時、1歳6か月で、 私の母と実家にいたところ地震遭遇。 母が家具のない廊下へ姪を抱きかかえ出て、 本震を耐えたそうです。 しかし、本震以降も続く余震の中、姪は 「下ろせ! 遊ぶのだ!」 とじっとしていてくれません。 しかたがないので、母は掘りごたつの中に 潜り込み、おもちゃを引っ張り込み、 そこで姪を遊ばせつつ過ごしたそうです。 姪は動き回っていたため、揺れに気付かず、 地震を怖がることもなかったみたいです。 もうひとりの姪は、3歳5か月。 幼稚園で地震遭遇し、 みんなも自分も泣いた、と話していました。 震災からの1か月、どうして私が 実家にいるのかと何度も聞いてきた姪。 だんだんと、津波で私の家が流出したことを 彼女なりに理解したようです。 印象的だったのは、震災翌月の夜中に かなり大きな余震があった後に言った 「○○ちゃん(私のこと)のおうち、 綺麗になって戻ってくるよ!」という言葉。 津波で流された家は津波で戻ってくる という発想に、子供ってすごいと思いました。 (ジェレミー)
福島市に住んでいます。 震災の日、12階にある不妊治療クリニックまで、 ひたすら暗い階段を上りました。 私たち夫婦の受精卵は、病院の先生が、 非常電源に切り替えてくださったおかげで、 震災を乗り越えました。 それから2年、一昨日、無事、 待望の赤んぼちゃんが生まれました。 福島で生まれ、福島で育ちます。 (イソロクちゃん)
あの時わたしは、長野で大学生をしてて、 家族は岩手県宮古市にいた。 一週間あまり、連絡が取れなくて、 正直覚悟はしてた。 その覚悟は、わたしはわたしの身体を護ろう、 しっかり命をつなごうという覚悟だった。 その前の正月に帰省した際に家族で笑って テレビみたりご飯食べたりして、 きっとお父さんもお母さんも いつ死んでもいい位精一杯楽しく生きてた っていう確信もあった。 連絡が取れた時に、初めて涙が出て、 子供みたいに声を出して泣いたのを覚えてる。 ずっと忘れない、ずっと覚えてる。 こういう企画をしてくれて ありがとうございました。 初めて、言葉にしてみました。 (さなえ)
茨城県在住です。 あの日、私は仕事で車を運転中でした。 信号の手前でタイヤがグニャっとし、 ハンドルがとられた感覚がありました。 「パンクかな?」と思った途端、激しい揺れ。 私も周りの車もハザードを付け緊急停車。 目の前の歩道橋がグニャグニャと揺れていて 崩落するかと思いました。 これはただ事ではないと思い、 授業中である娘(高3)に電話をしましたが 全く通じません。少々パニック気味の私‥‥ 娘の高校は校舎が古いのです。 最悪の事態を考えました。 娘と夫と実家と交互に電話をしていたところ、 母と電話がつながりました。やはり古い家の為、 倒壊を心配しましたが、のんびりした声で 「大丈夫よ」と言う母の声に救われました。 急いで娘の高校に向かうと、 校庭にたくさんの人、人、人。 校庭で生徒達は皆うずくまっていました。 寒さで震えていました。 娘はべそをかいているように見えました。 17歳、半分大人と思って接してましたが、 まだまだ子供なんだな‥‥と思いました。 母の声に安心した私もまた然り。 (ブルーバンビ)
当時の上司と娘さんの話。 私の上司は気まぐれで自己中で、 面倒なオヤジでした。 そんな上司が震災の数日後にぽろりと言ったのは 「この震災で唯一良かったことは、 半年間、口をきいてくれなかった 娘と話が出来たこと!」 聞けば、地震の直後に会社から娘さんの高校へ 2時間歩いて迎えに行き、 さらに一緒に2時間歩いて帰りながら、 部活の話などをしてくれたんだそうです。 無表情ながら嬉しそうだった上司。 娘さんにとっても、あんな人は 面倒なオヤジだったに違いありませんが、 非常事態に迎えに来てくれて、 嬉しかったんでしょうね。 娘さんとは再び冷戦状態らしいですが、 不謹慎ながら、話をしながらの帰り道は 彼女にとっても良い思い出に なってる気がします。 (ねむこ)
ニュージーランドに住んでいます。 偶然なのですが、ウチの インドネシア人のお隣さんは NHKを受信しているほどの親日家です。 あの日のニュースは、 彼が「大変だ! 日本に地震が来た!」と 駆け込んできてくれたおかげで知りました。 テレビをつけると、地上波の通常のプログラムは キャンセルされ、ライブ映像が流れていました。 当時8歳だった娘は、仙台空港が水浸しになり、 屋上で助けを待っている人たちの映像を見て 「信じられない」と言い、 部屋の地図で仙台の位置を確認していました。 数日後、娘が学校から帰ってきて言うには、 被災者への募金活動を呼びかけた、とのこと。 折りしも当地ニュージーランドは クライストチャーチでも 大きな地震があったばかりで、国内でも 地震のニュースは深刻に受け止められており、 協力してくれるお友達もたくさんいたようです。 それからしばらくはポスターを作ったりして 募金活動も活発に行っていました。 集めたお金は赤十字を通じて日本へ送りました。 (海の王様)
私には子供はいません。 あの日、仕事中に地震に遭いました。 直後から停電になり、 自宅が電車で一時間かかる私は 友人と途方にくれていました。 幸い家の近い同僚の家に寄せていただき、 そこに彼女のお姉さんの子供がいました。 実は私、子供が苦手‥‥というか、 どう接してよいかわからず、 でもなるべく笑顔で接していましたが、 少し障害があるというその子はニコニコと笑顔で 私の近くに寄って来たりしていました。 何度も繰り返す余震と緊急地震予報に 度々家の外に避難しましたが、 あの日はとても寒く、着の身着のままの私たちは 恐怖と寒さで文字通りガタガタ震え、 でも努めて笑顔でいました。 するとその子供がスッと私の手を取り、 ぎゅっと握ってくれたのです。 こんな小さな、初めて会った子供を 安心させてあげるどころか、 自分がなだめられているのだと思うと、 今でも自分が恥ずかしく、 情けなく思ってしまいます。 相変わらず今でも子供が苦手ではあるのですが、 震災前より少し、子供に対する考え方は 変わってきたのではないかと思います。 今さら産めるような年齢では なくなってしまいましたが、自分に子供がいたら どうだったかな、と思うこの頃です。 (ひよん。)
東京に住んでいます。 当時、小学2・5年だった娘たちが そろって不登校となり 数ヶ月たった時に起きた大地震でした。 津波の映像を静かに見る二人‥‥ その後ろ姿を見ながらこうして家に居る‥‥ それで充分‥‥と思いました。 続く余震、放射能の問題もすぐに出てきて、 それが、娘達の将来への心配と重なって、 この先どうなってしまうのかと 不安で不安で仕方ありませんでした。 その後、復学支援機関によって 二人とも学校へ戻ることができ、 毎日元気に登校しています。 3月11日、あの日のことを思うと、 不登校だった娘達の姿も浮かんできます。 (よつばのクローバー)
あの日、東京に暮らす次女と ライブの為に上京した三女はお台場にいました。 二人でファストフードのお店にいるときに 地震がきたそうです すぐに長野県にいる私に 無事を知らせるメールが届きました。 非常時ではあるものの、 二人でいてくれたのが幸いでした。 駅に向かったものの電車は動かず 緊急避難所も、あの3月にしては寒かった日に 海浜の公園で、とても居られず、 歩いて自宅方向に向かう途中で 帰宅困難者に学校が解放されている事を知り、 体育館で一夜を明かしたそうです。 思いの外人が少なく、布団も毛布も 2枚づつ借りられてゆっくり休めたとは ちゃっかり三女の言でした 翌日なかなか正常化しない交通機関に業を煮やし 高崎まで三女を迎えに行きましたが、 次女は仕事があるからと東京に残りました。 三女もまた昨年から東京に住む人となりました。 心配は尽きませんが、 あの日こんなにも自然の前では儚い命なら、 せめて悔いなく生きて欲しいと感じたことを 肝に命じて暮らしています。 (nora)
仙台市に住んでいます。 一人っ子の娘は当時、小学二年生でした。 掃除が終わり、階段を登っていた時に 揺れが始まったようですが、 全く気づかず教室に入り 担任の先生に机にもぐりなさいと言われ やっと揺れに気づいたそうです。 祖母が学校へ迎えに行き そのまま2人で避難所へ避難しました。 その日は父親は秋田へ出張、 母親である私は公務員なので地震対応で拘束され 迎えに行くことができませんでした。 娘には、日頃から何かあれば私は帰れなくなる事 学校へは祖母が迎えに行くので 行動を共にする事を伝えてありましたが、 実際、事が起きてみると連絡が取れないので 娘と祖母が一緒にいるのか、 どこに避難しているのかもわからず 心配でたまりませんでした。暗くなってから、 上司の配慮で一時帰宅させてもらい、 避難所を探し回りやっと娘と再開できました。 その時、娘は停電で真っ暗な避難所の部屋の中で ひとりぼっちでポツンと椅子に座っていました。 一緒にいるはずの祖母は、 地域の一人暮らしの高齢者を避難させるため 駆り出されていたのでした。 生きてて良かったと抱き合い、 でもすぐに職場に戻らなければならず、 娘を1人残して後ろ髪を惹かれる思いで 避難所を出る私に娘が、 「○○○は大丈夫だから、 がんばってね。」と一言。 お友達は家族と一緒にいるのに、 子どもが不安がっている時に 一緒にいてあげたくてもいてあげられない。 でも、幼いながらにこの子は、 私の仕事とこの大変な状況を理解してくれ、 わがままも言わず我慢してくれている。 本当にありがたくて涙がでて、 そして少しだけ気持ちに余裕ができました。 娘は小学四年生になりましたが、 小さい地震でも飛んで来て私にしがみつきます。 その様子に、ポツンと椅子に座っていた姿と共に 実はあの時どれほどの不安と 闘っていたのかを考えるのです。 (イタグレと黒ラブ)
当日、19歳の娘はスクールバスの車内で 出発を待っていたそうです。 大きな揺れが収まってしばらくした後、 バスは通常通り出発をしました。 道路は大きな混雑も混乱もなかったようです。 家についた彼女は猫の安否を確かめ、 私と連絡を取ろうとしました。 その間、大きな被害もないので 家にとどまり、家にある大きな容器に 水を貯め始めました。 我が家の決まり事で、災害が起きたら とりあえず水を貯める、となっているからです。 やっと電話がつがながったのは数時間後でした。 その際、お互いのツイッターアカウントを開放し 今後はそれで連絡を取ることを決めました。 当日、私は家には戻らず 職場で夜を明かしました。 翌日、家についてから私が家に帰るまで、 とても不安だったこと、 泣きそうになってしまったことを聞きました。 拠り所はツイッターで繋がっていた フォロワーさんたちだったとも聞きました。 皆さんに心配されたり、励まされたり、 情報をもらったり。猫を膝に抱え、 一晩中パソコンの前に張り付いていたそうです。 後に、あの時、ツイッターが繋がっていて 話をする人がいたから少し安心ができて 怖くなかった、と言っていました。 災害専用のホットラインとして お互いだけが知っている ツイッターアカウントを作りました。 たまにテストを兼ねてつぶやいています。 (白墨)
東京都の高校に勤務している20代の女です。 あの日は卒業式の翌日でしたが、 生徒たちは放課後で部活動に励んでおり、 地震のあったときもたくさんの生徒がいました。 体育館に生徒を集合させて、 帰れる生徒は帰ってもらいましたが、 電車もとまって帰れない生徒たちと一緒に 学校に泊まることになりました。 学校には生徒の居場所を問い合わせる電話や これから車で迎えに来るという保護者の電話が たくさん鳴り響いていました。 私自身もつながらない携帯電話で自分の家族に 念のため居場所を伝えておこうとしましたが やはりダメ。しばらくして夜になり、 「電話だよ」と呼ばれました。 電話口に出ると、わが父。 心配すぎて学校にかけてしまったそうです。 私は仕事柄生徒を守ったり 地域の人を支援する立場なので、 せっかく心配してくれた父を そのとき怒ってしまったのですが。 でも、今、私のお腹の中には子どもがいます。 今になって考えれば、たぶん、いくつになっても 親にとって子どもは子どもで心配で仕方なくて、 携帯電話よりはつながりやすい固定電話で 学校に電話をしてしまったのでしょう。 これから親になる身として、 家族を大切にする姿を見せてもらったのは ありがたい機会だったなと思っています。 (るー)
私たち家族は 福島県南相馬市小高区に住んでいました。 主人の両親と私たちの6人家族でした。 主人と私は仕事。長女は小学1年生で学校に。 次女はまだ3歳で家に爺婆と3人でいました。 長女は学校で帰り仕度を している途中だったそうです。 先生の指示で机の下にもぐり、 その後校庭へ避難。 町の防災無線で小学生を迎えに来て下さいと 放送したそうで、お迎えの人が来るまで、 校庭の真ん中でみんなで待っていたそうです。 あまりの地震に泣きだす クラスメイトもいたそうです。 次女は地震が来た時は隠居で遊んでいました。 お婆ちゃんにコタツの中へ 押し込まれたそうです。 その後、爺ちゃんの車の中に乗り、 お姉ちゃんを迎えに小学校まで行ったそうです。 主人も会社から一度、様子を見に帰宅しましたが 小学校から帰ってきた子供たちをみて安心し、 すぐに会社へと戻って行きました。 私は地震から1時間後、崩れた道路や ひびが入っている道路を通り帰宅しました。 いつまでも余震が続くので、 家の中では怖いという婆ちゃんと子供たちは、 後部座席をフルフラットにした 車の中で過ごしました。 私と爺ちゃんは少しでも‥‥と家の中を片付け。 台所も滅茶苦茶だったので、 その日は買い置きのカップめんで夕食。 寝室の電気が、敷きっぱなしだった 布団の真上に落下していて この余震の中、ここで寝るのは危険だと考え 居間に布団を敷いて子供たちを寝かせました。 次の日、自宅は原発事故の避難地域へ指定され 子供たちはその後2年間、 一度も自宅へ戻っていません。 長女は震災以降、ちょっとした物音でも 大袈裟なくらい驚きます。 次女は震災からしばらくの間、 私から片時も離れませんでした。 私がトイレに立つのもついてきました。 食事を作るから、爺ちゃんに抱っこしていて、 と言っても泣いて 「お母さんじゃなくちゃいやだ」と言います。 理由を聞くと 「おっきい地震が来た時、 お母さんいなかったでしょ? また地震が来たら、 お母さん、だっこしてくれる?」と。 その後、どんなに小さな余震でも 抱きしめてあげるようにしたら 少しずつ離れられるようになりました。 6人家族だった我が家は、現在3人です。 爺婆は「会津は寒くて暮らせない」と 南相馬市の仮設住宅へ入居しました。 主人は仕事の時は 仮設住宅から会社へ通っています。 休みの前日の夜中にやってきて、 朝食と夕食を子供たちと食べ、 一緒にお風呂に入り、 子供たちが眠ってから南相馬へ帰って行きます。 自宅は「避難区域」から 「居住制限区域」とやらに名称を変え 立ち入りは許されていますが、 泊まることも許されず水道も止まったままです。 ゴミも捨てることは許されていません。 2年たっても復興どころか、 家の片付けすらすることができていない。 子供たちの心も完全に修復は できていないと思います。 それでも、子供たちはここ会津で友達を作り 南相馬市ではできなかった スキーや雪遊びを楽しみ、話す言葉も、 相馬弁より会津弁のほうが多くなってきました。 子供ってすごいなあ! どんな状況だって、成長して、 色々なことを吸収している。 私も子供を見習って、 前向きにいこうと思っています。 (のん)
その日、私は父の容体が悪化していたために、 数日前から千葉の市原市に里帰り中。 もう長くないと言われていた父のそばで、 揺れを感じました。 部屋に運び込まれた医療用ベッドの上で もう軽くなっていた父が跳ね上がりました。 尋常でない状況にすぐに 自宅のある東京に戻ることにしました。 兄の運転する車の中からかけた電話で 下の子は無事に学童に着いていることが確認でき 娘も同じマンションに住む同級生のお宅に 預かってもらえることになりました。 車の中からはコンビナートで燃える 火災の炎が見えました。 結局その日は鉄道が動かなくて実家にまい戻り、 復旧を待つことに。 停電の影響はその時はまだなく、 父にきちんと酸素は供給されていて 安堵したことを覚えています。 次の日の夕方になって帰る目処がついたので、 父に「子供達が心配だから一旦戻るね」 と伝えると、父は静かにうなずいてくれました。 それが父との最後です。安心したのでしょうか。 それから間も無くして息を引き取りました。 あの日、それは 私の子供時代が終わった日でもあります。 (ゆう)
夫とわたしは 8か月の息子と一緒に散歩していて、 息子は夫に抱っこされて寝ているところで、 歩道のいろんな人が ストップモーションみたいになって、 空気はウワンウワンしている (ような感じがして)、 「死ぬかも‥‥」と思いました。 とりあえずゆれが収まったら、 息子が「‥‥もーなによー?」 って感じで目を覚ましたので、 両親が同時にプッと笑いました。 大きくなったら、 「震災のとき大した肝っ玉だったよ」と、 伝えたいと思います。 (ペロ)
当時息子は2才。 風邪気味だったので、日課の散歩には行かず、 家にいたところに揺れがきました。 テーブルに息子を抱えて潜り込みました。 突然の私の行動と、激しい揺れに泣き出す 息子を押さえながら、何も落ちてくるな、 早く止まってくれと祈るような気持ちでした。 揺れが弱まった所でコートを着て、 外出時に持つママバッグを背負い、 泣きじゃくる子供に上着を着せ、外に出ました。 車のチャイルドシートに子供を乗せ、 ラジオを付けると、 津波からの避難を呼びかけていました。 土足のまま部屋に戻り、 ありったけの紙オムツと 思いつくだけの着替えと食べ物を持ち、 車に戻り、運転席から子供を振り返ると、 眉間にしわを寄せて眠っていました。 近所のおばあさんに 「波がすぐそこまで来てる、逃げろ」と、 叱られるように声をかけられ、渋滞の中、 なんとか高台の公園に車をつけました。 私が逃げる場所ならここくらいだろうと 主人が見つけてくれ、 それから3日間、避難所にいました。 息子は、今、思うと現実逃避だったのか、 不思議なくらい、昼も夜も、 余震の中も泣きもせず、よく眠りました。 子供がいるということで、 たくさんの人が声をかけてくれ、 お菓子や果物を分けてくれました。 一年後の3月11日。 いつも通り過ごそうと決めて、 主人と息子は散歩がてら おやつを買いに行きました。 しばらくして、戻ってきた主人の手には パンパンに膨らんだスーパーの袋がありました。 知らないおばあさんにもらったと言います。 主人の会計中、息子に声をかけてくれた おばあさんが息子の手に持たせた、と。 いくらなんでももらいすぎだから、 と遠慮しようとしたら、 自分にも同じくらいの孫がいた、 写真の前に並べるより食べてもらった方がいい、 と話してくれたそうです。 袋の中はうちの子は勿論、その年頃の子供が 大好きそうなお菓子でいっぱいでした。 大きな音に敏感で、 地鳴りの度におろおろ泣きますが、 息子は元気です。大きくなりました。 今年も、明日は普通に過ごします。 いつか、避難所で受けた親切と、 なかよしの友だちになってくれたかも しれなかった子たちのこと、 話してみたいと思います。 (もぐもぐら)
3月11日当日ではなくて、 その後の思い出になります。 息子は小学校6年生。卒業式を控えていました。 私たちの地域は、計画停電の対象地区で、 卒業式当日が、2回目の実施日でした。 その日は、午前9時20分からと 午後4時40分からの2回実施予定で、 1回目はちょうどぴったり 卒業式と重なる時間帯。 計画停電は、実施されないこともありましたが、 その日は、確実に行なわれるという話でした。 体育館で始まった卒業式。 3月といってもまだ冷え込む体育館を 暖めるための大きなファンヒーター。 9時20分を過ぎても 電気が止まった様子はないので、 少しホッとしていました。 そして、「卒業生 入場」という声とともに、 6年生が入場を始めた、その瞬間に、 電気が、バチンと止まりました。 すべての照明と暖房が止まり、 一瞬だけ、小さなざわめきが起こりましたが、 すぐに、少し緊張した顔の 6年生が入場してきました。 卒業式は、なにごともなかったかのように 続けられました。 静かな雰囲気の中で、 よく通る先生と子供たちの声。 卒業証書授与のときは、 先生が控え目にピアノ演奏を続けて下さり、 お別れの言葉のやりとりも、 はっきりと聞きとることができ、 とても心に残る卒業式になりました。 あれから、もう2年が経つのですね。 3月、そして卒業式というと、 あの、バチンと電気が止まった瞬間と 静かに流れていたピアノの音を思い出します。 (スージー姫)
あの日の一週間後、子供が産まれました。 あの日は、よくお腹が張るようになっていて、 そろそろ産まれるのかな〜 と思っていた頃だったので、 最初、貧血か何かで自分が揺れているのかなと 思ったのを覚えています。地震だと気づいて、 避難できるようにと窓を開けて、 何も置いていない部屋の隅に、 守るようにお腹に授乳クッションを当てて 座り込んでいました。 この子は私が守らなくちゃ。 正直、仕事中の夫、北関東に住んでいる両親や 親戚や友達、他の人の事を 考える余裕はありませんでした。 お腹がぱんぱんに張って、アパートに一人で、 何が起きているのかわからない、 けど、絶対に、この子だけは私が守る。 それだけでした。 子供はもうすぐ2歳になります。 イヤイヤ期で毎日大変でうんざりですが、 あの時感じた強烈な気持ちは忘れられないなあ。 愛だったなあと思います。 いつか誕生日の一週間前に起きた出来事を、 ちゃんと話したいと思います。 その為にもいつまでも忘れないでいます。 (しの)
恐ろしさでいっぱいで娘を抱き寄せ、 お友達親子にもしがみついて ひたすら揺れが収まるのを待ちました。 幸い、そこは広場になっており、 物が落ちたり倒れたりする 心配はありませんでした。 園の先生の、気をつけてお帰り下さいとの 落ち着いたアナウンスがあり、 少し気持ちが鎮まりました。 帰りがけ、娘の好きな男の子が怖がる娘に 「次の地震のときは オレがそばにいてあげよっか?」 と言ってくれて、 子供ってなんて可愛いんだろうと、 ちょっと和みました。 (qの母Q)
- たくさんのメール、ありがとうございました。
- ありがとうございました。
-
どうやって締めればいいんだか、
よくわかんないですね。
- せやなぁ。
-
3月11日、たくさんの思いを、
ありがとうございました。
そういうことしか、いえません。
-
読んでくださったみなさんも含めて、
どうもありがとうございました。
-
また、なにかのときに、
シュッと復活します。
- そう、シュッとね。
- そのときまで、「ほぼ日&こども」‥‥。
- またねー。
「こども ビームス」さんと、
母子手帳ケースとしてもつかえる、
あたらしいタイプのカバーをつくりました。
なまえは、「&こども」。
つかいやすく、しかもおしゃれでかわいいカバーです。
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「ほぼ日ハラマキ あたためるもののお店」で
いま、子どもサイズのハラマキを販売しています。
これまで人気柄をピックアップしたり
人気のものを再生産して、WEBのお店に並べています。
おかあさんと子どもで、おそろいにもできますよ。
サイズがなくなってきているものもありますので、
欲しい柄があったらどうぞおはやめに。
この冬は、親子でしっかり、あたためよう!
)くわしくはこちらをどうぞ
2013-03-11-MON