「春の鎌倉でみちくさ」編  今回の先生/森昭彦さん プロフィールはこちら
名前その42 ヒメツルソバ
極楽寺駅から裏山へ向かっての、みちくさが続いています。
陽の光はうららかで、吹く風はここちよく。
住宅地の細い路地には、
コンクリートで護岸された小さな川がありました。
流れる水の音を聞きつつ歩いていた吉本さんが、
ふと足を止めます。


吉本 これは、なんですか?
こんなにいっぱい。
見たことはあるんですけど名前を知らなくて。
コンペイ糖みたいですよね?
そうですね(笑)、コンペイ糖みたいです。

吉本 なんていう名前なんでしょう。
これは、ヒメツルソバといいます。
吉本 ヒメ?
ヒメツルソバ。
吉本 ヒメツルソバ。

吉本 ソバの仲間なんですか?
そうですね、同じタデ科です。
もともとは中国南部とか
ヒマラヤ地方原産の人で、
ほんとは日本にいなかった人なんです。
吉本 あ、そういうところの出身だから、
こういう崖のふちみたいな場所に咲くんですか。

そうなんでしょうねえ。
かわいい植物で女性にも人気があるので
園芸店でよく売っているんですよ。
私も庭に何回か植えたことがあるんですけど。
吉本 どうなるんでしょう。
おっしゃった通り、
崖っぷちとか日なたが好きなので、
けっきょく庭から逃げ出してくんです。
こういうところに。

吉本 そうかぁ。
お庭の中より、こういう場所が好きなんだ。
でも、この方がきれいですよね。
よくわかってるんです、
自分がどこにいるべきなのかを。
吉本 すごくお似合いですよ、この場所に。

1960年代くらいから、
都市部を中心に野生化が進んでいって、
今はもういたるところで
見られるようになりました。
吉本 ああ、だから私も見たことがあるんだ。
ヒメツルソバは、
冬になると紅葉するんですよ。
吉本 紅葉。
それがまた美しいんです。
吉本 そうなんだぁ‥‥。
すごいねえ、きみは。

春の頃、ピンク色のボンボンを見かけたら、
それの名前は「ヒメツルソバ」。
覚えました?
覚えにくい名前かもしれませんが、
これがスッと言えたら、ちょっとかっこいいいですよ。
「あ、ヒメツルソバだ」なーんて。
よく見かけるみちくさなので、がんばって覚えてくださいね。

次の「みちくさ」は、金曜日に。
「春の鎌倉でみちくさ」編は、
火曜日と金曜日の更新でお届けしています。

 
吉本由美さんの「ヒメツルソバ」
 

ある年の5月、
郊外を自転車で飛ばしていたら、
古寺の石垣にピンク色のタピスリーが
吊してあるのを見つけた。
なんだろう。
近づいて見ると小さな花の集まりだ。
金平糖のような丸いピンク色の花がびっしりと咲いていて、
それがタピスリーを吊したかのように
石垣を覆っているのだ。
可愛らしいのでしばらく眺めた。
まったり感がなかなか素敵。
小さなぽんぽん玉は猫の耳かきに良さそうだ。
しかし不思議な気もしてきた。
周りに空き地はたくさんある。
そこではたくさんの草花が入り乱れて暮らし、
競い、春を謳歌している。
それが野に生きる草花のふつうの姿だ。
けれどこの金平糖たちは、
目の前にある空き地ではなく
わざわざ土のない石垣の上に一族だけで暮らしている。
ヨソ者の混じるのを許さない。
だからピンク一色に染まって
織物のように見えるのだろうが、
なんで地面に降りないのだろう。

という何年か前の疑問がここ鎌倉で蘇った。
排水溝の塀にあのときのような
タピスリーが吊されていたのだ。
やはり立ち止まり見入ってしまった。
美しさに見入ってというより、
植生の不思議さに見入らせられて。
鎌倉の裏山に続く細道は緑に包まれている。
私が草なら腰を落ち着けてみたくなる場所は
ほかに選りどり見どりある。
なのにこんなコンクリ壁に、
何が哀しくてこんなところに、
住み着くのだろう、
謎である。

森さんに訊いたら、
出身が山岳地帯だからでしょうか、ということだった。
ヒメツルソバは中国南部やヒマラヤ地方の産で、
過酷な環境に身を置くことを好むらしい。
自由な生き方を好むらしい。
豊かな庭で大切に育てられていても、
いつの間にか逃げ出して路肩などに住み着くという。
宿命的な衝動だろうか。
庭で手厚い施しを受けていながら花つきが悪かったのが
逃げ出し先の路肩などでいきいきと花をつけ、
ガーデナーを悔しがらせるらしいのである。
いつもは利用しない少し離れた肉屋のレジ横に
自分チの猫がちんまりと座り、
“招き猫”として可愛がられているのを発見したときの
飼い主のショックみたいなものかしら。
しかしその飼い主は、
素知らぬ顔で帰宅した猫に奥深さを感じたと聞いた。
逃げ出したヒメツルソバも
いつの間にか庭先に帰って来たりもするらしい。

ツルソバに似ていて小さいのがヒメツルソバの名前の由来。
親戚筋のイヌタデを“赤まんま”と呼ぶように、
猫のように自由気ままなヒメツルソバには
“猫のみみかき”という称号を与えたい。

2010-06-01-TUE
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