海の近くを訪れながら、 ずっと山の方に足をのばしていた今回のみちくさですが、 いよいよ潮の香りがしてきました。 アジサイで有名な「成就院」へ向かい、 森さんと吉本さんは石段をのぼってゆきます。
この取材は、5月のことでした。 いまごろきっと「成就院」の参道には、 みごとなアジサイが咲いているのでしょうね。 もし「成就院」に行く機会があったら、 アジサイとアジサイの間をちょっと探してみてください。 ユキノシタもちょうど満開の季節なのです。 あとで森さんから画像をいただきました。 これがユキノシタの、独特なかわいらしい花です。 撮影/森昭彦さん さて次回、ふたりは海にたどり着くのでしょうか? 次の「みちくさ」は、金曜日に。 「春の鎌倉でみちくさ」編は、 火曜日と金曜日の更新でお届けしています。
動物以外は(植物はもちろん人間も) 名前というものがなかなか覚えられない私が 鎌倉のお寺の石垣で すんなり「ユキノシタだ」と言えたのにはわけがある。 名前を聞いたときの様子が忘れられないからだ。
中学生のとき伯父さんが病に倒れた。 半年ほどの病院生活の後、家に戻った。 お天気のいい日曜日、 お見舞いに行った。 最後のお別れになるかもしれないから真面目に、 と母に言われ、 襟を正して 正装(学校の制服)で行った。 伯父さんは和室に寝ていて、 「来たか」と言った。 お天気の日だったと思い出せるのは、 廊下に面した障子が庭からの光で白く輝き、 室内をやわらかい光で包んでいたからだ。
なんのかんのと皆が話している間、 私は緊張していたせいか汗をかいて おでこの生え際がぐっしょりと濡れた。 すると伯父さんが、 「障子を開けて風を入れなさい」と言った。 眩しくない程度に障子の桟を引くと、 すうっと風が流れこみ、 茹だった顔がなだめられた。 障子の間から縦長に切り取られた庭が見えた。 伯父さん自慢の和風の庭だ。
伯父さんの弟が私の父で、 揃って庭いじりが趣味だった。 しかしその頃の我が家の庭は、 私の強い要望を取り入れて、 芝生を敷き詰め 周囲をバラの植え込みが囲む洋風の庭だった。 洋画と漫画の影響で、 皆がそうとは思わないけれど、 当時の少女はとにかくそういう バタくさい庭が好きだったのだ。 なので伯父さんの庭を見るたび、 よく手入れされているなと思うものの、 「年寄りくさっ」と感じていた。
けれどそのときは、 障子と障子の合間から掛け軸のように見える庭の、 大きな庭石の下に ぽこぽこ並ぶ葉っぱのかたまりが可愛く思えた。 それまでの短い人生の中で、 このような赤い茎、 そして赤と緑色の交錯する葉模様、なんて見たことがなく、 引きつけられるようにしばらく眺めていた。 引きつけられた‥‥というより、 室内の哀しい気配にいたたまれなくなった心が 庭で生き生きと息づいている丸い赤っぽい緑色の葉っぱに、 ほっと人心地ついたのかも知れなかった。 伯父さんの奥さんが 「ユキノシタ」と教えてくれた。 「雪の下でも青々して枯れまいから」と笑った。 「もう少しすると 白いリボンみたいな花が咲くんだけどねえ」とも言った。
大人になって、小料理屋さんで再会した。 山菜の天ぷらの中に一枚、 夏休み親戚の田舎の家に遊びに来た都会の子、 みたいな感じで混じっていたのだ。 衣がついているのは葉の裏だけで、 表の葉脈は白い筋となってくっきり残っている。 途端に「これはあれだ」と記憶が蘇った私。 同時に「これってよく便所の脇に生えてるやつ?」 と同席の友。 カウンターの向こうで板さんが思わず笑って 「ユキノシタっていう山菜ですよ」と言い添えた。
片側だけに薄い衣をつけた揚げ方を 白雪揚げと呼ぶそうだ。 すごくお似合いの呼び名だなあ、と感心した。