「八ヶ岳倶楽部」編 今回の先生/柳生真吾さん
名前その62 クリ
ひととおり、雑木林の散策を終えた柳生さんと吉本さん。
歩いてきた道をまた戻ってもいいのですが、
ここはあえて雑木林から抜け出して、
スタート地点に向かうことになりました。
柳生 そとからみると、ほら、
雑木林はあんな感じなんですよ。
吉本 ああー、わたしたちは、
あのなかを歩いてたんですね。
柳生 すぐそこに道路があって
けっこう車が通るんですけど、
雑木林でそんな音は聞こえなかったでしょ?
吉本 ええ、ぜんぜん聞こえなかった。
びっくり仰天です。
川のせせらぎが聞こえてたのに。
柳生 そう、一歩雑木林に入るとね。
吉本 ‥‥それで、
ここはどういう場所なんですか?
柳生 「八ヶ岳倶楽部」の舞台裏、かな?
スタッフがいろいろ植物を育てたりしてて。
吉本 みなさん、植物が好きなんですね。
柳生 ええ、それはもちろん。
‥‥あそこに、ぼくの愛車があります。
吉本 え? ‥‥あれですか?
柳生 そう、黄色い愛車。
吉本 ‥‥ショベルカー。
いまも動くんですか?
柳生 動きますよ。
あれで雑木林の大きな岩をどかしたり。
吉本 すごーい。
免許もいるんですよね?
柳生 ええ、とうぜん免許も持ってます。
吉本 すごいなあー。
柳生 さあ、道路を渡りましょう。
吉本 はーい。
吉本 ‥‥このあたりも、
雑木林みたいですけど‥‥。
柳生 最初はこんな感じだったんですよ。
うっそうとして。
吉本 笹が多いですね。
‥‥この林には、ちょっと入りたくないかも。
柳生 でもほら、クリの木がありますよ。
吉本 あー、ほんと、クリの木。
柳生 吉本さん、クリの花はご存じですよね?
吉本 ええ、そこに咲いている、
白くて長いのが、そうですよね?
柳生 (落ちているものを拾って)これですよね。
吉本 そうそう、それ。
柳生 ぼくは、どうしてこれがイガグリになるのか、
むかしから不思議で不思議で‥‥。
不思議だと思いません?
吉本 うーん、たしかにそう言われると‥‥。
柳生 これがどうやってイガグリに?って、
ずーっと不思議に思ってたんですけど、
去年、ようやくわかったんです。
吉本 わかったんですか?
どうやってなるんです?
柳生 あのね、
これがイガグリになるんじゃないんです。
これは、オスなんですよ。
吉本 オス?
柳生 実はメスがいたんですよ。
吉本 どこにいるんですか?
柳生 ほら、ここに。
吉本 え? どこ? どれですか?
柳生 ここです、これ。
吉本 あーー、いた。
この子が、女の子?
この子が、イガになるんだ。
柳生 そういうことです。
オスとメスがあったんですよ。
で、受粉が終わると
オスはこんなふうに用なしに‥‥。
吉本 (笑)
柳生 ちょっと切ない気持ちです(笑)。
吉本 クリができたら、拾うんですか?
柳生 もちろん、拾いますよ。
いっぱいできるんです、
ちいさくて甘いヤマグリがいっぱい。
吉本 いいですねー。
柳生 ことしはたぶん、クリが豊作だと思います。
たぶんもう、いまごろ八ヶ岳には
たくさんのイガグリが転がっているのでしょうね。
やっぱり豊作だったのでしょうか。

今回は、クリのイガのひみつを知ることができました。
八ヶ岳のみちくさも、残すところあと2回。
スタート地点が見えてきました‥‥。

次の「みちくさ」は、火曜日に。
「八ヶ岳倶楽部でみちくさ」編は、
火・木・土の更新でお届けいたします。
 
吉本由美さんの「クリ」
 

先日、
目黒通りの広い歩道を歩いていたら、
10メートルほど先で
一人のおじさんが大きな声でわめいていた。
怒っているようだけれど、
両脇にいる女性2人は笑っている。
近づくにつれだんだんと
わめき声が聞き取れてくる。

「何んでここにあるのかよー」
      ⇩
「チキショー、運が悪いなあ」
      ⇩
「こんな日に限ってさあー、
 いったい何だっつうんだよーッ」

目の前まで行って謎が解けた。
おじさん、犬のウンチを踏んでしまったのだ。
怒りで真っ赤な顔となって、
懸命に靴の底をガードレールに擦りつける。
ウンチをこそげ落としている。
そのすぐそばの地面には
思いッきり踏まれたらしい黄色い物体が
アメーバ状に広がっていた。
両脇で笑い転げている2人の女性は奥さんと娘さんらしく、
よく見れば3人ともお祝いの正装スタイルだから、
近くの結婚式場に
これから向かうのか、帰路につくのか。
できれば後者であるよう密かに願ったけれど、
いずれにしても
黒いエナメル靴が目に痛いくらい光って見えた。

広い歩道の隅っこの、
ガードレール円柱脇の、
人の足が伸びる可能性の100%もないところに
ひっそりなされたウンチを踏んづけてしまうとは、
つくづく、
運の悪い人だなあと思う。
と、人ごとのように言っているが、
考えたら自分だって
これまでじゅうぶんに運の悪い人だった。
運の悪さの例を挙げればキリがないのだが、
クリの今回、
クリにまつわる不運の例を一つ。

あるとき
栃木の牧場近くの駅舎待合室に入ったときのこと。
それは平日の午後で、
広々とした待合室には誰もいなかった。
当然ながらベンチも椅子もがら空きだった。
だからどこに座ろうとかまわなかった。
それで何も考えず
すぐそばのベンチにどっこいしょと腰を下ろした。
・・・目から炎とはあのことだろう、
左のお尻に激痛が走ったのだ。
それまで経験したことのない鋭い痛みだ。
飛び上がり、ベンチを見ると、
中は空っぽのクリのイガがつぶれた形で転がっていた。

つくづく思う。
何であの場所に座ったのか、と。
見渡す限り誰もいない待合室である、
どこにだって腰を下ろせるわけである。
なのに何であの場所に座ったのか。
しかも小さなイガの真上に。
あとで確かめると、
そこ以外にイガだのクリだのは見つからなかった。
誰かが山からイガグリを持ってきて、
イガだけを、
たまたまそこに置いて帰ったのか。
そしたらたまたま人が来て、
さらにたまたまその上に座ったのか。
たまたまがたまたま続いただけの
ただの偶然のできごとだったのか。
わからない。
ただ運が悪いとしか説明がつかない。

付け加えると、
イガの刺さった傷跡は思いのほか重傷だった。
先が折れて皮膚奥に残り、化膿した。
自分では見えないからお医者さんに抜いてもらった。
なかなか恥ずかしいポーズであった。

それからはクリの実を調理できなくなる。
それまでは八百屋の店先に
丸々ふくらみ艶々ひかるクリの実が登場したら、
ソク買って、
ゆがいたり栗ご飯を炊いたりして
秋の味覚を愉しんだけれど、
店頭でイガイガを見ると
身体の芯からゾゾッとするようになった。
クリのトラウマ、クリトラウマだ。
いんや、正しくは
イガのトラウマ、イガトラウマか。

2010-09-25-SAT
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