糸井 |
きょうは、歌手としてのみゆきさんのことを
訊いてみたいと思ってるんですよ。
作家としての取材のときには、
ある程度人が考えていることと、
「ああ、合ってる、合ってる」となるけど、
歌手のほうが、もっと無意識だから。
“テーマのある歌い方”
なんておかしいですから、
そこの無意識部分で、
鳴っている人間、楽器として、
その快感みたいなのを訊いてみたい。
気持ちいいわけでしょう?
なんですか、あの、
レンズで光を集めて焦がすような‥‥。 |
中島 |
そうですか? |
糸井 |
鳴ってますよ。 |
中島 |
そうですか、ありがとうございます。
うーん、“鳴り”ね。
“鳴り”っていうのはありますねえ。 |
糸井 |
だから、下手な歌の評論をする人は、
「この女がなにを考えてこう言っているのか、
意味をよくとらえなさい」とか
「この人はどうしたの?
この人にフラれたわけでしょう。
じゃあ彼女の悲しい思いをね」
とか言うんですよ。
あれは全部間違いだと思う、
あんなんじゃー、鳴らない! |
中島 |
あはははははは。 |
糸井 |
絶対に鳴らない!
で、逆に何言ってるかわかんなくても鳴る! |
中島 |
うんうんうん、それはありますね。 |
糸井 |
何か思ってるから鳴るんじゃないんですよ。 |
中島 |
空気が鳴るんですよね、空気が。 |
糸井 |
みんなが“みゆきさんはきっとこう思ってる”
と想像してるようなもんじゃないんですよ。
だって何回もリハーサルして何回も歌ってきてさ、
芝居する時にその人になりなさいみたいな
古臭い歌い方で、あんなに人は喜ばない。
それだったら、
お前のことはお前だろうってなっちゃう。
そうじゃなくて、ぼくらを連れてくんだもの、
どこかへ。 |
中島 |
うふふふふ。 |
糸井 |
ひれ伏してますよ、ぼくら。 |
中島 |
えええええ〜。 |
── |
タイトル曲の『真夜中の動物園』なんかは
特にその正体不明で得体の知れない
“鳴り”みたいなものを感じました。 |
中島 |
ああ、鳴りましたね。あれは鳴りました。 |
糸井 |
音量小で鳴ってますよね。 |
中島 |
はははははは、鳴りましたね、うんうん。
それとね、歌で空気が鳴るでしょう、
物理的に鳴るんだけれども、
アカペラで歌っているわけじゃないので、
ミュージシャン何人かが一緒に、
舞台なら舞台での人数、
スタジオならスタジオの人数で
一緒に歌ったとき、
彼らがやっぱり鳴るときがあるのね。
彼らが鳴ったときと、
こっちが鳴ったときが一緒になったとき、
空気が共振して、何倍にも鳴るのね。
この、なんというかね、真空の、
どっか行っちゃった、みたいな‥‥。 |
糸井 |
気持ちいいだろうねー。 |
中島 |
ね、ね、あるんですよ、そういう瞬間がね。
これはね、やめられませんよ。 |
糸井 |
それは(歌の)作り手には味わえないんですよ。
シンガーなしでソングライターだったら
それは羨ましいと思って聴くんですよ、きっと。 |
中島 |
きっとソングライターは
ソングライターなりの、
喜びはあるでしょうけれどもね、
物理的に、肉体で
それを味わえるっていうのは、
やっぱり肉体を使った仕事ですよね。 |
── |
それは糸井さんの仕事の中では、
ないことなんですか? |
糸井 |
ない。 |
中島 |
いや、あると思う!
あのさ、ペンが勝手に
動いていくときってないですか? |
糸井 |
それはありますね。 |
中島 |
誰かに持たれているみたいに。
それ、鳴ってると思いません? |
糸井 |
でもね、観客が自分なんですよ。 |
中島 |
ああ! 密かな世界ね。 |
糸井 |
だからたぶん書道家なんかにも
言えるんだと思うんですけど、
軌跡そのものの中にいるんです。
言葉が、編んでいかれるみたいに
できていくっていうのは、
ものすごく自分で考えて作っているときと、
考えている以上にできているときというのが、
やっぱりあるわけだから、
みゆきさんの「歌詞を忘れちゃう」というのも、
それが理由なんですよ、たぶん。
だけど、観客が自分だと、
「いい!」って言っても
しょうがないんですよ(笑)。
まず鳴っているものが
バーッと出ていく快感があって、
それが向こうに移って、客席の表情の中に
「届いてる!」ってさざ波が、
ザザザザザッ! と広がって、
そのエネルギーがこっちにまた返ってきて、
またズバーンっていかせてっていうのは、
そんなの、書いているときに
あるわけないじゃないですか。 |
中島 |
いや、時間差で
あるかもしれないですよ(笑)。 |
糸井 |
それは3人しか聴いていなくても、
1万人聴いていても、
やっぱり聴いている人のところに
音波が届く、というあの快感は、
ひとりでお風呂で歌っているのと
違いますからね。
(つづきます) |