元ゲーム雑誌の編集者で、
テレコマンとしても活動している永田ソフトが
ここでは永田泰大さんとして
『MOTHER1+2』をプレイする日常をつづります。
ゲームの攻略にはまるで役に立たないと思うけど
のんびりじっくり書いていくそうなので
なんとなく気にしててください。

7月1日

『MOTHER』の神髄

ひどく大事なものを発見した気がする。
物語の進行にはまったく関係のない部分なのだけれど
ひょっとしたら、これこそが『MOTHER』の
重要な成分なのかもしれないと思った。
僕にとってはとても重要に思えたのだけれど
どうでもいいと思う人にとっては
ほんとうにどうでもいいことかもしれない。
なんじゃそれは、と思うかもしれない。
とりあえず書いてみる。

ようやく僕は歩を進め、つぎの街に着いた。
新しい街に着くのはとてもうれしいことだ。
僕は道行く人に話しかけて
情報を集めたりニヤニヤしたりしていた。

街の人にあらかた話しかけて、
どうやら少し離れた場所に人が住んでいるらしいと聞き、
そこを目指して歩いていった。

注意しておきますが、
ある人物のセリフをそのまま書きます。
例によって物語の進行には関係しません。

その人は、情報どおり街から離れた山の中に住んでいた。
話しかけて、返ってきた言葉に、
僕は『MOTHER』の神髄を垣間見た。
これは! と思った僕は、
慌ててその言葉を書き写した。
ちなみに電車のなかでプレイしていたので
携帯電話のメモ帳機能をつかった。
周囲にいる乗客のみなさんはやや怪訝な顔をしていた。
それは、こういうセリフである。

「ひひぇひゃひょ ひょひょひへ
ふはく ひゃひぇひぇひゃひんひゃ」

なにやらモニターの前で
読者のみなさんがずっこける気配がしたが
もうしばらくおつきあいいただきたい。

重要なことは、僕がこの人と出会うまえに、
入れ歯を拾っていたということである。
つまり、この人は入れ歯がないので、
あのようにフガフガ言っているのである。

いったい、これのどこが重要だというのか。

僕は直感したのだ。
この言葉は、ランダムなフガフガ言葉ではなく、
きちんと考えられた言葉なのではないか、と。

ここでひとつ個人的な思い出を書く。
それは島本和彦さんのマンガを読んでいたときのことだ。
ずいぶん以前の記憶だから曖昧だけど
主人公が交差点を渡る場面だった。
そこの、コマのはじっこに、
「ぱーぱーぽーぱーぱぽぽー」
というような文字が書いてあった。
なんだこりゃ、と思ったが、ハッとひらめいた。
これは、『とうりゃんせ』のメロディーではないか?
それを念頭に置いて文字を読み直してみると
「とーりゃんせーとーりゃんせー」
ときちんと読めるのである。
しかも、数コマにわたって書かれている
「ぱーぱーぽー」の文字が、
ワンコーラスぶん、過不足なく、
『とうりゃんせ』の歌詞を忠実に追っていたのである。

僕は、こういう世界を強く強く信用する。

『MOTHER』の話に戻ると、
そのおかしな文字列を見たとたん、
これはきっと
忠実なフガフガ語であるはずだと僕は思った。
それで、思わず、メモ用紙がなかったので
携帯電話に文字列を書き写したのだ。

その人に、持っている入れ歯を渡すと、
「おお、入れ歯のお礼をしよう」
というようなことを話し始めた。
僕はそこでフガフガ語が解明されるのかと思ったが、
そういうわけではなかった。

つまり、その人がさっき話した
「ひひぇひゃひょ ひょひょひへ
ふはく ひゃひぇひぇひゃひんひゃ」は、
きちんと考えられた文字列であるか、
ランダムな文字列であるかは、
誰にもわからない、ということになる。

僕は、ゲームボーイアドバンスSPから目を転じ、
携帯電話に打ち込んださっきの文字列をにらんだ。
まるで、信頼してきたその世界が
信頼に足るべきものであるかどうかをたしかめるように。

口のなかで何度も読み返し、
薄目で携帯電話の液晶をにらみ、
残響を反芻しながらぼんやりと輪郭を追っていく。
やがて、フガフガの向こうに言葉が浮かび上がった。

「いればを おとして
うまく しゃべれないんじゃ」

東京の地下を西へ向けて走る列車のなかで
僕は、心でガッツポーズする。
こういう世界を、僕は強く信用するのだ。

世界を豊かにかたちづくって
ユーザーにきちんと届けるということは、
たとえばその世界のバックグラウンドや
風土や歴史を設定するということではない。
町並みや石畳をいちいち精密に
描写するということではない。

世界をきちんと豊かにつくりあげるということは
入れ歯を落として困っている人の言葉を
きちんとフガフガした言葉で表現するということだ。

たとえ、その答えが提示されなくとも、
読んだ人全員がそれに気づかなくとも、
限られた貴重なデータ容量を消費し
そのための作業がべつに生まれるのだとしても、
入れ歯を落として困っている人の言葉を
きちんとフガフガした言葉で表現するということだ。

全国から『MOTHER』に寄せられたメールのなかに、
つぎのようなものがあった。

僕がMOTHERをプレイしていた頃、
ちょうどS・キングの
「スタンドバイミー」に傾倒してまして、
とある街にいたおばさんから
「昔、死体探しにいったんだ」ということを聞いた時、
「きっと、線路の側に死体が隠されてるんだ」と
勝手に思い込んじゃったんです。
もうそれこそ、あの、めちゃめちゃ長い線路の
端から端まで「しらべる」を実行しました。
死体を発見して警察に届け出たら、
街の英雄になれるんじゃないかって。
ゲームをクリアした後も、なかなかあきらめきれなくて、
気が向いては線路を歩いていました。
当然、ゲームの中にそんなイベントはなかったわけで、
結局は何も見つけられなかったのですが、
ほんま、僕にとって、
もうひとつの「スタンドバイミー」でした。
(イシカワ)

そういうことなのだと思う。
遊び手が当たり前のこととして
自己の想像を広げていったり、
そこがほんとうにあるもののように感じたり、
そこへ帰りたくなってたまらなくなったりするのは、
さまざまな積み重ねによって
世界が豊かに存在感を持ち、
遊び手の信用を勝ち取っているからなのだと思う。

地下を行く電車のなかで、
『MOTHER』の世界の神髄を感じた僕は、
非常に珍しいことに、
電車が目的の駅に着く以前に
ゲームボーイアドバンスSPの電源を切り、
その携帯ゲーム機をパタンとふたつに折って
バッグのなかにしまい込んだ。
そして、窓の外を流れるコンクリートの壁を見ながら、
垣間見た重要なことを忘れないように、
頭のなかにひとつひとつ刻み込んでいった。

2003-07-02-WED