ポーキー一家
主人公の家の隣に、ポーキーという
とんでもなくイヤな子どもが住んでいるということは、
いかに9年前のことといえど僕は忘れずにいた。
けれど、その家族もまた、ポーキーに負けず劣らず
とんでもない人たちだったということは
すっかり忘れてしまっていた。
ポーキーには弟がいるが、
兄の非常識さにくらべると弟のそれはかわいく映る。
問題は両親だ。ポーキーにはお父さんとお母さんがいる。
ふたりとも、ポーキーに輪をかけて
常軌を逸しているように思える。
率直にいって、僕はこの一家がとても怖い。
たぶん、ポーキーひとりなら、
「おかしな悪ガキ」で片づけることができる。
そこにおかしな弟がいても、
「おかしな兄弟」ということで理解できなくはない。
けれど、それが「おかしな一家」となったとたん、
彼らに対する理解が危うくなってしまう。
母親はヒステリックで、しばしば暴力的に振る舞う。
そのくせ旦那を盲目的に信用しているようだ。
父親は落ち着き払っているが、
理路整然と主人公に立ち退きをほのめかしたりする。
彼も母親と同じく、息子たちに対して
「おしおき」という言葉を使う。
ポーキーを単独でとらえるならば
「おかしな悪ガキ」にすぎないように、
このふたりも個人としては
「デフォルメされた大人」にすぎない。
ひとりひとりが別の場所にいて、
無関係なキャラクターとして独立していたら、
僕は述べたような恐怖を感じなかったと思う。
けれど、彼らがそろって「家族」を形成したとき、
僕はぞわぞわする恐怖を感じてしまうのだ。
それは、ひとつの家族が存在するときに
その家族の根底に流れる
「常識」を想像してしまうからだと思う。
ポーキーという、ずるくて、欲張りで、
怠慢で、嫉妬深い子どもが登場するとき、
僕はまず彼を、そういうふうに演出された
「ユニークなキャラクター」として認識しようとする。
いわば特別なプロフィールを背負わされた
「非常識な記号」としてゲームのなかで
悪役を演じきってほしいと願う。
勝手な話だけれど、そうすれば、僕は、
いちおうは落ち着くことができるのだ。
ところが、彼の両親もまた「非常識」であるとなると、
僕は彼を単独の「非常識」として認識することができない。
非常識な彼に非常識な両親がいるとなると、彼はむしろ、
おかしな家庭で育った「ふつうの子ども」に思えてしまう。
そこが怖い。
ポーキーの家にはポーキーの家の「常識」があって、
彼はそれに育まれただけなのかもしれない。
もっと言えば、僕がその家庭に育ったら、
僕はそれを「常識」として育ち、
ポーキーのように当たり前に振る舞うのかもしれない。
そこには、デフォルメというひと言では片づけられない
現実と地続きな恐怖がある。
僕が彼らに恐怖を感じる理由を
もう少し掘り下げることができる。
ゲームの本質からは離れるかもしれないけど、
脱線はこの日記の本分でもあるので続けてみる。
たとえば、ポーキーの親が、
ふたりそろって均等に登場していなければ、
僕の感じる恐怖はまだやわらぐのだ。
ことわっておくけれども、それは、
いわゆる片親の家庭環境をどうこういうわけではない。
「非常識」の源が、ひとりの個人であるならば
まだしも僕は落ち着くことができるということだ。
たとえば、父親でも母親でもどちらでもかまわない。
ひとりの親が非常識で、
そこにポーキーという非常識な息子がいた場合、
僕は非常識の対象を「あるひとり」に絞ることができる。
たまたまそういう人がいたからこそ、
隣の家に非常識が生まれたのだと
いちおうは結論を出すことができる。
ところが、父親と母親がどちらも
理解しがたい非常識さを持っているとなると、
またしても僕は不安になる。
だって、ふたりはそもそも他人だったはずなのだ。
一個の個人と一個の個人がたまたま結びついて
家庭を築いたはずなのだ。そういうふたりが、
当たり前のように抱えていた「常識」が
その家庭の根底には流れていて、
その結果のひとつがポーキーなのだとしたら、
ますます僕は自分の「常識」を不安に感じてしまう。
そもそも、「常識」なんていうものの基準は曖昧だ。
僕は僕の基準でもってポーキー一家を
非常識だと決めつけているけれども、
僕が「常識」で彼らが「非常識」だということに
はっきりとした根拠なんてない。
友だちを盾にしたり、
警察に平気でおべっかをつかったり、
隣の家の息子に「立ち退いてくれ」なんて言ったり、
部屋を飛び交う虫にヒステリーを起こして
叩きつぶしてみたりすることを、
僕は「非常識」だととらえるわけだけれど、
それが「非常識」である保証なんてどこにもないのだ。
だから、僕は「おかしな一家」が怖い。
『トイ・ストーリー』に出てくる
隣の家のサイコな悪ガキはさほど怖くないけれど、
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』に出てくる
ビフの一家は怖い。
ごくまれに救いの面は描かれているものの、
『ハリー・ポッター』のダーズリー一家も怖い。
怖い一家でもっとも強烈に覚えているのは
荒木飛呂彦さんの『魔少年ビーティー』という
マンガに出てくる家族だ。
はるか昔に一度読んだだけだから定かではないけれど、
物語の後半におかしな一家が登場し、
主人公の一家を乗っ取っていくという設定だった。
しかも、最初は「おかしなひとり」として登場し、
だんだんとその数を増やして、
「おかしな一家」を形成していったように思う。
つまり、「非常識」がだんだんと繁殖していって、
それが主人公の家族という「常識」を
じわじわと浸食していくのだ。
読んだとき、二度と読みたくないと思うほど怖かった。
もちろん当時はなぜあんなに怖いかわからなかった。
けど、たぶん、そういうことなのだ。
さて、脱線を承知で長々と書いてきたが、
ここで趣旨を翻すことを許してもらえるならば、
以上のようなことは、
じつは、脱線ではないと僕は考えている。
つまり、話は『MOTHER2』に戻ってくる。
僕は、そういうふうに受け手が
ポーキー一家に対してイヤな感情を抱くことを
開発者は、つまり糸井重里という人は、
きちんとわかってやっているのだと思う。
糸井重里という人は
笑わすことも、泣かすことも、怖がらせることも
同じように得意な人だ。
彼はクリエーターとしてさまざまなメディアを使うから、
用途に応じてそれらのモードをきちんと使い分ける。
けれど、ほんとうはどれも得意な人だ。
なぜならたぶん、受け手の感情になるという意味において
それらのモードは仕組みを共有するものなのである。
笑わすことも、泣かすことも、怖がらせることも、
同じように周到に、きちんと企てられている。
糸井重里という人は、用途に応じて、最後の最後で
アウトプットのダイヤルを「ガハハ」に合わせたり
「ホロリ」に合わせたりするけれど、
ほんとうはどの方向にでもそれを向けられるのだ。
どこもかしこも推測にすぎないけれど続ける。
糸井重里という人がロールプレイングゲームという
ジャンルに向かうとき、そのモードはもっとも
振れ幅が大きくなるのではないかと僕は思っている。
さまざまな制約があるから
いちいちフルスロットルなわけじゃないだろうけど、
ものつくるときの糸井重里が、アウトプットのダイヤルを、
もっとも自由にぐりぐりと回すことができるのが
ロールプレイングゲームという
ジャンルなのではないかと僕は思う。
ポーキー一家は、主人公の一家の隣の家に住んでいる。
あたりには、ふたつの家族のほかに家はない。
その対比を考えるなら、あらかじめポーキー一家が
そのように仕組まれていることは明らかだと思う。
僕がもっとも不安になるのは
ポーキーの家へ足を踏み入れるときだが、
なぜというにそれは
「常識」を抱えてひとりで歩いていたはずの僕が
突然彼らの「非常識」に囲まれるからである。
ポーキーの家の色は寒色で統一されていて、
取り立てて奇妙な様子はない。
いっそ蜘蛛の巣だらけで
真っ赤だったり真っ黒だったりしてくれると
わかりやすいのだけれど、そこはあくまで清潔で、
だからこそ地続きな恐怖がじんわりと染みこんでくる。
鳴っている音楽は、おもちゃ箱をひっくり返したような
わけのわからない音楽で、
暴力性と幼児性を同時に感じさせる。
一方、隣接する主人公の家の家具は
暖色で統一されていて、柔らかさと暖かさを感じさせる。
そして、そこで鳴っている音楽は、
よりによって『Pollyanna ( I Believe in You )』なのだ。
前作においてゲーム全体を暖かく包んでいたテーマ曲。
僕がしょっちゅう鼻歌と口笛とハミングで
奏でている歌が、帰るべき我が家で鳴っている。
そこで待っているのは
ストロングでマイペースでクールでタフなママだ。
彼女がゲームのなかで超越的な存在であることは
必然であると僕は思う。もしもこのママが、
ふつうの優しいお母さんどまりだったら、
ポーキー一家の「非常識」に浸食される不安を
少なくとも僕は感じてしまう。
強いママと、しっかりものの妹と、
遠くですべてを見ているパパ。
強固につくられた主人公の家は、
やはり隣の一家と対を成しているように思う。
ふたつの家は、ゲームの冒頭から、
隣接されるものとして提示される。
それが仕組まれたコンセプトでなくてなんだろう。