『MOTHER2』という娯楽
5年の月日を一足飛びに超えて
僕は『MOTHER2』をスタートさせた。
何から書いていいかわからないほど豊かな世界だ。
正直、ちょっと驚いている。そして、にやにやしている。
こんなだったっけ? と思いながら、
小さな画面のなかにぐいぐい引き込まれている。
自分でも呆れてしまうけれど、
『MOTHER』に集中していた1ヶ月のあいだに、
どうやら僕の頭のなかはすっかりファミコンの
8ビットの世界が染みついてしまったようだ。
そんなわけで、広がる世界がいちいち衝撃的である。
描写された絵の高品質にうなり、
音楽や演出の豊かさに惚れ惚れする。
スーパーファミコンというハードのスペックにのみ
衝撃を受けているのではない。
職人たちがあつらえてくれた特別な世界に
感じ入っているのである。
『MOTHER2』の世界の隅々に、
幾多の人の手を垣間見てくらくらしているのである。
たとえば序盤も序盤、夜のフィールドに
パトカーが停車しているのだけれど、
その絵を見ただけで僕はかなりシビレてしまった。
なんて綺麗で効果的なドットの配置。
パロディーでも模写でもないパトカーの絵。
ポップな世界だけど、平面的ではない。
そばには警官が立っていて、
話しかけると例によって魅力的なことをしゃべる。
どう考えてもこいつは名もない端役だ。
なのにこんなにチャーミングだから困ってしまう。
夜の山道を歩いていく僕は、
のっぴきならない用事を抱えているのだけれど、
つい彼らに何度も話しかけてしまう。
たかだかひとつの場面を切り取っただけでも
そこに贅沢な人の手を感じる。
しばらくはこれがずうっと続いていくのだ。
うっとりしながら歩くいまは序盤も序盤で、
全体からすると百分の一にもならないだろう。
──『MOTHER2』って、大作だったんだな。
あらためて僕はそんなふうに感じる。
自分が強く思い入れているゲームだから、
記憶のなかでは、大作というよりも
「印象的な小品」というふうにとらえていた。
一大エンターテイメント作品というよりは、
「単館ロードショーの秀作」みたいに感じていた。
けど、とんでもない。
『MOTHER2』は、贅沢で、手のかかった、
ボリュームたっぷりの娯楽作なのだ。
『MOTHER2』の出た1994年は、
スーパーファミコンというハードの末期にあたる。
ひとつのゲーム機の可能性が追求され、
技術がこなれてきた最高の時期である。
加えて、開発陣は複数の会社から成っており、
推測するに先鋭がそろえられたのだと思う。
わけても開発にたっぷり5年をかけたゲームだ。
詰め込むだけ詰め込んで、一時は収拾がつかなくなって
出ないかもしれないといわれたゲームだ。
遊び心あふれる凝り性の人たちが集まって、
よってたかって足したり引いたりしたゲームだ。
そんなソフトが「印象的な小品」であるわけがない。
「単館ロードショーの秀作」で終わるわけがない。
『MOTHER2』の冒頭は夜で、
衝撃音が起こり、パーカッシブな音楽が響き、
ときにカメラがパンする。
僕はそこへぐいぐい引きつけられる。
『MOTHER2』というエンターテイメントを
これから僕はゆっくりと味わっていくのだ。