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パブリックな家ということで言うと、
僕が小さな頃住んでいたのは、
アパートですらなくて、
大家さんの家の中のひと間を賃貸に出してた、
長屋のような家でした。
玄関は別々だったんだけど、
トイレは1コしかなくて、
お隣りさんとうち、2つの家族で共有していたんです。
そして、両家の間に鍵はない。
そうするとどういうことが起きるかというと、
隣の家と自分の家の境界線がなくなるんです。
僕も隣に自分のうちみたいに行ってたし、
隣の子もよく入って来てて。
いわゆる味噌、醤油借りるみたいなことも、
当然日常茶飯事だったし。
一人で留守番してるとき、
カッターで手を切っちゃったことがあって、
ギャーギャー泣いてたら隣のおばさんが来てくれたり。
自分ちの家族だけで完結してなかったと思うんです。
昔の家って。 |
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いま、シェアハウスというものが
よく言われていますよね。
近い感じでしょうか。 |
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いまのシェアハウスや、コーポラティブハウスが
そうかというと、ちがうと思うんです。
昔の長屋は経済状態や境遇が
きわめて近いものだった。 |
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いま巷でもてはやされてるシェアハウスっていうのは、
ぼくは疑問を感じるんです。
経済合理主義で考えると確かに分かりますよ。
キッチン大きいとこでみんなシェアしたほうがいい、と。
ただ、それだけだと、消費活動に根付いた価値観を
共有してるだけなので、メンバーが交換可能なんですよね。
共同体ってたぶん、交換不可能なはずなんですよ。
だから、シェアハウスの可能性っていうのは、
交換不可能なぐらい何か確実なつながりがないと
一過性のブームで終わってしまう気がするんです。
世代間を超えていかないと、と思う。
コーポラティブハウスもそうですよね。
ワイン好きな夫婦、おんなじぐらいの収入で、
おんなじぐらいの子育てをしてる夫婦を4世帯集めれば、
4人で大きな敷地を買って、4分割して4家族で住む。
共同の庭、共同のワインセラーとかそういうことは、
もちろん可能です。
ソーラーパネルだって、初期投資を1/4にすれば可能だし、
そういう合理的なところはいっぱいある。
ただ、「仲良し」が前提ですよね。
その「仲良し」っていうのもまた難しいでしょう。
ネットワークが崩れた瞬間に、どう対処するかっていう
セーフティーネットをちゃんと考えた上で、
シェアとかコーポラティブをしないと。 |
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合理的っていうのが、共同体には合わないですよね。
わたしは村育ちですけど、
病気になって働けなくなっちゃったおうちとか、
お父さんが亡くなっちゃったおうちとかは、
村のみんなで、ごくあたりまえにサポートします。
同じ村なら家族、みたいな気持ちがある。 |
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ギブアンドテイクじゃない関係なんですよね。
当然気持ちとしてはありますよ、
助けてもらったからこんどはなんかしてあげなきゃって。
でも、契約でもなんでもない。
僕はそれを、内田先生に言ったことがあって、
凱風館がうまくいくのは、合気道っていうベースがあって
共同体が作られてるからなんだと。
合気道っていうのは勝ち負けもないし、競わない。
一生やり続けられる武道なんですね。
ってことは、そこには教育的な要素が当然ある。
師範が弟子に教え続けるわけですから。
その師範が例えば亡くなったとしても、
一番弟子が次の師範になる。
代々の教育ですから、終らない。
それが、凱風館を凱風館たらしめてるんですね。
僕はほかにどういうもので共同体が作れますかって
内田先生に聞いたんです。
じゃ阪神ファン同士が集まって、
大きなスクリーンをみんなで共有する部屋をもつ
コーポラティブハウスはどうか。
阪神タイガースの試合が
巨大スクリーンで見られる部屋がある、って、
一見成り立ちそうじゃないですか。
でも内田先生は、それは絶対ダメだ、と。
なぜなら、息子が巨人ファンになる可能性がある(笑)。 |
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おおー。 |
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共同体っていうのは、やっぱりそういう、
世代や時間を内包したものでないと。 |
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凱風館は、合気道の次の師範は決まっているんですか。 |
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決まっているんですよ。
しかも、合気道だけじゃなくて、
凱風館にはジュリー部だとか、マージャン連盟だとか、
いろんな、スピンオフする共同体があるんです。
内田先生はマージャン連盟の場合は
総長っていう肩書きなんですけど、
次期総長はもう既に決まっているんです。
さらに言うと、内田先生が亡くなったあと、
凱風館は、お子さんが継がないことになっているんです。 |
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えっ! |
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信用していないということではなく、
相続するにあたって売らざるを得ないこともある。
それを避けたいから法人にするわけです。
じっさい、合気道の道場で、
代々がうまく渡らない例を
内田先生はいくつか見てきたんですね。
同族経営って、上手くいく場合もあれば、
そうではない場合もある。
そして会社も、
会社という共同体を維持する方法として、
おんなじ似たもの同士だけが集まるんじゃなくて、
異物をも自分たちのメンバーとして受け入れるという、
共同体としての力強さみたいなものがあれば、
その場所としての家っていうのは
必然的に変わってくるだろうし、
そうなったときに、プライベートだから
俺の家に来るなとか、こっから先は‥‥とかじゃなくて、
新しいパブリック性みたいなものが
出てくるんじゃないかな、とは思うんです。
でも、じゃぁ、新しいパブリック性って何か?
というと、いまのシェアっていうところだけじゃない
気がするんですけどね。 |
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(つづきます) |