2019年11月、ほぼ日の株主ミーティングで、
「ほぼ日の学校」の特別授業をおこないました。
テーマは、百人一首。
古典文学に詳しい編集者の「たられば」さんと、
大ヒット漫画『ちはやふる』作者の
末次由紀さんにお越しいただき、
ちいさな講演をしていただいたのち、
最後に河野を交えて
3人で百人一首トークをしました。
これが、百人一首をよく知らない人にも
興味深く思ってもらえそうなものだったので、
2020年最初の「ほぼ日」の読みものとして
ご紹介します。
この記事をきっかけに、ことしはあなたも
百人一首の魅力に目覚めてみませんか?
末次由紀(すえつぐゆき)
漫画家。1992年『太陽のロマンス』で
第14回なかよし新人まんが賞佳作を受賞、
同作品が「なかよし増刊」(講談社)に
掲載されデビュー。
07年から「BE・LOVE」(講談社)で
競技かるたをテーマにした『ちはやふる』の連載を開始。
09年同作で第2回マンガ大賞2009を受賞するとともに
『このマンガがすごい! 2010』(宝島社)
オンナ編で第1位となる。
11年『ちはやふる』で、
第35回講談社漫画賞少女部門を受賞。
『ちはやふる』は現在も連載がつづいており、
最新刊は、43巻が2019年12月発売。
テレビアニメや実写版の映画にもなり、
現実の競技かるた浸透にも影響を及ぼしている。
たられば
ハンドルネーム「たられば」で
個人的につぶやいていたTwitterが
徐々にファンを増やし、SNS界の人気者となる。
2019年12月時点のフォロワー数は17.5万人。
本業は編集者。だいたいニコニコしています。
経歴としては、
出版社にて専門誌編集者→同編集長
→児童書/一般書編集者
→Webサイト編集者(現職)。
関心領域は平安朝文学(特に清少納言と紫式部)、
書籍、雑誌、働き方、犬、FGO。
たらればさんが「枕草子」について書かれた
こちらの記事もぜひどうぞ。
- たられば
- 『小倉百人一首』の時代背景を
知っていただくため、
こんな年表を作ってみました。
『小倉百人一首』をまとめた藤原定家は、
鎌倉時代初期の人です。
西暦1162年頃に生まれて、京都で育っています
(ちなみに亡くなったのは1241年)。
この時代の京都は、日本史全体を見渡しても
「激動の真っただ中」と言っていい時代と場所です。
300年以上、天皇と貴族の時代だったのが、
平清盛がまず入ってきて、
武士として初めて太政大臣に任じられます。
その清盛が亡くなったら、木曽義仲が入京します。
つづいて源頼朝がやってきます。
300年以上つづいた平安時代、
飛鳥時代と奈良時代を含めると500年以上つづいた
天皇と貴族の時代が、
まさにバーッと終わるタイミングの京都で、
藤原定家は青春時代をすごしています。
そして、武士の世の中がはじまります。
そして『小倉百人一首』は、
鎌倉時代初期の1235年に成立しています。
『小倉百人一首』に選ばれている100人には、
天皇、親王(天皇の子ども)、女房、僧侶が
並ぶなか、武士はほとんどいません。
(定家に「歌」の教えを請うた鎌倉右大臣(源実朝)や、
出家前の西行が武士だった程度)
平安時代という「天皇と貴族の時代」が終わり、
時代は鎌倉・室町、
それから安土桃山・江戸と、
「武士の時代」へ移り変わっていきますが、
そうした時代の支配者が、
『小倉百人一首』にはほぼ登場していないのです。
これもよく言われることですが、
『小倉百人一首』には、
「敗者が集められた」という傾向があります。
たとえば100人の中には天皇と上皇が
8人登場しますが、
そのうち実に5人が、
意に反して無理に退位させられたり、
遠方へ流された天皇です。
勝者ではなく、敗者の声を聴く。
それもまた藤原定家のメッセージだと
私は考えております。
こちらは藤原定家の主な仕事です。
『小倉百人一首』を編んだだけではありません。
非常に精力的に、いろんなことをやっています。
有名歌人だった父親とともに、
『新古今和歌集』と『新勅撰和歌集』という
ふたつの勅撰和歌集の編纂に携わり、
『万葉集』『伊勢物語』『枕草子』『源氏物語』
などの写本を作り、注釈を加え、
権力者へ送ったり、読み方を講義しながら、
その毎日を非常に緻密な日記
(『明月記』)に遺しています。
私がいちばん好きなのは、写本を作成したところですね。
ことし(2019年)、
『源氏物語』の「青表紙本」が見つかった
というニュースが
非常に世の中を騒がせましたけれども、
「青表紙本」というのは、
藤原定家が自分で写したり、家族に写させたものです。
これがなぜ騒がれるかというと、
「青表紙本」という定家が作成したバージョンは
中身が非常に正確なんですね。
当時の自分たちで写本を作った人々は、
意味が分かりづらい表現は
「こっちのほうがいいだろ」と、
勝手に書きかえたりすることが多かった。
ですが、定家という人は、
なるべく原文を変えないように
写本を作成したと言われています。
なぜかというと、やっぱりこの人はですね、
自分が愛した和歌、
自分が愛した天皇や貴族の文化が
もうすぐ滅びゆくのではないかという
強烈な危機感を持っていたんだと思うんです。
だからこそ、その仕事には
「自分が書き遺して伝えるんだ」
「後世にバトンを渡すんだ」という
執念のような思いが感じられます。
そんな思いを持った藤原定家が編んだのが
『小倉百人一首』です。
そういう視点で見ると、それぞれの歌が、
またちょっと違って見えてくるのではと思います。
たとえば小野小町は、自らの美しさが
月日と共に衰えていくことを嘆いています。
紫式部は幼なじみとのほんの少しの再会を、
雲間に隠れる月にたとえています。
こうした事実の羅列、シーンを、
一枚一枚ずらーっと最初から最後まで眺めると、
一篇の映画を見終わったような気分に
なるんですね。
それは、おそらく藤原定家が言いたかった
「王朝文化は素晴らしい」というヒストリーに
編み上げられるのではないかと思うのです。
陰りゆく貴族の権勢。
ゆっくりと沈みゆくように見える、王朝文化。
この素晴らしい文化を、
何としても後世に遺したい。
遺さねばならない。
そうした落日の貴族、文化の鎮魂歌として、
定家は『小倉百人一首』の歌を選んだ。
そういうメッセージが伝わってきます。
『小倉百人一首』には、いろんな歌がありますが、
自然を愛した歌、人を愛した歌が
めちゃくちゃ多いです。恋歌が43首。
ですから『小倉百人一首』とは、
「自然を愛し、人を愛し、
そして敗者、敗北を抱きしめて、
いつも心に31字の文学を」。
これが、私の本日いちばん言いたかったことです。
‥‥さて。
古典の声を聴き後世へつなげるという仕事は、
なにも昔の人の専売特許ではありません。
今まさに私たちも、1000年前から受け取ったバトンを
次の1000年につなげる役割があると考えています。
どうせなら、優れた作品を遺していきたいですよね。
現代において、古典を現代に広め、
未来へつなげる作品として
最も優れてると私が思うのは、
このあとご登壇いただく
末次由紀先生の『ちはやふる』という作品です。
末次先生は、古典好きにとっては
大変なスーパースターなので、
今回、一緒に登壇させていただくと聞いて、
リアルに椅子から落ちるぐらい
びっくりしたんですけれども‥‥。
実は今も現実味がなく、
ちょっとフワフワしています(笑)。
このあとみなさんと一緒に
末次先生の講演を楽しめることが、
私も望外の喜びです。
ぜひとも後世に遺すべき、偉大な作品の紡ぎ手の声に
耳を傾けたいと思っております。
まずは、ご静聴ありがとうございました。
(会場から大きな拍手。 そして次回は末次由紀さんのお話です)
2020-01-04-SAT