これまで、木村伊兵衛写真賞の受賞作を
たくさん手がけてきた
出版社・赤々舎の代表、姫野希美さん。
編集者と言われることに、
「ずっと、抵抗があった」そうなんです。
和歌の研究を志していた学生時代、
旅先の「上海の人の顔」に衝撃を受け、
ここに住みたいと思い、
現地で不動産屋をつくってしまったこと。
出版社でアルバイトをはじめ、
いきなり舟越桂さんの作品集を企画して、
1年かけてつくったこと。
写真との出会いから、赤々舎の設立。
じつにおもしろい半生をうかがいました。
担当は「ほぼ日」奥野です。

>姫野希美さんのプロフィール

姫野希美(ひめの・きみ)

大分県生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。2006 年に赤々舎を設立。写真集、美術書を中心に200冊余りの書籍を刊行。第33回木村伊兵衛写真賞の志賀理江子『CANARY』、岡田敦『I am』、第34回同賞の 浅田政志『浅田家』、第35回同賞の高木こずえ『MID』『GROUND』、第38回同賞の百々新『対岸』、第40回同賞の石川竜一『絶景のポリフォニー』『okinawan portraits 2010-2012』、第43 回同賞の藤岡亜弥『川はゆく』などがある。

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第1回 和歌研究から上海の不動産屋に。

──
以前、おうかがいして驚いたんですが、
姫野さんは、
編集者と呼ばれるのに抵抗があったと。
姫野
編集者になりたいと思ったことが、
なかったんです。
──
はじめての写真集を出そうとなったら、
まずは、赤々舎さんという版元の、
姫野さんという編集者に見せようって
新人写真家さん、
たくさんいると思うんですけれど‥‥。
写真は、じゃあ、好きだったんですか。
姫野
そんなこともないんです。
子どものころから、和歌が好きでした。
なので将来は、
和歌の研究者になるんだと思っていて。
──
編集者でも写真でもなく‥‥和歌。
姫野
大学院では古典の和歌を研究しました。
才能のことは置いておいて、
自分でも歌を詠んだり、
言葉や文字に興味があったんです。
──
でも編集者になりたいと思ったことは、
いちどもなかった‥‥と。
和歌が好きになったのは、なぜですか。
姫野
父親がシリーズで購読していた本の中に、
百人一首が載っていたんですね。
一首ずつの解釈が書いてあって、
きれいな写真も、挟み込まれていました。
いま思い返しても、
とってもきれいな本で‥‥大きな判型で。
──
ええ。
姫野
それで、夢中になっちゃって。
2日か3日でぜんぶ覚えちゃったくらい。

──
百人一首を、ですか? すごい‥‥!
姫野
とにかく夢中で。小学2年生くらいだし、
「忍ぶ恋」とか言われても
まったく意味はわからないんだけど。
とにかく、
百人一首の韻律感に夢中になっちゃって。
とにかく、
そこから古典文学に夢中になりました。
──
じゃ、小学校から
中学、高校もずーっと和歌がお好きで、
大学、大学院でも。
姫野
はい。
──
大学院での和歌の研究っていうと‥‥。
姫野
古典の『新古今集和歌集』です。
和歌の表現の基盤とか可能性、
歴史的な位置付けなどを研究してました。
──
和歌の研究者になろうと。
姫野
ええ、博士課程まで進んでいましたし、
このまま大学に残って、
研究を続けるんだろうと思ってました。
でも‥‥あるとき、ひょんなことから
旅行で上海へ行ったら、
雷に打たれたようなショックを受けて。
──
上海で?
姫野
はい。
──
雷に。
姫野
そう。
で、大学院に行かなくなりました。
──
えええ。それはどんな雷‥‥!
姫野
90年代の半ばごろなんですけど、
当時の上海は
大きな都市開発の波の真っ只中で、
まさしくバブルの先ぶれみたいな時期。
竹のやぐらで高層ビルを建築していて、
バンバンバンと
そこらじゅうからものすごい音がして、
街中が土煙で濛々となりながら、
出稼ぎの人がドーッと押し寄せていて。
──
わあ。
姫野
大勢の人たちが、どこへ行くのか、
リヤカーで物資や家財道具を運んでる、
みたいな雰囲気だったんです。
で、上海の人の顔にびっくり仰天して。
──
顔?
姫野
はい、はたらいている人たちの顔です。
とくに、出稼ぎの人たちの顔。
何ていうか「隙間のない顔」をしてた。
──
隙間のない‥‥顔。
姫野
そう、「いま、息をしてる」というか、
「生きていること」に隙間がない。
いま動いている、いまごはん食べてる、
いま、仕事をしている‥‥。
「生きている」ってことと、
隙間なくビタッとしているような顔で。
──
はあ‥‥。
姫野
自分はこれから、
どうやって生きていこう‥‥とか、
自分は何者なのか‥‥とか、
そういう
迷いの入る隙間のない顔をしてた。
──
時代特有のものなんでしょうかね。
高度成長期っていうか。
姫野
それは、あったかもしれないです。
それに対して、わたしは
自分のなかに迷いがあったんですよ。
和歌が好きでやってきたけど、
研究者として
生きていくのってどうなんだろうと。
漠然と。
──
ええ。
姫野
研究そのものはとってもおもしろくて、
いちばん大切なことだったんですが、
大学という、ある意味で
隔離され守られた環境にいることって、
どうなんだろう‥‥って。
上海ではたらく人たちに強く惹かれた、
というわけでもないんですが、
とにかく、
その隙間のなさにびっくりしたんです。
──
なるほど。隙間のない顔、に。
姫野
だって最初は、街を歩いていても、
わたし、横断歩道ひとつ渡れなかった。
──
車がビュンビュン来るから?
姫野
そう。日本だったら、信号が変われば、
渡らせてくれますけど、
当時の上海では
「わたし、渡ります!」
という意思を表さないと渡れなかった。
実際ふつうに渡れるようになったのは
暮らしはじめて数ヶ月してからです。
渡るときに、
目で車を止められるようになったのは。
──
車を「目」で止める‥‥んだ。
姫野
わたしは渡ります‥‥という意思表示。
わたしは歩く、わたしはビールを飲む、
わたしはチャーハンを注文する、
つねにみんなが、
はっきり意思を表示して生きてる感じ。
そうしなければ、何もできない。
明確に自分の意思を持って、
すべてを「わたしは」という主語から
はじめなければ生きていけない。
そのことに、心底びっくりしたんです。
──
はあ‥‥。
姫野
で、この街に住んでみたいって思った。
それで、大学院に行かなくなって、
住んじゃったんです。
──
何か、期待するものがあったんですか。
自分もそんな顔の人になりたいとか。
姫野
そうかもしれないです。
それにぜんぶ捨てるのが好きなんです。
何かを新しくはじめるときは。
──
でも、住むといっても、お仕事とかは。
上海で、和歌の研究をして
暮らしていたわけではないですよね。
姫野
当時から、ものすごい世間知らずで、
食べていくためには
何かやらなきゃいけないと思って‥‥
これから
何が上海で伸びるだろうと考えました。
で、日本料理屋か‥‥不動産仲介業か、
どっちかだと思ったんです。
──
すごい二択ですね!
何かもう、ぜんぜん和歌と関係ないし、
どっちとも難しそうですし。
姫野
それしかないと思いました。
お金や人脈があるわけでもなかったし。
よく考えて、不動産仲介業であれば、
日本に留学経験があって
日本語のしゃべれる、
中国人の知り合いがひとりいたので、
2人で合弁会社をつくれるな、と。
──
ものすごい急展開に驚いております。
話を聞いているだけなのに‥‥。
姫野
わたしが日本人駐在員のいる会社に
営業をかけて、
中国人パートナーが
不動産のオーナーに営業すれば
いけるんじゃないかと考えたんです。
日本料理のお店については
わたしは料理はできないんですけど、
お酒は飲めるから、
日本から料理人さんを連れてきたら、
何とかなるんじゃないかと。
どっちだどっちだ、みたいな感じで。
結局、不動産仲介業を選びました。
──
うまくいったんですか、ぶっちゃけ。
姫野
合弁会社をつくるといっても、
まあ、一筋縄ではいかないんですよ。
申請ひとつするにも時間がかかって、
毎日毎日、怒ってました(笑)。
──
たとえば‥‥。
姫野
とっくの昔に提出してる書類の件が
ぜんぜん進んでなかったり。
えっ、あのとき、
絶対そう言ったじゃんということが、
何事もなかったかのように
無視されて、放置されていたりして。
本当に、毎日、いろいろあって‥‥。
とはいえ、一晩寝れば
すべて変わるようなところもあって。
──
目の前の問題が、ですか。
姫野
日本の常識からすると、
どうしてそうなるのっていうことも、
毎日毎日激怒しているうちに、
いい加減怒るのにも慣れたというか、
飽きてきたんです(笑)。
まあ一晩寝れば状況も変わるだろう、
みたいな感覚になりました。
──
これまでの常識とちがう場所で
生きていくためのコツなんですかね。
でも、料理はできないけれども、
料理のできる人を連れてくればいい、
という発想は、
ちょっと編集者っぽい感じですけど。
姫野
あっ、本当?
──
だって、自分がやるより、
誰かの得意を引き出すっていうのは、
編集の仕事に似てるじゃないですか。
周囲の環境を整えて、
才能が活躍する土俵を作るというか。
編集の取材なんで、
無理やり言ってる感もありますけど。
姫野
あ、すいません、こんな話で(笑)。
でも、土俵ね。
たしかに、そう言われるとそうかも。

──
ともあれ、上海での不動産仲介業は、
軌道に乗ったってことでいいですか。
姫野
食べていけるぐらいにはなりました。
──
仕事としては、おもしろかった?
姫野
おもしろいというより「必死」でした。
習慣や文化の違いも大きかったし。
お客さんのお部屋のトラブルを
毎日片づけながら、なんとかしていく。
騒音でお客さんが苦情を言ってきたら、
夕立のなかを走って、
不動産開発会社へ乗り込んで行って、
社長室の前から一歩も動かない‥‥
みたいなことを、
毎日やらなければならなかったんです。
──
はああ‥‥ずぶ濡れで座り込み。
姫野
社長に話をつけるまで、
わたしはここから帰れないんですって。
じゃないと、お客さんを失う。
そういうことを、やり続けていました。
──
和歌の研究者の卵だったわけですよね。
ちょっと前までは。
そんなこと‥‥よくできましたね。
姫野
特別な技術は、何も必要ないですから。
──
たしかに、そうですけど‥‥。
姫野
専門的な知識も技術もないけど、
苦情処理みたいなことなら、できると。
やらざるを得なかったっていうか。
しかも、夜は毎晩、接待ですから、
もう身体はボロボロだったと思います。
──
ちなみに上海にいるときに、和歌は?
姫野
それがですね、つくってたんですよ。
自分で。
日本の結社に入っていたんです。
──
結社。
姫野
先生のもとにお弟子さんが集まって、
月に1回、結社誌を発行したりして。
馬場あき子先生のところに所属して、
「上海」というシリーズで
新人賞も獲りました。
──
その、上海での不動産のお仕事って、
どれくらい続けたんですか。
姫野
2年間ですね。デベロッパーとして
参加しないかとか、
けっこう事業として大きいお話も
舞い込んでくるようになって、
社内には、
野心を持った社員もたくさんいて。
でも、そこで、ふと我に返ったら、
わたしは
不動産にひとかけらも興味がないな、
ということに気がついたんです。
──
そこまでやっといてですか!(笑)
姫野
会社を大きくするビッグチャンスを
目の前にして、
ビジネスとして成功したいとか、
会社を大きくしたいという気持ちが、
わたしには、
まったくないことに気づいたんです。
──
はあ‥‥。
姫野
それで、京都に戻ったんです。

(つづきます)

2021-10-18-MON

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  • 写真家・石川竜一さんの最新作
    『いのちのうちがわ』

    木村伊兵衛写真賞受賞作家の石川竜一さんが、
    2015年から山へ入り撮影してきた、
    さまざまな「いのち」の「うちがわ」の写真。
    作品は本として綴じられてはおらず、
    1枚1枚のプリントを束ねた
    ポートフォリオブックの体裁をとっています。
    限定700部。
    作家によるサインとエディションナンバー入り。
    定価14300円(税込)。

    その美しさは完璧なように思え、
    頭で考えても理解できない感覚や感情は
    ここからきているのだと感じた。
    個々の存在とその意思を超えて形作られたその様は、
    生い茂る木々や岩石と重なっても見えた。
    自然のうちがわに触れ、
    その圧倒的な力を思い知らされたとき、
    物事の区別は緩やかなグラデーションで繋がって、
    自分自身もその循環のなかにいるのだと感じた。
    石川竜一『いのちのうちがわ』あとがきより

    お問い合わせは、赤々舎のHPから。