あの編集部の人たちは、
いま、どんな特集をしているんだろう、
何を見ているんだろう‥‥と
気になる雑誌が、いくつかあります。
そのなかのひとつが『美術手帖』です。
現代アートをあつかう雑誌‥‥
のはずなのに、
「アニメ」や「人類学」や「食」まで、
アート視点で取り上げる軽やかさ。
特集「編集とは何か。」第5弾は、
紙とウェブの『美術手帖』を統括する
岩渕貞哉総編集長に聞きました。
担当は「ほぼ日」の奥野です。どうぞ。

>岩渕貞哉さんのプロフィール

岩渕貞哉(いわぶち ていや)

『美術手帖』総編集長。1975年、横浜市生まれ。 1999年、慶応義塾大学経済学部卒業。 2002年、美術出版社に入社、『美術手帖』編集部へ配属。 2007年に同誌副編集長、2008年に編集長に就任。2018年からは紙とウェブ版の『美術手帖』を統括する総編集長に就任。ウェブの『美術手帖』は、こちら

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第1回  美術のエリートではなかった。

──
以前『美術手帖』で連載されていて
単行本化された
椹木野衣(さわらぎのい)さんの
『後美術論』という作品が
すごくおもしろかったんですが、
あちらも、岩渕さんのご担当だったんですね。

岩渕
ええ、椹木さんと
歴史に残るような仕事がしたいなあと思って
企画したものです(笑)。
──
おお、その「編集者の情熱」で。
岩渕
連載をはじめる前から、
のちのち本にしようとは思っていたんですが、
1回の原稿が3万字もあるんです。
これは当時の美術手帖では異例のことでした。
毎月の連載だと
そこまでのボリュームで書いてもらうことは
むずかしいので、
3ヶ月に1回の連載にさせていただいて。
──
あの作品には、編集者として、
どういったスタンスで関わっていたんですか。
岩渕
椹木さんの
いま書きたいことを書いてもらおうと。
その代わり3か月に1回、
あるていどまとまった時間をとってもらって、
3万字ほどのボリュームで、
椹木さんの本気の一発を出してもらたい、と。
──
なるほど。
岩渕
せんえつですけど、
椹木さんの代表作になるような作品の舞台を
つくれたら‥‥と考えていました。
──
じゃ、編集者としては会心の一撃でしょうね。
この人だと信じた才能のために
舞台を整えて、
結果、あんなおもしろい作品がうまれるって。
岩渕
個人的にも、思い出に残る仕事です。
──
吉田秀和賞という賞を受賞されてますね。
次作の『震美術論』は、文部科学大臣賞だし。
岩渕
ええ。
──
なかでも東京都現代美術館で行われた
オノ・ヨーコさんの大きな展覧会のときの
公開レクチャーの「聞き手」として、
椹木さんが指名された話が、すごいなあと。
岩渕
ああ、はい(笑)。
──
椹木さんご自身も、
どうして指名が来たのかがわからないまま
当日を迎え、
打ち合わせもなく、初対面の人として
壇上に上がるわけですが、
そこで待っていたのは、
通常の対談のようなものではまったくなく。
岩渕
そう、いきなり巻尺をとり出した
オノ・ヨーコさんが、
椹木さんの頭のサイズを測定しはじめたり、
青い糸でぐるぐる巻きにしたり。
挙句の果てに椹木さん、
壇上で、でんぐりがえしさせられたり‥‥。
──
最初、その展開に面食らっていたけれども、
椹木さんは途中から
「ある種のゲームを仕掛けられている」
ことに気づいていく‥‥という。
読んでいるだけでもスリリングだったので、
オーディエンスとしてあの場にいたら、
どんな気持ちになっただろうと思いました。
岩渕
横尾忠則さんなども会場にいたみたいですね。
──
いまだにあれが何だったのかわからないと
椹木さんは書いていますが、
そもそも「なぜ、椹木さん?」の部分さえ、
ご本人にも謎だったわけですよね。
岩渕
たぶん読んでたんじゃないですかね、本を。
オノ・ヨーコさんが、椹木さんの本を。
かつ、評価していたってことだと思います。
──
あの場そのものが現代アートだったという、
そういうことだとしたら、
現代のアートの幅ってどれだけ広いのかと。
岩渕
まあ、椹木さんご自身も、
アーティストっぽいところがあるんですよ。
──
あ、そうなんですか。
岩渕
一緒に取材に行ったり
ゴハン食べたりすると気づきが多いんです。
目のつけどころが、
なんかもう、人とぜんぜんちがっているし。
──
出会いは‥‥。
岩渕
ぼくが通っていた
大阪のインターメディウム研究所の先生。
──
あ、先生と生徒のご関係でしたか。
どんな先生だったんですか、椹木先生って。
岩渕
アートセオリー、美術の理論を教えていて、
授業自体は淡々としているんだけど、
授業以外の時間での学びが多かったですね。
学校が大阪にあったので、
授業のある日は1泊していたんですが、
授業後にゴハンに連れてってくれたりとか。
──
なるほど。じゃ、そのあと学校を出て、
就職して『美術手帖』の編集部に入って、
椹木さんにお仕事を頼みに行った、と。
岩渕
そうなんです。
どこかのオープニングに出席したときに、
「あれ、何やってんの?」
みたいな感じで、再会したと言いますか。
──
先生としてはうれしいんじゃないですか。
教え子から仕事を頼まれるなんて。
岩渕
ぼくのほうがうれしかったですよ。
──
岩渕さんは、けっこう若いころから
編集長職に就いていましたが、
『美術手帖』に関わりはじめたのは。
岩渕
2002年ですね。
──
で、編集長になったのって?
岩渕
2008年の夏くらいです。
──
そんな、入社6年間で編集長‥‥とかって、
すごいスピード出世じゃないですか。
岩渕
いやいや、年齢で言ったら
編集者になった2002年で26歳なので、
編集長になったのは32歳なんです。
だから、そんなに若いわけじゃないと思う。
──
ただ、現在の肩書は「総編集長」ですよね。
さらに出世してしまわれて‥‥。
岩渕
いやいや、そういうわけでもなくて(笑)。
雑誌とウェブ版の『美術手帖』それぞれに
編集長がいるんですけど、
ぼくが、その両方を見ているというだけで。
──
つまり『美術手帖』全体を統括している。
岩渕
まあ、そうなります。
出版事業も状況が変わってきていますから、
これまでの編集者は、
紙の雑誌なら「部数」を積む、
ウェブなら「PV」を増やして広告で稼ぐ、
それがほぼ唯一のビジネスモデルで、
ある意味、シンプルだったんですが。
──
ええ。
岩渕
いまはマネタイズする方法も、
どんどん、複雑になってきていますので、
試行錯誤をしているところです。
ただ、肝心なことは
いかに「売れるコンテンツ」をつくって、
どうやって
ビジネスとして成立させるか‥‥で、
その部分に関しては、
まあ、変わらないと言えば変わらないけど。
──
つまり「総編集長」とは、
お金の稼ぎ方を考える役割ってことですか。
岩渕
質を保ったメディアを続けていくために、
それが大きな仕事のひとつ、ですね。
──
もともと美術が好きだったんですか。
ちっちゃいころから。
岩渕
いえ、そうじゃないんです。
そもそも大学は経済学部を出ていまして、
美術が専門ではなかったんです。
──
あ、へえ‥‥そうだったんですか。
岩渕
だからといって、
経済をまじめに勉強していたわけでもなく、
映画や小説、現代思想、音楽など
カルチャーが好きで、
『STUDIO VOICE』とか『10+1』とか
『批評空間』とか‥‥。
──
おお、同世代の空気を感じる(笑)。
岩渕
カルチャー・思想系の雑誌が
大好きだったんです。
──
アートが専門ではなかったけれども、
アートの隣接領域にはいらしたと。
その大阪のインターメディウム研究所には、
じゃあ、大学を卒業されたあとに?
岩渕
そうなんです。
就職を考えなきゃいけない時期がきても
行きたい企業もとくになく、
そもそも就職活動じたいが肌に合わずに、
途中でやめてしまったんです。
──
そうなんですか。
岩渕
それで、インターメディウム研究所で
2年間、美術を集中的に勉強しました。
のちに連載をしていただく椹木さんほか、
写真家の港千尋さん、畠山直哉さん、
造形作家の岡崎乾二郎さん‥‥
などのみなさんの授業も受けて、
同級生にも
アーティストの卵みたいな人たちが多く、
彼らと付き合ううちに、
美術と関わっていきたいと思いまして。
──
当時、日本のアートの状況って‥‥。
岩渕
村上隆さんや奈良美智さん、
会田誠さんなどの新しい才能が出てきて、
日本の現代美術が、
世間へとひらかれはじめた時期でした。
そういう流れもあって、
美術を仕事にしたいなあという気持ちが、
徐々に高まっていったんです。

──
カルチャー好きの流れから、アートへと。
アートと言っても広いですが‥‥。
岩渕
現代美術の領域を広く‥‥という感じです。
もともと自分は興味関心がバラバラで、
映画や小説、現代思想、音楽‥‥美術と、
さまざまなカルチャーを、
横断的にとらえるのが好きだったんです。
──
たぶんぼくは、岩渕さんと
ほとんど年齢が一緒だと思うんですけど、
何だかいろいろ共感します。
ぼくらが大学生だった90年代って、
日本ではそれまで
あまり学問対象と見なされてこなかった
サブカルチャーの研究をはじめ、
いわゆるカルチュラル・スタディーズが
大流行りしていましたよね。
岩渕
そうそう。浅田彰さんらが関わっていた
「批評空間」から、
東浩紀さんが鮮烈にデビューしたりとか。
──
ジャック・デリダを論じた
新潮社の『存在論的、郵便的』ですよね。
岩渕
そうです、そうです。
学生時代に夢中になって読んでいました。
──
自分も大学の生協で見てジャケ買いして
ウンウン唸りながら、
いちおう、
最終ページまでめくった記憶はあります。
インターメディウム研究所では、
具体的には、どんな勉強をしたんですか。
岩渕
批評家を目指すための理論的な授業です。
論文は、1930年代のアメリカの
伝説的な美術学校
「ブラック・マウンテン・カレッジ」
について書きました。
写真を撮ったりもしていましたね。
ただし、社会人も通っていた学校なので、
授業があるのは土日。
だから、平日はわりと時間があったので、
京都や奈良へ遊びに行ったり、
友だちの家で、みんなで団欒したりとか。
──
編集者になりたい‥‥というきっかけは?
岩渕
学校の授業に、たまーに、
それこそ
『美術手帖』だとか『STUDIO VOICE』、
『10+1』という雑誌の編集長が
ゲストで来てくださったりしていました。
そのとき編集という仕事を知ったんです。
アーティストになるのは
自分には難しいと思っていたのですが、
造り手と受け手の間に立つ
「編集」という仕事に興味を持ちました。
──
おもしろそうかも、と?
岩渕
んんー‥‥編集者としてなら、
自分でも美術に関われるかなあと思った、
というほうが正確かもしれません。
──
なるほど。
岩渕
ただ、同世代だしご存知だと思いますが、
当時は就職氷河期の真っ只中で、
編集者になろうにも、
募集している出版社がほとんどなかった。
あっても「経験者優遇」とか
「2年以上の実務経験が必要」みたいな。
──
たしかに厳しい時期でしたよね。
岩渕
なので、うまいこと就職先も見つからず、
2年で美術の勉強を終えたあとは、
横浜の実家に戻り、
それからしばらく、
フリーターのように何にもしていなくて。
──
は、そんな時期もあったんですか。
岩渕
でも、そんな生活を1年も続けてきたら、
さすがにこのままでは
ニートになってしまうと焦り出しました。
とはいえ
何のアテもなく、悶々としていたときに。
──
ええ。
岩渕
たまたま、コンビニで立ち読みしていた
就職情報誌に、
『美術手帖』で編集者を募集中‥‥って。
──
おお!
岩渕
そこにも「経験者優遇」とありましたが、
藁をもつかむ思いでと言うのか、
応募してみたら‥‥運よく受かりました。
──
はぁーっ‥‥そうだったんですか。
いや、岩渕さんって若いころから
『美術手帖』という
専門知識の要る雑誌の編集長をつとめているし、
なんかもう、
美術のエリート街道をガチで歩んできた人かと、
勝手に想像していたんですけど。
岩渕
ぜんぜんちがうんです(笑)。

(つづきます)

2021-09-06-MON

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  • 『美術手帖』最新号の特集は
    「女性たちの美術史」

    このところ、特別展や企画展だけでなく、
    コレクション展などでも
    ひとつの重要なセクションとなっている
    女性アーティストの美術作品。
    最新号の『美術手帖』では、
    女性作家の作品が置かれてきた状況や、
    「現在」と「これから」について、
    いろいろと学ぶことができました。
    とくに、東京国立近代美術館や
    東京都現代美術館、
    アーティゾン美術館などでよく見かけて
    気になっていた
    具体美術協会の田中敦子さんについて、
    おもしろく知れて、よかったです。
    読みごたえがあります。ぜひ、ご一読を。
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