以前より森山大道さんと親交の深い
作家の大竹昭子さんが、
たっぷりと、語ってくれました。
森山さんの言葉や文章の魅力と、
そのすばらしさについて。
森山さんの言葉は
「写真を持続させる力」を持ち、
森山さんの文章は、
「どこか日記的である」といいます。
もしかしたら森山さん自身も、
日記的みたいな人かもと、大竹さん。
『スナップショットは日記か?』
という随想録も出版している作家の、
膝を打つ「森山大道の文章」論。
全6回連載、担当はほぼ日奥野です。
大竹昭子(おおたけあきこ)
文筆家。1980年代初頭にニューヨークに滞在、文章を書きはじめる。小説、エッセイ、批評など、ジャンルを横断して執筆。著書に『図鑑少年』『随時見学可』『間取りと妄想』『須賀敦子の旅路』『東京凸凹散歩』など多数。写真関係の著書には『彼らが写真を手にした切実さを』『ニューヨーク1980』『この写真がすごい』『出来事と写真』(共著)などがある。二〇〇七年より都内の古書店を会場にトークと朗読のイベント<カタリココ>を開催。また東日本大震災の直後にはトークイベント<ことばのポトラック>を行い、継続中。二〇一九年、それらの活動をベースに「カタリココ文庫」の刊行をはじめる。最新刊は『五感巡礼』。インタビュー中にも話題が出てきますが、写真も撮影されています。
カタリココ文庫
(森山大道さんの写真と「日本の日記文学」についての
随想録『スナップショットは日記か?』も、こちら)
- ──
- 当時、大竹さんが感じていた
写真の実感ということについて、
もう少し、
具体的に教えていただけますか。
- 大竹
- わたしは、写真というものは、
持続することにおもしろさがあると
思っていたんです。
- ──
- 撮り続けることに。
- 大竹
- そう。撮り続けることがおもしろい。
- そして同時に、
撮り続けることって何て大変なのか、
そのことも感じていて。
- ──
- なるほど。
- 大竹
- わたし、ニューヨークで1年くらい
夢中になって写真を撮って、
楽しくて楽しくて、仕方がなかったんだけど、
でもこれは、わたしには大変すぎるから、
自分の表現としては、
やっていけないなと思った(笑)。
- ──
- 何を撮ってらっしゃったんですか。
- 大竹
- 街並みとか、建物とか。
たまに友人とか、部屋のなかとか。
惹かれたものをスナップする。
- ──
- 森山さんのように?
- 大竹
- そうですね。
- 撮っていて、すごくおもしろくて、
毎日毎日興奮しながら、
濃密な時間を過ごしたんですけど。
- ──
- 撮るのは楽しかったけど、
撮り続けるのは大変だった。 - 何が、そんなに‥‥。
- 大竹
- 結局、わたしの場合は、
自意識のありかがつかめなかったの。 - ようするにね、自分が撮ったのか、
カメラが撮ったのか、
よくわからないの、写真って。
で、わたしにとっては、
そこがとっても重要だったんです。
- ──
- はああ、なるほど。
- 大竹
- だって写真をやりはじめたころは
部屋の中のデスクの脚でも、
グチャグチャになったコードでも、
ファインダー越しに見ると、
ぜんぜん違う世界に見えて。 - そのことがおもしろくて、
もう、興奮しまくってたわけです。
- ──
- ええ。
- 大竹
- ところが、いずれ、見飽きるのね。
飽きない人もいると思いますよ。
森山さんがそうだし。
でもわたしの場合は飽きちゃった。 - あんなに興奮した写真が、
自己模倣になっていったんですよ。
自分が見つけたひとつの型に、
はめていくように、なっていった。
- ──
- それで「写真家って、何なんだ!」と。
- 大竹
- あらゆる写真家に対して思いますね。
- この人は、写真を続けていくために、
自分をどう焚きつけているんだ、
次の動機づけを
どうやって見つけるんだって。
- ──
- たしかに。森山さんなんて、とくに。
- 大竹
- そんなことがあって、
わたしは書く方が中心になっていったんです。
写真を持続する人への
興味と関心と尊敬を深く持ったままでね。 - そのころ、飯沢耕太郎さんが
雑誌の『芸術新潮』で、
戦前の日本の写真家についての連載を
担当していたんです。
で、戦後編は別の誰かにって探してて。
- ──
- 大竹さんに、白羽の矢が立った‥‥と。
- そうやって大竹さんは、
グッと「書く」方面へと進んでいった。
- 大竹
- うん、さっきも言ったように、
わたしは
ファインプリントが好きだったんです。 - だから、森山さんの写真には
当初そこまで惹かれなかったんだけど、
ただ、この人が
おなじスタンスで
写真を持続していけるって、何なんだ、
どうしてそんなことができるんだろう‥‥と。
- ──
- それこそ、同じ街を毎日。
- 大竹
- そう、テーマさえ持たずに。
飽きずに、街を撮り続けるわけですよ。
- ──
- 興味を覚えた。
- 大竹
- もう、非常に「謎!」でしたよね。
- ふつうなら何かしらテーマがあるのに、
この「森山大道」という人は、
ただ街に出て、
目についたものをスナップするだけで。
- ──
- そういう人って、いないんですか。
- 大竹
- いない、いない。ハッキリ言えますよ。
世界中を見回しても、
意識して持続している人なんて、いないです。
- ──
- 森山大道さん、ただひとり。
- 大竹
- それを「60年」も続けているなんて。
呆れるしかない。
- ──
- 自分のことで考えても
コンセプトとかテーマのない仕事って、
すごく難しいと思うんです。 - 拠りどころがないみたいなことですし。
- 大竹
- そう。拠りどころがないの。まさに。
- わたし、荒木(経惟)さんも大好きで
尊敬していますけど、
彼は「写真は飽きちゃうものだ」ってことを、
直感的にわかっている人なのよね。
- ──
- なるほど。
- 大竹
- だから対象によってカメラを変えてみたり。
カメラに身を預けるということをします。 - できるだけ能動的にしないようにするの。
そうすると行き詰まるから、
カメラの命ずるまま、
被写体の求めるまま、できるだけ受動的に。
飽きないように、
向こうから何かが来るように仕向けるんです。
- ──
- ええ。
- 大竹
- でも、森山さんの場合は、
ある意味、まるっきり愚直なやり方です。 - 毎日ストリートに出て、
いちばんシンプルなカメラで撮る、だけ。
それしか、やってない。
- ──
- はあ‥‥。
- 大竹
- しかも、そのやり方を
敢えて選択してるんじゃなくて、
ただ「好きでやってる」。
街が好きで、歩くのが好きで、続けている。 - いつだったか聞いたことがあるんですよ。
本当に飽きないんですか‥‥って。
どうしても不思議だったから。
- ──
- ええ。そしたら?
- 大竹
- 飽きないんだよって。
- ──
- すごいな。
- 大竹
- いまも、ハッキリ憶えてるんだけど、
池袋の仕事場で写真の話を伺っているうちに、
外がだんだん暗くなってきたんです。 - すると森山さん、窓から路上を見て、
「ああ、路上に下りてすぐ撮りたい。
こんなことしてる場合じゃない、
っていう気持ちになるんだよ」って。
- ──
- 何が撮りたいということでもなくて。
路上に戻りたい。戻って撮りたいと。
- 大竹
- そう。それだけなの。
- 「いますぐ街へ出ていきたい」
「路上で立っていたい」
「そこで1点でも多く撮りたい」
- ──
- 街に、路上に、衝き動かされてる。
- 大竹
- 森山さんの写真って断片的でしょう。
とっても。
- ──
- 断片的‥‥たしかに。
- 大竹
- そこにも大きな謎っていうかな、
森山さんらしさがあると思うんです。 - フレームの中に
外の世界を閉じ込めるんじゃなくて、
「世界は絶対に撮りきれない」
ということを
わかって撮っている気がするんです。
- ──
- 世界は撮り切れないと、知っている。
世界は撮れる‥‥じゃなくて。
- 大竹
- うん。
- 「撮りきれない、自分が撮るものは断片だ」
「生きているかぎり、断片を撮り続けたい」
- ──
- それが「森山大道」という写真家。
- 大竹
- そう思うんです。
- ──
- ご本人にはそんな意識はないでしょうけど、
求道というような言葉さえ浮かびます。
- 大竹
- つねに自問自答を続ける姿勢には、
心を動かされます。 - 写真に迷っていた時期には、
「自分にとって写真とはいったい何だろう」
という問いを立て、
「こういうものではないか」
「ちがう、こうではないか」
そんなふうにして、
自分なりの言葉で答えようとしてる。
- ──
- ええ。『犬の記憶』の中で。
- 大竹
- その姿が‥‥。
- 何だか、起承転結の決まりきったルートを
進んでいくんじゃなくて、
どこへたどりつくかもわからないような、
迷路みたいな、螺旋階段みたいな道を、
撮りつつ、問いつつ、
進んでいるように感じられて。
- ──
- おお。
- 大竹
- 森山さんの息遣いが行間からにじみ出ていて、
まるで、あの『犬の記憶』という本の中を、
森山さんが「歩いている」みたいだった。
- ──
- 何か見つけ出そうと。
- 大竹
- カメラを片手にね。
(つづきます)
2021-04-26-MON