こんにちは。ほぼ日の永田泰大です。
オリンピックのたびに、
たくさんの投稿を編集して更新する
「観たぞ、オリンピック」という
コンテンツをつくっていました。
東京オリンピックでそれもひと区切りして、
この北京オリンピックはものすごく久しぶりに
ひとりでのんびり観戦しようと思っていたのですが、
なにもしないのも、なんだかちょっと落ち着かない。
そこで、このオリンピックの期間中、
自由に更新できる場所をつくっておくことにしました。
いつ、なにを、どのくらい書くか、決めてません。
一日に何度も更新するかもしれません。
意外にあんまり書かないかもしれません。
観ながら「 #mitazo 」のハッシュタグで、
あれこれTweetはすると思います。
とりあえず、やっぱりたのしみです、オリンピック。

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18 ごあいさつ

ルールと身体と感情。

 
私たちの気持ちと身体はせめぎ合う。
よりよくあろうとすることと、
自由でいようとすることはせめぎ合う。
ルールがなければスポーツにならない。
スポーツはルールからはみ出そうとする。
そういうことを、
オリンピックを観ているといつも思う。
あたらしい場所へ伸ばした先端と先端が、
互いに上書きし合うのが
オリンピックという祭典なのかもしれない。
たとえば、より高く飛ぼうとすることと、
これ以上飛ぶのは危険だと定めること。
一瞬でも速く踏み出そうとする足と、
二度目のフライングを失格とするスターター。
競技中に禁止されているバックフリップを
エキシビションで表現として披露する選手たち。
冬のオリンピックは、
おそらく人が夏の競技ほど
まだその競技をとことん消費していないため、
せめぎ合う領域が広いような気がする。
それは、はっきりと冬季五輪の見どころであると思う。
ぼくは、そのせめぎ合いが
やがてひとつに統一されると思っていない。
そりゃぁどっちもどっちでしょう、
という諦観としてではなく、
よりよいひとつの到達点を目指して
毎時、毎秒、びりびりと交流し続けるほかないし、
そのスパークする状態を維持することこそが
人間たちのパーソナルベストだと思っている。
たとえば平野歩夢選手の決勝の
すばらしいルーティンを
ほんとうに正しく評価するためには、
フィギュアスケートの技術点のような
レギュレーションを決めて
いちいちプロトコルを出さなきゃいけないだろう。
(そうなっていくような気もする)
でも、すべてがその方向に進んで行ったら、
スノーボードスロープスタイルで
人とまったく違うラインを滑ることなんかを
どう評価すればいいんだろう。
お手本をなぞるようなスノーボードなんて
誰ももとめていないのではないか。
そのあたりの調整を、ルールの側はあきらめない。
しつこくしつこく、よりよくしようとする。
ルールというと自由な表現を制約する
よくないものと思われがちだけれど、
オリンピック種目になるようなスポーツは
どれもルールがよくできているとぼくは思う。
おかしな言い方だけど、
この競技はおもしろいなと思うときは、
じつはそのルールをおもしろがっている。
いい試合だな、とほれぼれするときも、
目は選手やスコアを追っているけれど、
ルールが全体をおもしろくさせていると気づく。
たとえば、単純なことだけど、
3回すべって得点のいい2回の合計で競うとか、
世界ランキングの低いほうからすべる一発勝負とか、
距離だけじゃなく飛行型も競うジャンプとか、
うまいシステムだなあとぼくはしばしば思う。
ハウスのなかにどれだけ石があろうと、
まずは中心にいちばん近いファーストストーンがないと
まったくポイントにならないだなんて、
なんておもしろいことを考えたんだろう。
グループとグループのあいだの
「6分間練習」って、
絶対あったほうがいいよね。
たぶん、よりおもしろく、
よりよくしようと思う人たちがいて、
そのスポーツは長い時間をかけて
いまのかたちにたどり着いたのだと思う。
だからこそ、選手はそこからはみ出そうとして、
極まれに、ほんとうにルールを変えてしまうくらいの
スーパースターが現れたりする。
オリンピックレコードや世界新記録を目撃したときに感じる
ちょっとひやっとする独特の感覚があるのは、
そのルールが脅かされているからじゃないかとぼくは思う。
つまり、自由であろうとする私たちと、
よりよくなろうとする私たちは、
オリンピックという最先端の場所でスパークする。
オリンピックを観るかけがえのなさを、
おおげさに言うのならば
きっとそういうことなんだろう。
そして、ルールと身体は対等ではない。
順番からいえばまず身体がある。
選手はルールを守るけれど、
ルールのために選手がいるのではない。
選手をよりよくするためにルールが洗練されていく。
つまり、当たり前だけど、オリンピックの主役は身体だ。
うつくしく最適化され、そのうえではみ出そうとする
アスリートこそがメインテーマだ。
今回いの北京2022オリンピックのなかでも、
たくさんの美しい身体性をたっぷり目撃した。
村瀬心椛選手のフロントサイド1080の着地、
小林陵侑選手の飛び出し直後の飛行型、
弾丸みたいなエリン・ジャクソン選手の37秒間、
ぴったり寄せるイブ・ミュアヘッド選手のドローショット。
トゥルソワ選手のフリーのクリムキンイーグル。
あるいは不格好だが勇気の湧くような身体性もあった。
序盤のコブで崩されるもあきらめず
踏ん張って立て直した堀島行真選手の修正能力。
身体ごと突っ込んでくる外国人選手に動じず
冷静に防ぎ続ける藤本那菜選手のブロック。
ガイガー選手に食らいつく山本亮太選手のスパート。
これが最後の五輪と宣言している
ビュスト選手のオリンピックレコード。
トゥルソワ選手のエキシビションのクリムキンイーグル。
ああ、もう、きりがない、きりがない。
たくさん観たよ、すばらしいものを。
ルールや枠組みから自由にはみ出していく
アスリートたちの身体を。
そして、ぼくは17日間の大会を振り返ってみると、
身体とルールのほかにもうひとつ、
大切なものがあったことに気づく。
それは感情である。
感情は、ルールと身体のせめぎ合いのなかで、
あちこちからあふれ出していく。
選手は、達成感に叫び、惜敗にうずくまり、
あるいは単に終わったという開放感で呆然とする。
最後のジャンプを降りたという手応えで
競技中にあふれだす感情もあれば、
ついにはじまるという直前にもっとも高まる感情もある。
まえにも書いたけれど、
私たちがオリンピックの思い出として長く記憶するのは、
勝利や記録やメダルよりも、
どうしようもなくあふれだす感情からだと思う。
高梨沙羅選手、高木美帆選手と高木菜那選手、
ロコ・ソラーレの準決勝、
キス&クライの鍵山優真選手、
にじみ出る涙をぬぐうショーン・ホワイト、
岩渕麗楽選手を囲むあのすばらしいハグの輪。
ああ、これもきりがないよ。ほんとに。
また、ルールと身体のなかで飛び散る感情は、
それを目撃する多くの人を盛大に巻き込む。
選手よりもコーチや仲間のほうが
先にそれを素直に表現することもある。
そして、すばらしいことに、その吸引は、
遠くで観ている私たちも巻き込む。
あの場所で拳を突き上げる私たちと、
テレビのまえで、よしっ、よしっとつぶやく私たちは、
同じ種類の感情に突き動かされている。
冗談みたいだけど、そこには一体感というものがある。
すごいことだと思いませんか。
羽生結弦やレデツカやシモン・アマンや
アイスホッケーのフィンランドチームと同じ
一体感をぼくらがあじわってるなんて。
だからこそ、オリンピックを観ながら、
みんなであれこれ言い合うだけのこの遊びが
なんだか知らないけどずっと続くのだと思う。
今回のオリンピックもおもしろかったし、
「#mitazo」での共有も底抜けにたのしかった。
ぼくは、自分のなかの価値観のひとつとして、
「誰もいないとき、ひとりでもそれをやるか?」
という基準をもっている。
ぼくはオリンピックを観ながらしばしば考える。
もしも、オリンピックはあるけれども
観客がぼくひとりという状態だったら、
それを観ることはおもしろいのだろうか?
きっと物足りないのではないかとぼくは思う。
すばらしいものを観たとき、
ぼくは「いまの観た?」と言いたいのだ。
「観た、観た!」「観たよね!」と言い合いたいのだ。
投稿ではないかたちでオリンピックと関わって、
ひとりで原稿を書き続けてきたからこそ、
ぼくにはそれがいっそうはっきりとわかった気がする。
選手のすばらしい瞬間を中心にして、
仲間やコーチや観客や遠くの視聴者まで
広がり巻き込んでいくぜんぶが、
ぼくにとってのオリンピックなのだと思う。
だから、読んでくださって、ありがとう。
最後もやっぱり長くなりました。
オリンピックを観ているだけのファンが、
こんな場所で思ったことを書いているという状況を
おこがましく思っています。
アテネやトリノのときなら
絶対にできなかったと思いますが、
ラジオ体操のスタンプをぜんぶ埋めた
ご褒美みたいな感じで(昭和のたとえ)、
厚かましくもこんなに書かせてもらいました。
例によって、つぎがどうなるかはわからないけれど、
かならず2年後もぼくはオリンピックを観るし、
「いまの観た?」と言うのだと思う。
どうもありがとうございました。
また遊びましょう。
 
2022年2月21日
永田泰大

(お し ま い)

2022-02-21-MON

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