旧石器、縄文、弥生、古墳時代。
帽子作家でイラストレーターのスソアキコさんは、
そんな時代の文化に、とても興味を抱いています。
いつでも、ふつうに、大昔のことを考えている人です。
だから気軽に「やあやあ」と、
まるで友だちに会いに行くように、
どこかの土偶やハニワを訪ねて歩くのです。
「やあやあハニワさん、なにかおもしろい話ある?」
いにしえの時代のあれやこれやを教えてくれる、
スソさんの、のんびりレポートを、どうぞ。
※これまでのスソさんのレポート、
「ひとり古墳部」はこちらからどうぞ。
スソアキコ
帽子作家/イラストレーター。
石川県生まれ。
金沢美術工芸大学 商業デザイン科卒業。
(株)資生堂入社 宣伝部(宣伝制作室)配属。
在籍中よりイラストレーターとして活動を始める。
同社を退社後、帽子作家として活動を始める。
ギャラリーでの帽子作品の発表と並行して、
雑誌・CM・書籍の挿し絵など、
イラストレーターとしても活躍中。
スソさんのウェブサイトはこちら。
〈スソさんのお仕事〉
・花椿 帽子制作(資生堂 1993-1997)
・ウインドウディスプレイデザイン
(エルメスジャポン 1988-2001)
・パリコレクション(タオコムデギャルソン 2011)
・CMスタイリング(JT.キリン.日清 他)
・イラストレーション・キャラクターデザイン
(資生堂.トヨタ. NTTドコモ.日立 他)
〈スソさんのほぼ日のコンテンツ〉
「スソアキコの ひとり古墳部」
「古墳と山高帽展@TOBICHI②」
「スソさんのたのしい帽子教室。」
「スソさんのせかい」
土偶を見たあと、
逆側のガラスケースに並んでいたのは石器でした。
石器って、
どれも似たように見えるなー思っていたんですが、
ここのは違っていたんです。
ずらり、神子柴(みこしば)遺跡の石器です。
今回は幾つかの石器が
レプリカ(貸出中のため)だったので、
前回撮った画像を混じえて見ていきましょう。
尖頭器。
どれも木の葉のような形をしています。
とても薄くて大きいー。
しかも左右対称に近いなんて、
相当な技術が必要なんでしょうね。
美しいな~。触ってみたいな~!
左の黄色い3つは、
約150キロ以上離れた新潟県中・北部で採れる
玉髄(ぎょくずい)という石で作られています。
その次の黄色い1つは
凝灰質頁岩(ぎょうかいしつけつがん)。
右端のものは、
約60キロ離れた岐阜県の下呂石(げろいし)で、
長さがなんと25センチもあるそうです。
黒く光る黒曜石は、50キロ離れた和田峠産のもの。
しかし、詳しく調べてみると、
黒曜石の尖頭器の中には、
200キロ以上も運ばれていた運搬痕が
確認されるものがあるんだとか。
つまり、和田峠近くで作られてから、
あっちこっちを経由して、
ここにたどり着いたってことなんだって!
局部磨製石斧。
下の部分が研磨されています。
長さは約20センチ前後もあって、重そうです。
名前のとおり、石斧として使うのですね。
石の種類は、凝灰岩、黒雲母粘板岩、砂岩と3種。
遺跡付近の10キロ圏内で採れる石なんだそうです。
打製石斧。
緑色岩(左から2つめ)という名の石も登場。
これも遺跡付近で採れる石材。
重い石斧は運ぶのが大変だから、
近くで作られたものなんですね。
細長い石器たち。
掻器(そうき)は、皮をなめす時、
皮についた肉をこそげるために使うもので、
削器(さつき)は、骨や木を削る時に使うのだそうです。
珪質頁岩(けいしつけつがん)という石が登場。
これも新潟以北の遠いところ産なんだって。
左にある大きな黒い塊は「石核」。
石器の素材となる剥片をはがし終わった後の石材だそう。
安山岩で作られた敲石(たたきいし)、
砂岩の砥石(とぎいし)は、
その名の通りの使い方が想像できますね。
神子柴遺跡の石器石材は、
他に碧玉(へきぎょく)というのもあって、
全部で12種類ありました。
石器は、石材の産地近くで作られた
完成品が運ばれるものなんだそうです。
先端がポキッと折れそうーって思ったのだけど、
研究者の方による実験では、
折れることはほとんどないんだとか。
この遺跡は、旧石器時代の終わりごろであるとか、
縄文時代の最初頭であるとか、
移行期であるとか、
今も議論の決着はついていません。
でも、「今から約1万5千年前ごろの遺跡である」
ことは確からしいのです。
その頃は、氷期で寒冷な気候でした。
旧石器時代だったとすると、
ヒトは植物の採集と狩猟をし、
遊動生活をして暮らしていました。
大きなナウマンゾウやヘラジカがいて、
気温が高くなると、
大きな動物は減り鹿や猪が増えていきます。
移動する時に持っていたもの、まさに石器が財産です。
食べることの次か同じくらい、
良い石器を持ってること、交換することが
とても重要なことだったのかもしれませんね。
神子柴遺跡では、3×7メートルの範囲から、
87点の石器がこのような配置で見つかりました。
土器は見つかっていません。
左(北西)側は、
大きな輪になっているようにも見えます。
その中で、
特にbグループの石器の状態が不思議なんです。
最初に見たこの写真の左4つ。
これらが重なるような状態になっていて、
その上の方に黒曜石の尖頭器が
1つ置かれていたのです。
何か作為的な感じがしますね。
なぜこんなことをしたのかは、わかりません。
この遺跡で見つかった石器は、
完成されたものばかりだったことも謎の一つです。
「祭祀の場に献納」「墓地に副葬」「住居に配置」
「器財庫(貯蔵)の状態」「交換の場」など
様々な説が論じられています。
さて、この神子柴遺跡はどんな場所にあるんでしょう?
ここへも前回行ったので、ご案内します。
伊那市創造館から北の方角。
車では8分くらい。
天竜川の支流の大清水川の左岸にあります。
道路から階段を登っていき‥‥。
さらに斜面を登っていくと、看板が見えてきました。
昭和33(1958)年から34年にかけて学術調査されて、
87点の石器が見つかったことなどが書かれています。
さらに少し高くなったところに登ると、地面は平らです。
あー、遠くまで見渡せるー!
西の方角には、
雲の切れ間から黒々とした山が見え隠れしています。
天気が良かったらな~。
わかりやすい画像をお借りしました。
東の上空から見た遺跡地です。
これも、北東の上空から。
夕刻、木曽駒ヶ岳の方から
神子柴遺跡に日がスッと射している瞬間を
とらえた画像です。
近くに湧水があり川も流れていて、
キャンプ地・住居地として最高の場所だ!
なんだか舞台のような感じさえするなー。
ここに石器を置いていったヒトたち。
ここでどんなことがあったにせよ、
ここにいたら、同じように夕陽を見つめ、
山の風景を眺めていたのは確かなことでしょう。
見学を終え、
東京へ帰る前に地元の市場に立ち寄りました。
松茸の匂いをクンクン嗅いで‥‥。
お土産に買ったのは、りんごとパンでした。
伊那市での見学や遺跡巡りはここまでです。
ますます高まる黒曜石原産地へは、
雪溶け後の春に向かうことにして、
次回は千葉の博物館をご紹介します。
お楽しみに。
協力:伊那市創造館
画像及び資料提供:堤 隆氏
2022-12-15-THU