外出自粛暮らしが2ヵ月を過ぎ、
非日常と日常の境目が
あいまいになりつつあるようにも思える毎日。
でも、そんなときだからこそ、
あの人ならきっと「新しい思考・生活様式」を
身につけているにちがいない。そう思える方々がいます。
こんなときだからこそ、
さまざまな方法で知力体力を養っているであろう
ほぼ日の学校の講師の方々に聞いてみました。
新たに手にいれた生活様式は何ですか、と。
もちろん、何があろうと「変わらない」と
おっしゃる方もいるでしょう。
その場合は、状況がどうあれ揺るがないことに
深い意味があると思うのです。
いくつかの質問の中から、お好きなものを
選んで回答いただきました。
ほぼ日の学校「万葉集講座」の第1回授業。
その独特な「上野節」で、
教室中をあっという間に魅了し、
いまや、ほぼ日の学校にとって
なくてはならない存在となったのが
万葉学者、上野誠さんです。
授業で使う資料はいつも郵便で
丁寧に送ってくださる「アナログ」な上野さんは
この「リモート時代」をどう過ごしているのだろう?
テクノロジーを駆使して、利便性を追求するいま、
目からウロコが落ちる「上野スタイル」には
この時代を生きるヒントがありました。
●眼の輝きしか、信用しない
「えっ、困ったなぁ。まず、鈴でも買うかぁ!」
これが、私の第一声である。何の第一声かというと、
「当面、大学の授業を遠隔授業にせよ」との指示を
聞いた時の第一声である。学生の登校を禁止し、
パソコンの相互通信機能を利用した授業を
することになった時の第一声が、これなのだ。
そこで、私はAmazonで、ベルを買ったのである。
私は、文部科学省には悪いが、
学生の授業評価アンケートなどというものを
土台信用しない。それに、ここだけの話だが、
授業の客観的評価などというものも、信じない。
信ずるのは、一点だけ。それは、受講生の眼の輝きだ。
私は人の眼の輝きしか、信用しない。
普段、授業をしている時に、私は常に学生の眼を見ている。
つまり、その場でともに呼吸していることが大切だと思う。
自分の話は、伝わっているか?
その話をおもしろそうに聞いてくれているか?
それ以外に何を気にするというのか——。
私は今、ここにいて、あなたも今、ここにいる。
そして、私には、今、伝えたいことがある。
それ以外に、授業も、へったくれもないのである。
では、なぜ、ベルか?
おそらく、ネットで授業をする場合には、
相手の眼が見えないので、一つ一つの話に
区切りをつける必要があると直感したのである。
おそらく、そのベルをいつ、どう鳴らすかで、
ネット授業の成否は決まると直感した瞬間に出たのが
冒頭の言葉である。
相手の眼を見ることができないのなら、
話を区切って、集中力を上げるしかない。
その区切りを効果的にやるとすれば……、
ベルかぁ、と思ったのである。
●選んだのは「自分にできること」
その次に考えたことは、何か?
じつは私は、ネット弱者だ。zoomというソフトや、
ナンチャラという会議システムなんて、
NASAにしかないと思っていた。
授業でパワーポイントすらも使ったことがない。
その状況を、その筋の大先達に話すと、
お茶を吹き出していた。結局、選んだのは、
自分にできることだ。
学生たちに電話をしてみると、ネット環境は皆、違う。
そこで考えたのは、音声のみをボイスレコーダーで収録し、
それをYouTubeで配信するというものだ。
これなら、誰でも聞ける。つまり、公開授業だ。
視聴に制限をかけると、学生も私も、手間が増えるだけだ。
次に、テキストであるが、テキストを参照しながら
配信授業を聞くように指示はしているが、
その実、テキストがなくても、わかるように話をしている。
つまり、眼を閉じて、寝転んでもわかるように
話をするのだ。そのために私は、
聞き手に情景が浮かぶように話をしている。
つまり、ラジオ講座なのだ。
ネット達人たちの嘲笑の眼差しを尻目に、
私は授業をはじめた。
ところが、である。達人たちの授業の方が、
初日から行き詰まってしまったのである。
つまり、データ量が重すぎて、うまく繋がらないのだ。
第一、 学生の通信容量にも、個人差があるのだ。
しかも、である。ネットの達人と豪語した人たちは、
トラブルが起きると、自分では復旧できなかったのだ。
私は、 上品 な人間なので、
心中にそんな言葉は浮かばなかったが、
ざまぁ見ろ、という人 も いるかもしれない。
●必要なのは想像力
まず、授業というものは、
受講生の眼を見て行なうものであるということを
忘れてはいけない。もし、遠隔授業で、
相手の眼を見ることができないのであれば、聞き手の心に
情景が思い浮かぶものでなくてはならないはずだ。
お互いに、相手の話を聞こうというのなら、
音声のみでもよいはずだ。そして、何よりも
相手が受信可能なものでなくてはならないはずだ。
私の授業は、寝転んでも聞ける。
いつでも、誰でも聞ける。
寝転んで聞いていた人が、
これはおもしろいと思わず立ち上がって聞いた瞬間、
私はほんとうの授業をしたことになるのだ、と思う。
テクノロジー、テクノロジーといっても、
しょせんは、人が作ったものではないか。
ネット会議は必要だ。
遠隔授業の質も高めなくてはならない。
でも、その際大切なのは、
どうやったら、相手に思いが伝わるのか、
そのためにどうしたらよいのか、
ということを考える想像力なのである。
では、ベルの次に、私がコロナ対応で買ったものとは何か。
それは国際的仏教学者であった
鈴木大拙(1870—1966)の講演CDである。
私は、鈴木の講演の話術を盗んで、今、授業をしている。
そして、今、『鈴木大拙全集』の半分まで読んだところだ。
だから、今の私のネット授業は、獲れ獲れの産地直送、
熱々の出来立てなのである。
今なら、鈴木大拙の声色だって出来る。
この機会に、日ごろ読めなかった長篇を読み、
その感動を熱く語る。
そして、話芸を磨く。それが、私の今です。
チリン、チリン、上野先生の授業が、はじまるよぉ!
*2020年7月末日まで、YouTube上で
上野先生の授業の一部を聞けます。
「奈良大学上野誠授業」で検索してみて下さい。
たとえば、こちらは
「愚かに生きる―山上憶良の問い―」。
上品に、折り目正しくスタートする上野先生、
8分頃の「余談」から上野節がはじまりますよ。
プロフィール
奈良大学文学部教授(国文学科)。研究テーマは万葉挽歌の史的研究、万葉文化論。歴史学や考古学、民俗学を取り入れた万葉研究で知られる。『万葉集から古代を読みとく』『おもしろ古典教室』『日本人にとって聖なるものとは何か』『魂の古代学』『遣唐使 阿倍仲麻呂の夢』など著書多数。小説に『天平グレート・ジャーニー』。オペラや朗読劇の脚本も手がける。1960年、福岡県生まれ。國學院大學大学院博士課程後期単位取得満期退学。文学博士。
(つづく)
2020-05-25-MON