8月19日の「今日のダーリン」で、
糸井さんが皆さんに声をかけました。
「この人がしてくれた、こんな話」というテーマで、
メールを送ってくださいませんか、と。
小・中学校時代の先生でもいいし、
両親や祖父母、友人、上司、
有名な人の講演とか、
ラジオやテレビの番組でも構わないから、
「じぶんのいままでの経験のなかで、
この人の、こんな話を聞いたことが、
いまでも胸にのこっている」
というような話を聞かせていただけませんかーー。

またたく間に、たくさんの投稿が集まりました。
私たちがびっくりするくらい。
いろいろなバリエーションがありました。
そこで、いくつかの「こんな話」をご紹介したいと思います。

(※投稿も引き続き募集中です。
postman@1101.com
件名を「この人がしてくれた、こんな話」として
お送りください)

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第二回

家族、友だち、ありがとう!

第1回のお便り集、読んでいただけましたか?
みなさんがお寄せくださったなかから、
ほぼ日の学校長・河野が選んだ
「この人がしてくれたこんな話」。
両親や学校の先生、病気の方など、
様々な人がくれた支えとなる言葉の数々。
どれも胸に響くものでした。
今回の担当は、
ほぼ日の学校チーム・くさおいです。
これまで以上に「人に会う、人の話を聞く」ことに
焦点を絞る学校チームの一員として、
みなさんの声に耳を傾けてみました。
力作ぞろいのなかから選りすぐった9本です。

まずは、いつでも味方でいてくれる
お母さんの言葉から。

20年以上前、大学に入ったばかりで
新しい環境・友達に慣れない毎日でした。
友達に見つめられると赤面するようになり
冗談半分でからかわれて気分が塞いでしまい、
母に思い切ってその事を話しました。
すると母は
「顔色ひとつ変わらないなんて
ちっとも魅力的じゃない。
そんなふうになったらあかんよ」と。

なんだ。赤面してもいいんだ。
と思えるようになり
その言葉が私のお守りになって
少しずつ赤面することはなくなっていきました。
(n)

こんなすてきなお母さんも。

私が20代の頃だったか、
ある時、母がこう言いました。

遠く離れていても、自分が思いもしないところで
誰かが自分の幸せや健康を願う〈気持ち〉を
送ってくれているのだと。
家族、近しい親戚や友達はもちろんのこと、
そのような気持ちを送ってくれているのは
もしかしたら、
里帰りしたときに会う実家のご近所さん、
今は連絡が途絶えてしまった旧友たち、
中学の時よく叱られた先生たちかもしれない。

自分の想像を超えたどこかで
誰かが自分の幸せを祈ってくれている、
そんなありがたい気持ちを
自分の意識がおよばないところで
受け取っているのだと。

この話を聞いたとき、確かにと思いました。
なぜなら自分もそうしているから。
当時語学学校で一緒に勉強したあの子、
ベトナムに旅したときに出会った店員さん、
幸せな生活を送っていますように。

このようなひとからひとへ気持ちが
この世界を行き交っていると思うと
気持ちが温かくなります。
そしてこんな事を話してくれた母のことを
遠く離れたところから想ったりしています。
(M)

お母さんたちの向こうには、
そのまたお母さんたちがいます。
生きてきた長さの分、おばあちゃんの言葉は重い。

私の母は、とても料理が上手で
お菓子作りも上手な自慢の母でした。
そんな母が突然14歳の時に他界し、
しばらくして祖母が、一人暮らしだったので、
我が家で同居し、
母の代わりに家事をしてくれました。

しかし父も働いているので、
それは普通の事なのだと、
何も考えず祖母と初めて暮らし始めたら、
違和感を少しずつ感じ始めました。
カレーにピーマンを入れたり、
生ハムを白菜と煮てしまうとこ、
お弁当は茶色一色だったり。
しかも汁漏れしてるし。
あきれて、指摘もせず
無関心で過ごしていた毎日でした。
そんな私の態度を祖母が知らない訳はなく、

ある日テレビを見ながら晩ご飯を食べていると、
祖母が「いっつもおいしいって言ってくれる‥‥」
と言ったことがありました。でも顔は寂しそうでした。
何を作っても「おいしい」としか言わない私は
もしかして作りがいがなかったのかもしれません。
でも、本当においしかったんです。

ならおばあちゃんは何が好きなん? って聞いたら、
「温ったかかったら何でもごっそうや(ごちそうやな)」
と笑顔で答えました。

戦時中に1人で3人の子どもを育てた祖母。
どれだけの苦労があったかはかりしれません。

それまで知らず知らず母と祖母を比べて、
ごはんは温かくて当たり前、
お弁当はきれいで当たり前、
無意識で祖母を傷つけていたのかもと、
はっとしました。
多分その瞬間、
ごめんねよりありがとうがたくさん溢れて、
それからはそれまで以上に祖母と一緒に
たくさんの事をするようになると、
楽しいうれしいが毎日増えていきました。
帰省すると父より祖母と居る時間が増えたり、
それが何より楽しみでした。

そんな祖母が、昨年大往生でなくなり
10月16日が一周忌です。
新型コロナの関係で、帰省がなかなか叶わず、
初盆にも一周忌にも行けませんが、
今日も自宅の食事は祖母の味です。
(m.SA)

家族は選べないけれど、選べるのが友だち。
かけがえのない友だちもまた、
大切な言葉を残していってくれます。

今を去ること半世紀。中学3年生だった頃のこと。
友だちから自分の性格について厳しく批判されて、
落ちこんでしまったことがありました。

そのころ、何かにつけておしゃべりしていた男子に
話したところ、彼はこんなふうに言いました。
「今すぐに直そうと思わんでいい。
そう言われたということを忘れんようにしたらいい」

彼も誰かから言われた言葉だったのかもしれません。
その言葉は半世紀にわたって私を支え続けました。
自他共に認める雑な性格の私が、
他人からの指摘を受けて立ちすくむとき、
また歩き出す勇気をくれるのはこの言葉でした。

私がもっと素直だったら、
ともに人生を歩むことになったかもしれない彼でした。
この言葉は私にとって、
彼からのこの上もないプレゼントです。
きっとこれからも、おそらく死ぬまで、
私を支えてくれると思います。
(OliveRose)

「ともに人生を歩むことになったかもしれない彼」は
「歩むことになった彼」以上に
胸に残るものかもしれません。
次も、ちょっと似た香りのするお話です。

彼とお付き合いしている間に私は耳を悪くしました。
2〜3年前に原因は遺伝子にあり、
予定通り発症しただけで、
誰も何も悪くないと分かりましたが、当時は原因不明、
聴力低下がどこまで進むのかも分からない状態でした。

幼少よりずっと音楽を趣味とし、
彼とも音楽で繋がっていたこともあり、
自由に活動できなくなることもショックだし、
音楽をやっていたせいでこうなったと考えるのも辛いし、
何より完全失聴したらどうしよう! と
不安でたまらないときに彼が言ってくれました。

「ちゅんさ、今までいっぱい音楽やってきたし、
楽譜も読めるじゃん。曲もいっぱい知ってるでしょ。
もし、全く聴こえなくなったとしても、
知ってる曲は頭の中で歌う事ができるし、
今は鳴らすだけで楽譜になるソフトとかもあるから、
僕の新曲でも楽譜さえあれば、
こんな曲だってだいたい分かるよね。
だから、誰も君から音楽を取り上げる事は
できないんだよ」

あぁ、そうか。こうなる運命だからこそ、
誰にも取り上げられないように、
小さいころからどっぷりはまったのかもしれない。
と救われたような気持ちになりました。

とっくにお別れしていますが、
今ではココを上手く乗り越えるために
神様が出会わせてくれたのかもしれないなと思うほど、
感謝しています。

当時からもう25年くらい経ち(汗)、
聴力はじわりと落ちてはいますが、
いまだ完全失聴には至らず、
補聴器はしてるけど、
仕事も音楽もなんとか頑張れています。
(ちゅん)

思いがけない場所で、思いがけない人物から
言葉の贈り物を受け取ることもありますね。

大学生の頃、自動車免許の教習に通っていました。
講師陣の年齢はバラバラで、
岡田将生さんみたいな若くてモテる講師もいれば、
60代くらいの福々としたおじさんもいました。

確かその日は初めて実習として
教習所内の道路に出たのだったと思います。
助手席には60代の福々しいおじさん講師。
緩やかなカーブを、白線に沿って走るだけの講習でしたが、
私はとにかくぶつからないよう、はみ出さないよう、
近くの白線ばかり気にして走っていました。
すると、やさしそうなおじさん講師が
急に厳しい口調でこう言いました。

「遠くのラインに向かって走るんだ!
目の前の白線を目印にしていたら事故るぞ!」

慌てて視線を遠くの白線に向けると、続けて一言。

「人生も一緒やぞ!」。

おじさん特有の〈いいこと言ったドヤ感〉は一切なく、
むしろ〈本当に怒っている〉という感じでした。
「事故るぞ!」の言葉に凄みがあって、
当時はシュンとして帰った記憶があります。
けれど社会人になってからも、
ふとした瞬間に思い出す言葉です。
(ふえるわかめ)

50年以上前の大切なエピソードを
書いてくださったお便りもありました。

私の話は小学校2年生の時の担任の
森佳代子先生からのお話です。
小学校の低学年というと先生が神様のような、
お母さんのような、お姉さんのような存在でした。
そしてクラス全員、この森先生の大ファンでした。
40名の子供達です。
ある日、先生が教室にいらっしゃる前に、
どこからともなく、今日は物差しを必要とするらしい、
という噂が流れ始めました。
さあ、大変。ほとんどの生徒が、
木でできたこの物差しを持っていませんでした。
三重県の小さな町の小学校、1960年台前半のことです。

学校には小さな購買所なるものがありました。
鉛筆、下敷き、筆、紙石鹸、そういうものを売っています。
どうしてみんなお金を持っていたのか
忘れてしまいましたが、10円だった木の物差しを
みんな購買所に買いに行きました。

先生が教室にいらっしゃって、
目をキラキラさせた子供達、

「先生、木の物差しを持っています。
今日はこれを使うんですよね。
購買所に買いに行きました」
ということをみんなで興奮気味に先生に
伝えたのだと思います。

そうすると先生の顔が
みるみるうちに悲しみに包まれました。
そして、先生は、
「どうして、物差しが今日必要かどうかを
先生に確認に来なかったのか。
誰かの流した噂に乗って、みんなが
今日必要のない物差しを買いに行ったことは、
先生をとても悲しい気持ちにさせます」
とおっしゃいました。

人の流した噂を確認せずに
流されて信じてしまうことの恐ろしさを
先生の悲しい顔を見て、みんな察したのでした。

今は、アメリカに住み、
コンピューターや色々なメディアの中にある情報に
流されやすい現在、
私はいつもこの先生の悲しい顔を思い出します。
自分の目で、自分の頭で、チェックをした上で
自分なりの意見を持とう、といつも心に刻んでいます。
たかが小学2年生8歳の子供の時の経験ですが、
これは私の大きな判断基準となっています。
(クックやすこ)

ラジオを通しての、
こんな思い出話もありました。

30年ほど前、まだ中学生だったころ
TBSラジオ「全国こども電話相談室」に
電話をしたことがあります。
幼いころに両親が離婚し
複雑な家庭環境だったこともあり
当時の私には頼れる大人も、
相談できる友達もいませんでした。
藁にも縋る思いでかけた1回が採用され
そのまま放送されることに。
回答者の先生は、永六輔さんでした。

「どうしたら芸能人になれますか?」

記憶が少しあやふやですが、
こんな内容の相談だったと思います。
目標は誰?
など雑談を交えながら時間は進んでいき、
ふと、永六輔さんが真剣な声で

「あなたはクラスで人気者ですか?」と。

番組受付のオペレーターさんにも
伝えていませんでしたが
相談できる友達どころか、
いじめられっこだった私。

いまだから言えることですが
芸能人になりたい本当の理由も
「いつか同級生たちを見返したい」
「一日でも早く自分で稼いで自立したい」でした。

生放送にも関わらず口ごもってしまうと
「まずはクラスで人気者になりなさい。」
「クラスで人気者になれたら次は学年で、
あなたの住んでる街で人気者になりなさい。」
そうやって少しずつファンを増やしていけば
実現するかもよ、と言っていただき
ハッとさせられたのを今でもしっかり覚えています。
(その後、高校生になって親友もできて、
青春時代を突っ走ることができたそうです)

番組の最後に言っていただいた
「あなたが売れっ子になったらお仕事ちょうだいね。」
は、残念ながら実現叶いませんでしたが
永六輔さんの言葉は心の奥に深く刻まれています。
(akemi)

最後にご紹介するのは、
人生を大きく動かした大おじさんの言葉。
自分のことをきちんと見ていてくれる人の存在が
どれほど大切かを改めて教えてくれるエピソードです。

私の、こんな話を聞いて下さい。
忘れられない一言をくれたのは、祖父の兄弟、
私にとっては「大おじ」ですが、
ほぼ初対面での出来事です。

私が29歳になるほんの少し前の出来事でした。
私は大変田舎におり、実家住まいです。
私が25歳の時に祖父母がそろって
アルツハイマー型認知症になり、
在宅介護が始まりました。
両親も私も仕事に出ており、
家事は母と私が担っていました。
だんだんと介護は大変さを極めていき、
同じ年頃の友達や知り合い達がどんどん結婚、
出産していく中、私は介護の為、
誰から強要された訳でもなかっただろうに、
責任感が強くなっていき、
家から離れられなくなっていました。
何人交際相手を紹介されても、どんなに条件が良くても、
向き合う気にすらなれませんでした。
家の事が気になって仕方がなかったのです。

そのうち、介護とは無縁で、結婚や出産して
幸せそうにしている友人やイトコ、
兄弟を羨ましく思うと共に、
恨み始めてウツウツとしていた時、
ふいに祖父が亡くなってしまいました。
あわただしくお葬式の準備をし、
葬儀に参列してくれる遠方の親戚を
駅まで迎えに行った時、
そのおじさんと会いました。

大おじは日帰りで葬儀に来たので、
ほとんど一緒にいなかったのですが、
大おじが帰る際、駅まで送った道すがら、
唐突にこう言われました。

「あのね、家族なんて捨てていいの。
両親なんて捨ててもいいんだよ。
僕は娘が3人いるんだけど、
お嫁に行って幸せになってくれるのを
生まれた時から願って、
自分の手元にいなくなるのを承知で育ててきたの。

あなたを見ていると、両親を助けたい、
祖父母の面倒をみなきゃって思っているのが
すごくよく分かる。とっても偉いことだよ。
でもね、あなたが幸せになりなさい。
それはあなたが今両親を助けている事より、
長い目で見て絶対に両親への恩返しになるからね。
捨てなさい。それで後悔しない人生を送りなさい」

今、私は結婚し、出産して2人の子供に恵まれ、
私の両親と同居して幸せに暮らしています。
でも今でも思います。
大おじの言葉がなければ、
今の幸せはなかったかもしれない、
それ程私を変えてくれた言葉でした。

子供をもった今、大おじの言葉の意味が
痛いほどわかるようになりました。
私の息子、娘にも、幸せな人生を送って欲しいと
切に願っています。
※結婚、出産だけが幸せではありませんが!
(y)


今回も、たくさんの良いお話を寄せていただきました。
本当にありがとうございます。
ほんの一部しかご紹介できませんでしたが、
ご紹介は続きますので、今後もお送りください。
宛先はpostman@1101.comです。
件名を「この人がしてくれた、こんな話」として
お気軽にお送りください。
繰り返しになりますが、
実際に人から聞いたお話だけでなく、
街なかで聞こえてしまった話でも、
映画やドラマ、ラジオで見聞きした話、
本や雑誌に書いてあった話でも大丈夫です。
実はこのアドレスは、
糸井重里を筆頭に、
ほぼ日の乗組員全員で読んでいまして、
この、「この人がしてくれた、こんな話」も
こちらにご紹介させていただくひと足お先に、
みんなで楽しませていただいています。
たくさんのメールをお待ちしています!

(つづく)

2020-10-12-MON

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