8月19日の「今日のダーリン」で、
糸井さんが皆さんに声をかけました。
「この人がしてくれた、こんな話」というテーマで、
メールを送ってくださいませんか、と。
小・中学校時代の先生でもいいし、
両親や祖父母、友人、上司、
有名な人の講演とか、
ラジオやテレビの番組でも構わないから、
「じぶんのいままでの経験のなかで、
この人の、こんな話を聞いたことが、
いまでも胸にのこっている」
というような話を聞かせていただけませんかーー。

またたく間に、たくさんの投稿が集まりました。
私たちがびっくりするくらい。
いろいろなバリエーションがありました。
そこで、いくつかの「こんな話」をご紹介したいと思います。

(※投稿も引き続き募集中です。
postman@1101.com
件名を「この人がしてくれた、こんな話」として
お送りください)

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第三回

受けとる、 届ける、繋ぐ。

たくさんのお便りを、ありがとうございます。
ほぼ日の学校長・河野による第一回
ほぼ日の学校チーム・くさおいによる第二回につづき
第三回の担当は、ほぼ日の学校チームのワクシマです。

お寄せいただいたお話を拝読していると、
むかし聞いた話や、そのときの感覚のようなものが
断片でよみがえります。
「人に会う、人の話を聞く」ことで、じつは
自分が思っている以上に、たくさんのものを
受け取ってきているのだなあと感じました。

今回は、8つのお便りをご紹介します。


まずは、こんなエピソードから。

思春期真っ盛りの中学生の頃の話。
母に用事を言いつけられても
何やかやと文句を言ったり、
いかにも嫌々ですという顔をしてから動いたり
という私を見て父が言った言葉。

「お前は何だかんだと文句を言いながらも
言われたことはやる。
そして口の割にはちゃんとやれる。
だったらな、
どうせやるなら気持ちよくやってみろ。
そうすれば母さんだって
気持ちよく感謝できる。
そして何より
お前が気持ちいいはずだ。」

その後多少文句は減ったけど、
その言葉の意味が本当にわかったのは
仕事をするようになってからだ。

何か仕事を頼まれたら、
とにかく「はい!」と笑顔で返事して
すぐに動く事ができたのは
父の言葉のお陰。
失敗もたくさんしたけど、
その都度周りの人たちが
フォローしてくれたのは、
そのご利益かもしれない。

ありがとう! お父さん。
(k)

つづけて、先生のお話です。

高校生だった30年以上前です。

英文法の先生は、定年を終えられた後に
非常勤で来られていたのですが、
いつも笑顔で溌剌とされていて、
とてもあこがれていました。

しかし、英語が苦手で、
試験勉強もギリギリになって取り組んでいた私。
英文法のテストでは、
ひどい点数をとってしまいました。

採点された答案を返してくださるとき、
あまりに情けなくて、先生に
「ごめんなさい」
と言いました。
すると先生は、
「私に謝る必要はないわよ。
鏡を見て、自分自身に謝りなさい」
とおっしゃいました。

この後、すぐに勉強に励んだわけではなく、
変わらず成績は低迷していましたが、
でも先生がおっしゃった言葉は、
ずっと胸に残っています。

1年間しか教わることが出来なかった先生、
でもお会いできたことに感謝しています。
(m)

「すぐに勉強に励んだわけではなく」のところに、
あるある、とうなずいてしましました。
もうひとつ、先生のエピソードです。

私が小学生だった時の
担任の先生が話してくれたことです。

当時私は、兄や姉が不登校など、
こころが落ち着かない状況で、
両親を心配させないように
何か心配事があっても相談できず、
自然と優等生である事が
当たり前になっていきました。

そのような状況のまま中学生になり、
中学校で居場所を作れなかった私は
小学校に行ってその先生に会うようになりました。

ある日、いつも通り先生を訪ね、
家族について話しているときでした。
優しく話を聞いてくれる先生は、
真面目な顔になって

「いつか親が小さく見える時が来る」

と言いました。
悲しいことに、そうなんだよと。

今大学生になった私は、
親を子供らしい期待を向ける対象としてではなく、
ただのひととして
見ることができるようになりました。
いいところも嫌なところもある、ひととして。

(m)

いつか分かる、と聞いたお話を、
後になってしっかり受け取ることもあれば、
きっと届くと信じて、お話することも。

私は高校の教員を目指して勉強中の社会人です。
教員免許を取るには
いくつか必ず取らなければならない単位があって、
そのひとつが「介護等体験」でした。
7日間のうち5日間は福祉施設、
2日間は特別支援学校で実習します。

私が行った特別支援学校は
肢体不自由児を対象にしていて、
配属されたクラスは重度重複障害という、
肢体不自由だけでなく
知的にも障害のある子どもたちのクラスでした。

実習1日目の、お昼休みの時間のことでした。
私はクラスの先生に頼まれ、
絵本の読み聞かせをしていました。
重度重複障害の子どもたちは、
いわゆる「健常」の子どもたちのように、
言葉や絵に反応することはなかなかありません。

そうは分かっていても、
私の話す言葉だけが教室に響くさまに、
だんだん心許なさを覚えていました。

すると、そばでギターを爪弾いていた男の先生が
こう言いました。

「聞いてるよ。
反応はないかもしれないけど、
でもね、聞いてるよ。」

はっとしました。

障害が重いとしても、
何も感じていないのではないということ。
なかなか表情は見えないけれど、
その内側で絵本の物語に
心は踊っているのかもしれないと思うと、
自信を持ってこの絵本を読もう!
と思い直すことができました。

私は高校の教員を目指して勉強しながら、
縁あって、障害をもつ子どもたちの
保育園のようなところで働いています。
この言葉を、子どもと接するときに
常に心に留めています。

(u)

次のお話は、
いま子育て中の身としても、心に沁みました。
ありがたく受け取って、つないでいきたいです。

憧れの女性の先輩からの話です。
気配りが行き届いて、面倒見がよく、
仕事ができる先輩がいました。

長男を妊娠したとき、まだごく初期で
誰にも言っていないのに
「赤ちゃんできた?」と言い当てた
勘の鋭い先輩です。

その長男が生まれ、
1年の育児休暇を頂いて職場復帰した直後から
長男は体調をくずしてばかりになりました。
復帰して1月足らずで風邪をこじらせ
気管支炎になって入院することになり、
私は休んでばかりで、
もう退職するしかないかな、と思い詰めていました。

そんなとき、先輩が私に言ってくれました。

「今は周りに迷惑をかけてもいいのよ。
そういう時期だから。
いつかあなたが私くらいの年になったとき、
その時いるであろう若いママの
フォローをしてあげてね。
そういう風に返していけばいいのよ。」と。

なんとか踏みとどまり、
危なっかしいながらも
仕事を続けることができました。

あれから20年弱、
後輩ママのフォローをしながら、
同じ言葉を贈っています。

ですが最近、働くママだけではなく、
また働いてる人だけでもなく、
みなさんと分けあいたい言葉だと
感じるようになりました。

SOSを出すちから、とでもいうのでしょうか。
助けが要ると感じたら周りに言う。
助ける側に回れたときは惜しまず助ける。

理想論かもしれませんが、
そんな風に世の中が回るといいな、と思います。

(ななこ)

次は、こころを軽くしてくれたという、このお話を。
風景とともに思い出される話も、ありますね。

私は本が好きで、親の話では
おむつも取れない頃から
本さえ与えておけば何時間でも
ジッと読みふけるような子だったそうです。

一方で友達を作る、友達と遊ぶというのが
とても苦手でした。
最初は輪に入るのですが、
少しするとスッと抜けて
物陰で本を読んでいたそうです。
そのため、小学校に上がる頃には
母には毎日、
「休み時間や放課後は、
外に出てお友達と遊びなさい」
「図書室に行ってはダメよ」
と言われていました。

5年生ぐらいの頃です。
父がいたので週末だったと思います。
母にいつものように本を取り上げられて、
暗くなるまで帰ってくるなと外に出されました。
早く日が暮れないかな、と団地の中庭で
少し悲しい気持ちでポツンとしていました。

すると、車いじりをしていた父に手招きされ、
「ここで父さんのやってることでも見てるか?」
と言われました。

友達と遊んでないから怒られるのかな、
と構えましたが、
父は黙々と作業をしているだけで、
私も父のそばに座って、作業を黙って眺めていました。
父がぼそっと言いました。

「そんだけ好きなものがあるのはいいことなんだぞ。
友達ってのは無理して作るもんじゃない」

車の下にもぐっていた
父のサンダルの裏がすり減ってた様子が、
なぜが常にこの言葉と一緒に思い出します。

親友とも言える友人達にも恵まれ、
本好きの夫と結婚して、
今は3人の子育てをしています。
親になった今、当時の母の心配も
理解できるようになりました。

でもあの時の父の言葉を聞いた
わたしの衝撃というか、“わたしは愛されてる”感。
あの感じを自分の子ども達にも手渡せたらいいな、
と思います。

(e)

こんな風に肩の力を抜いてくれる、ひとことも。

25年ほど前の話です。
当時、お付き合いしていた彼と
そろそろ結婚を、という話が出ていた頃。

私は再婚なので、相手方のご両親に
あまり歓迎されていない気配を感じていました。

その事を母に
「はぁ〜、どうしよう‥‥」と愚痴ったら、
ひと言、
「幸せになればいいじゃない」と。

そしてちょっと小さな声で
「親なんて、どうせ先に死んじゃうのよ」
と言って、フフッと笑いました。
つられて私も笑ってしまって、
肩の力が抜けました。

幸せになるために彼と生きる道を選び、
まずまずの人生です。
あ、彼のご両親と私の母は、
幸いなことに健在です。(笑)

(a)

最後にもうひとつ、こころが軽くなったお話を。

私は女性ですが
小さい頃からとても声が低かったです。

それがコンプレックスのひとつでもあります。
今でも気を抜いて電話で話していると
「お父さんですか?」と言われたりします。
かなりへこみます‥‥。

小学生の頃、私は夏休みの日中を
祖父母の家で過ごしていました。
お昼になり、
「おじいちゃん、ごはんです」と
商店を営んでいた祖父に声かけするのが
私の役目でした。

その時祖母に
「女の子なんだから、
もっと高い声でしゃべりなさい」
と注意をされてしまったのです。

私は心の中で
「これが私の地声なんだけど、
なんで無理して高い声出す必要あるの?」
と不愉快に思いました。

それから月日は流れ、
私が大学生の頃だったと思います。
祖父母の家で何気なく時間を過ごしていた私に
祖母は
「昔、あなたにもっと高い声で話しなさいと
言ってしまったけれど、
そのままの声でいいんだよ」
と唐突に話し出したのです。

私は祖母がかなり昔の発言を忘れずに
気にかけていたことに気づき、
びっくりしました。

私も心のどこかに
祖母に注意されたことは残っていたのですが、
遥か昔のことだったので
「まだ覚えてたんだ」と思いました。

それと同時に祖母が
過去の発言を後悔していたこと、
私にそのままの自分でいいんだと
告げてくれたことが、
じんわりと私の心をゆるめてくれたような気持ちに
なりました。

声って変声期のある男性以外は
変えられませんよね。
今でも低い声はコンプレックスですが、
私は祖母の言葉が、
自分の個性だと受け止める自信に
つながっているような気がしています。

(コッシー)


私も低音ボイスで、電話でよく男性と間違われます。
「奥様いらっしゃいますか」と言われることも。
あるがままに、いこうと思いました。


今回も、たくさんの良いお話を寄せていただきました。
本当にありがとうございます。
ほんの一部しかご紹介できませんでしたが、
ご紹介は続きますので、今後もお送りください。
宛先はpostman@1101.comです。
件名を「この人がしてくれた、こんな話」として
お気軽にお送りください。

繰り返しになりますが、
実際に人から聞いたお話だけでなく、
街なかで聞こえてしまった話でも、
映画やドラマ、ラジオで見聞きした話、
本や雑誌に書いてあった話でも大丈夫です。

実はこのアドレスは、
糸井重里を筆頭に、
ほぼ日の乗組員全員で読んでいまして、
この、「この人がしてくれた、こんな話」も
こちらにご紹介させていただくひと足お先に、
みんなで楽しませていただいています。
たくさんのメールをお待ちしています!

(つづく)

2020-11-05-THU

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