シェイクスピア、歌舞伎、万葉集、ダーウィン。
2018年の開講以来、
古くて新しい古典に取り組んできた
ほぼ日の学校が、2020年最初の講座に据えるのは
作家・橋本治さんです。
題して「橋本治をリシャッフルする」。
今年1月の早すぎる死を悼みつつ、
橋本治さんが私たちに遺してくださったものを
じっくり考えていきたいと思います。
橋本治さんの作品は、
読者にどんな力を与えたのか?
橋本治さんはどんな人だったのか?
開講を前に、縁のあった方々に
お話を聞かせていただきました。
共著の対談本をはじめ、
折に触れてさまざまなつきあいのあった
橋本治さんと糸井重里。
40年の歳月を振り返って、いま思うこと。
学校長の河野が聞きました。
受け身から始まる
- 河野
- 『悔いあらためて』(1980年)という
そうとうぶっ飛んだ対談本があります。
あれを最初に読んだものだから、
橋本さんと糸井さんは“よくない”コンビの
代表のように思っていた時期がありました(笑)。
出会いは覚えていらっしゃいますか?
- 糸井
- 雑誌の対談だったと思いますね。
『GORO』だったかな……。
橋本くんといえば、
口をとんがらかして、
不平があるかのような話し方をするんだよね。
ずっと大人になってもそうだった。
橋本くんには「自分発信」と批評、
ふたつの語りがあったような気がするんです。
小説を書いてるときは自分発信。
「いいこと思いついた」みたいなときも、
すごくうれしそうに言いますよ。
一方、評論やエッセイのたぐいは
「現実、思うにまかせないことが多々あるよね、
それはこういうのが原因だから、
もっとこうすればいいのに」とか。大きい意味で
「受け身」から始まっているところがある。
だから、不平のように見えたんじゃないでしょうか。
社会時評というのは、
そういう性質をもっているのかもしれないけど。
- 河野
- 「不平がありそうな」って、
60年代、70年代の若者の顔、
みたいなところはあったんでしょうか?
- 糸井
- それは、人によるんだね。
ぼくはどっちかというと
「おもしろくないから何とかしなきゃ」
みたいなことを発想しにくいタイプで、
それはずっとつきまとっている気がします。
生きにくいところがあっても
「沈んで息止めてりゃいいや」
みたいなところが、ぼくの中には実はある。
だから、文句言ってる時間がものすごく少ないですね。
性格かもしれない。理由はわからないけど。
批評・批判からはじまるみたいなことは
ぼくはほんとに少ないですね。 - 橋本くんはボヤキ漫才みたいなところがあってね、
おばさんチックなんですよ、案外。
芯を喰ったところを言うから、
聞いてる人にもおもしろいし、
「そうか。だとしたら……」と、
考える手がかりにもなる。 - 思えば、「とめてくれるなおっかさん。
背中のイチョウが泣いている」というフレーズが
もう、そもそも受け身でしょう。
つまり、とめるおっかさんがいるわけですよ。
自分はどこに行こうというのもないけども、
「とめようとするおっかさん」がいる。
物事に1、2、3、4という順番があるとしたら、
急に「2」から始めてるじゃないですか。
ああいう性格なんだと思いますよ。
だから共感する人が多いんじゃないですかね。
評論とかの類いでは、
橋本くんの話はそういうのが多いから、
みんなボヤキ漫才の対象だったんじゃないですかね。
それは文学者の態度として案外
普遍的なのかもしれないですね。
鴨長明であろうが吉田兼好であろうが、
何かをするのは別の人なんですよ。
橋本くんもそうだけど、
やっぱり社会としては
「参謀につくタイプの人」だと思いますね。
- 河野
- なるほど。
- 糸井
- シンボリックな仕事だったと思うんだけど、
天野祐吉さんが始めた『広告批評』と
橋本くんもぼくもつきあいがあって、
天野さんが亡くなったあと『広告批評』は
特集が何であれ、橋本治が天野さんに代わって
巻頭言を書いていた雑誌だった。
いろんな場面で橋本くんの役って
そういうところがありましたね。
誰か友だちの代理でしゃべってるというか。
無理矢理つなげるようだけど
「とめてくれるなおっかさん」も
代理ですよね、発言がね。
自分としては「どうでもいいんだけどね」って、
最後にぶつぶつって言う。そのあと
「ぼくはいま忙しい編み物があるから。
あはははは」って笑って終わりになる。
そういうパターンがあったような気がします。
- 河野
- 橋本さんのセーター、お持ちでしたよね。
- 糸井
- 『ペンギニストは眠らない』という本を出したとき、
湯村輝彦さんが装丁してくれて、
それが出てしばらくしたら、その絵のセーターを、
「これ編んだんだけど」って
つまんなそうにくれたんです。
とてもうれしかったですね。再現力がすごいんですよ。
湯村さんが描いた絵の図柄がそのまま入っていて、
エラいことだなあと思ったら、
「簡単だよ。いくらでも編めるから」って
得意そうでしたよね(笑)。
- 河野
- そういう関係は出会ったころから
変わらなかった?
- 糸井
- 変わってないですね。
ただ、そういう言葉にする部分の他に
会ったときにうれしいわけですよ。
遠くから歩いてきたときに、うれしい感じがする
ちょっと恋する乙女みたいなところはあるんですよ。
それは、いっぱい会ってる人っていうだけじゃないし、
「この人はいいなあ」って
つくづく思っているとかじゃなくて、
ガキのときの感じですよね。
- 河野
- ガキねえ。
- 糸井
- 「あそぼうぜ」っていうときの、
遠くに友だちが見えてうれしいっていうのに
似ている気がします。
小さい大きい関係なく
会ったことでなにか今までと違った時間なり
自分たちなりが生まれる可能性がある人と会うのは
やっぱりうれしいわけで、
それがあったんじゃないでしょうかね。
(任天堂の)岩田聡さんと会うのも
うれしいわけですよ。
仲畑(貴史)くんだとか。
「友だちと会う」っていう、すごく大きな部分、
橋本くんにもそれがとてもありますね。
そういう濃さでいえば、
いちばん持っていた人じゃないかなあ。
- 河野
- 昔から知っている
幼なじみに近い感じですか?
- 糸井
- 幼なじみにもうそのうれしさはないですよね。
子供のときにはあったけども。
野球するのか砂場遊びするのかわからないけど、
さてどうしようっていううれしさは、
幼なじみとはありますね。
だけど大人になって友だちとその関係はもうない。
だからやっぱり、
一緒になにかつくったり生んだりするのが
おもしろいんじゃないかな。
- 河野
- 『悔いあらためて』の前後には、
よく会っていたんですか?
- 糸井
- 2カ月に1回くらいかな?
仕事にかこつけて、
そこを遊び場にしていた感じですね。
ロマンスカーに乗って話をするのが
好きだった時期があって、
それで対談をやろうとしたんだけど、
窓の外の風景が変わるところでは案外やりにくかった。
でも、相手が橋本くんだから
「やろうよ」と言えたところがある。
ちょっとふざけた遊びでも
どっちかが言い出せば引き受けるみたいなところが
ありましたね。 - ぼくは何だったかというと、ただ、聞いていたんですよ。
聞き役がいるとしゃべる人もおもしろいし。
ちょっと右にハンドル切ってみようかとか、
左に切ってみようかとか、飛んでみようか、
流れをつくっていくみたいな役が
たぶん橋本くんとの関係では
大きかったんじゃないでしょうかね。
それも、「実は受け身でスタートする」
っていうのと同じように
ぼくも若い時のそういう資質みたいなものが
年をとってもつづいている気がします。
分け入るように書く人
- 河野
- 糸井さんにとって橋本さんのイメージは
書く人なのか、描く人なのか、
どういう才能の塊として見えましたか?
- 糸井
- やっぱり書く人。
絵じゃなくて文章を書く人じゃないでしょうか。
分け入るように書いている。
それはもう、その前のインプットには
ぼくらは立ち会ってないわけですから。
出るだけであれだけ出てくる。
彼にインスピレーションを与えるようなものを
吹き込む人がいるわけじゃないから
自分自身がわき水ですよね。
そのわき水に何をどう入れてるのか。
調べごとをしないと書けないものもあるから、
取り入れてる時間と分量は想像もつかない。
今になって思うと、
下敷きのあるものをつくっていたというのが
ひとつの秘密だったんじゃないかと思うんです。
『おいぼれハムレット』にせよ何にせよ、
プロットというか、建築の間取りのあるものをわりと使う。
源氏物語全訳をしても、
あらゆるどの仕事も、間取りと施主の希望はすでにあって
職人としてのセンスでまとめているというか。
ゼロからお話を全部つくって、
というのとは種類が違うんですよね。
それもあって無尽蔵に見えたけど、やっぱり
古典の作者たちと共に歩むものだったのかなあ。
- 河野
- あぁ、なるほど。
共に歩んでいましたね。
- 糸井
- 黒澤明でもシェイクスピアの
「マクベス」を下敷きにした「蜘蛛巣城」とか、
基本的にあるものを土台にして
そこに建築していますよね。
だから、いっぱい書く人って
そういうことがあるんじゃないかな。
古典を橋本くん的に「ぼくがやったら」と、
過去の作者と共作している。
そうすると、あの多作ぶりになる。
人間が無限に天才的であることはあり得ないと
若いころはわからないから、すごいなあって、
化け物みたいに思っていたけど、
考えていくと、化け物ではない。
「人間なんだ」というところが、
かえって尊敬の対象になりますね。
- 河野
- 振り返ってみて、
若い頃からの橋本さんの本の出し方をみていると
筋道というか、
つながりのわかりにくいところがあって、
特に若いときの乱脈気味な出し方は、
何を目指しているのかつかめないし、
狙いのわかりにくいところがあったけれど、
さっき糸井さんが言ったように
すでにあった形というか、型が好きなんですよね。
- 糸井
- そうだと思う。
- 河野
- チャンバラ、歌舞伎……パターンが好きで、
それをどう自家薬籠中のものにするのか
そういうところにいろんな工夫というか、
職人的センスを見せるところがありますね。
多種多様な本を出してるのも、
完全にゼロから考えているかというと
ある種のパロディであったり、
できあがった“常識”を変えるとか、
古い革袋に新しいお酒を注いでいくようなところがある。
そういうことができる自分をたしかめる、
あるいは練磨してその腕を磨いてゆく、
そんなところがあったのかと思います。
- 糸井
- ゼロから何かをつくるというのは基本的にはあり得ない。
上杉清文さんと話をすると、上杉さんは
「ぼくのやってることは簡単なんだよ。
もともとある仮名手本忠臣蔵がベースだとしたら、
何幕何場、登場人物が何人というのがあるわけだから、
そこに自分のつくったキャラクターをはめて
芝居をやるだけだから、
同じになるようにつくってるんだよ」と言っていた。
橋本くんもそれをやっていますよね。
将棋に個性があるようにね。
きっと昔から作家はそうなわけで、
神話の時代から物語というのも、
自然の形という様式があるんだろうなと
今更ながらわかったことですね。
- 河野
- 型を壊そう、価値とされてきたものを否定しようというのが
60年代の時代精神だったとすれば、
橋本さんは嬉々としてそれに背を向けて、
古くからの型に歩み寄ったところがある。
そこがおもしろいなと思います。
- 糸井
- 橋本くんは若いときから型が好きでしたね。
勉強ができる人だったから。
その相手をしているぼくは、
よく皮肉のように「型のないのは形無し」と
言ってきたように、ほんとに型がない。
あったとしたら偶然そうだったね、というくらい。
ぼくは不勉強な人間のひとつの典型で、
「へえぇ」って思うことばかりなんですよ、
型がないから。だから逆にいうと、
一緒にいるのがおもしろかったんだろうけど、
ぼくの型のなさは不自由だし、大変(笑)。
じゃあ勉強して型を覚えればいいと言われれば、
したくないんですよ。そういうこと。
型を覚えたくない。だからずっと苦労ですよ。
でもその苦労があるから
サバイバーになれるんじゃないかな。
今ある材料で何とかする力は、
たぶん橋本くん以上にもっていたし、
それが、“ちゃんとやってきた人”にとっては
おもしろいんじゃないでしょうかね。
ボクサーとただのケンカの強い奴みたいな。
ぼくはケンカが強くはないし、
ストリートはストリートで型があって、
そこも嫌なんですよ。
そのひどい嫌がり方っていうのは、
習い事全部が嫌いだっていうのと同じで、
自分からやるのはいいけど、
「これでやってごらん」みたいなのは、
どうしてもダメなんですよね。
けっこう苦労しますよ(笑)。
85になって、悔いあらためない
- 河野
- ところで『悔いあらためて』という、
弾みでできたような対談本がありますね。
- 糸井
- それについては、
何も考えないようにしています。
勝手にしゃべっているのを
聞かれちゃったような本だし。
「いい気になってる」っていうのは、
こういうことだよっていう本でしょう。
表紙からしていい気になってる。
いずれ「悔いあらためる」予感があります(笑)。
- 河野
- 橋本さんは、あれをもう一回やりたいという
気持ちがあったらしいですよ。
- 糸井
- 会ってしゃべるのは楽しいから、
やりたい気持ちはわかるけど……
ふざけたこといっぱいすればいいと思うけど
もうしないもんね。
使う筋肉も逃げ足も違うから……
でも、85歳を過ぎたらやりますよ。
85歳まで正気を維持できたら、
あとはもう邪気であろうが狂気であろうが、
正気ですよ。そうなったらもう、
家族にも社員にも友人にも
「おれはもうぜんぜん正気だから」っていって
メチャクチャやると思いますよ。
- 河野
- 橋本さんは果たせなかった夢として、
このあと吉川英治ばりの大活劇小説を
書こうと思っていたらしい。
それと、ヴィクトル・ユゴーの
「ノートルダム・ド・パリ」のような、
19世紀小説のような大ロマンを
書きたかったようですね。
- 糸井
- あー、やらせてあげたかったですねー。
- 河野
- 力を蓄えてきたところで、最後に
橋本さんも暴れたかったんじゃないでしょうかね。
「帰依する場所がない」というスタンス
- 糸井
- そうですね。そこはうまく言えないけど、
最近よく思うんだけど、
あらゆる記憶はなくならないんですよね。
忘れちゃうこととか、引き出さないことはできるんだけど、
たとえば保護犬が傘をみると怖がるみたいに
傘で叩かれたことを覚えているわけですよ。
いま赤ん坊を見ていて、
「これ全部記憶してるんだろうな」と思いながら
つきあってるんです。
しまってあるにしても影響があると考えると、
記憶の総体が自分ですから。
橋本くんがやりたいのは、
自分というもの全体の記憶のうちの
広い沼地の写真を撮りたいんじゃない?
いっぱい散歩したいとか、走りたいとか、
たぶんぼくもそうだと思うんですね。
せっかく覚えたことはやってみたい。
記憶していることは埋めないで欲しい、みたいな。
フィクションでしか遊べないと思うので、
フィクションで何かやりたいのは
当然なんじゃないでしょうかね。
ぼくは言ってばかりでダメなんだけど、
歌はもっと一生懸命つくりたいなとは思いますね。
あと何曲かわからないけど。
半年かける歌をつくってみたいな、
という気持ちが生まれましたね。
そういうのを橋本くんは
もっと長いものが書けるわけだから。
やりたかったでしょうね。
- 河野
- “老年の事業”として考えていた小説が
あるのではないでしょうか。
やってほしかったなー、と、
今回、橋本講座を準備しながらしみじみ感じていることです。
橋本さんは題材に困って
海外文学の落語化に手を出そうとしたとか
そういうことではなくて、
それもひとつの準備で、何か大きな、
おもしろい、“ふざけた”ことをやりたい。
ふざけたというのは
自分の好きな、楽しめることを
やりたいと思っていたのではないですかね。
- 糸井
- まさしく自分を楽しませることを
探していた人ですよね。
- 河野
- 糸井さんと85歳で『悔いあらためない』を
やったらおもしろかったでしょうねえ。
- 糸井
- 今頃になって坂本龍一のお父さんのドキュメンタリー
(NHK「ファミリーヒストリー」)を見ると、
同じ経験をした人たちが似たようなことを思うって
深いところがあるんだなあというのがわかって、
坂本一亀さんは戦争に行った人への贖罪意識。
いつまでもそれが続く。発掘した作家もそのたぐいで、
点点でつながっている延長線上に吉本隆明さんがいて、
吉本さんも戦後文学派ですよね。
そういうことに気づいたときに、
ぼくと橋本くんは
やっぱりしゃくだけど全共闘なんですよ。
どっちも全共闘そのものじゃないのに。
そのときに使われていた言葉への疑いというか、
右も左も関係なく、
「ウソばっかりついてんじゃん」っていうのが
ぼくと橋本くんの共通の認識だった。
「あのときは良かった。体制に石投げてたよなぁ」
という集まりに、ぼくは居たくなかった。
その人たちもウソばっかりついてたから。
戦後文学派みたいに
文学の畑に何かを残したわけじゃないけど、
言葉への疑いと言葉の組み立て直しみたいなことを
やりたがる平面があったんだな。
橋本くんとはそこがいちばん
仲良くなれる人だったつもりですね。
- 河野
- 世代論は得てして観念で論じがちだけれど、
あの時代にともに身をおいたということ、
そこで感じたことというのは
抜きがたくあるのだろうと思います。
橋本さんと糸井さんの共感する部分も
そこで生まれたのだろうと思いますね。
- 糸井
- 「信じろ」と言ったものがインチキだった、みたいな。
「そういうものだよ」って決めたんでしょうね。
型の中にこそ、仕組みの中にこそ、
真実に似たものがあるんだよ、
そういうことを橋本くんはやってきた。
ぼくは全部距離を置いて、
そこにあるもので作り直さないと
ダメなんじゃないかなぁみたいなことを
考えたんだろうし、どっちも
「帰依する場所がない」という意味で
一貫してましたかね。 - あ〜あ。
(つづきます。次は写真家のおおくぼひさこさんです。)
2019-11-27-WED