シェイクスピア、歌舞伎、万葉集、ダーウィン。
2018年の開講以来、
古くて新しい古典に取り組んできた
ほぼ日の学校が、2020年最初の講座に据えるのは
作家・橋本治さんです。
題して「橋本治をリシャッフルする」。
今年1月の早すぎる死を悼みつつ、
橋本治さんが私たちに遺してくださったものを
じっくり考えていきたいと思います。
橋本治さんの作品は、
読者にどんな力を与えたのか?
橋本治さんはどんな人だったのか?
開講を前に、縁のあった方々に
お話を聞かせていただきました。
軽やかでいて強靱。繊細にしてユーモラス。
作家・藤野千夜さんの作品は、
『桃尻娘』の橋本治さんと
重なる世界観をもっているように思えます。
というのも、藤野さんは高校生の頃、
刊行されたばかりの『桃尻娘』を
どこに行くにも抱えてまわり、
学校でも何度も何度も読み返し、
「榊原玲奈ちゃん」や「木川田源一くん」と
一緒の時間を過ごしていたから。
「自分を64歳だと思い込むことにした
18歳の浪人生ハルコ」を描いた
1995年のデビュー作「午後の時間割」を書いたときも、
「思い起こせば、ずっと『桃尻娘』がそばにあった」
と語る藤野千夜さんに、
橋本治さんへの「感謝の気持ち」を
聞かせてもらいました。
玲奈ちゃんや源ちゃんと一緒に成長した
- ──
- 学校で繰り返し『桃尻娘』を読んでいらしたとか。
- 藤野
- 学校があまり好きじゃなくて。
教室はすごく気を張るところだったんだと思います。
中学・高校と漫研に入っていて、
部室は好きだったんだけど、ほんとに教室がダメで、
『桃尻娘』が出てからは、
ずっと教室で読んでいました。
登場人物とちょうど同世代なので、
玲奈ちゃんや、おかまの源ちゃんと
一緒に成長していった感じです。
ぶつくさ言ってる感じも好きだし、
本の中が学校みたいな「親しさ」はありました。
あの空気が居心地よかった。
単行本の口絵にある著者近影(おおくぼひさこさん撮影)も
大好きで、「ご真影みたい(笑)」に眺めてました。
- ──
- とくに好きな登場人物とか、
好きな場面ってありますか?
- 藤野
- 登場人物はみんな好きです。
源ちゃんは、やっぱり好きですね、何があっても。
どんどん泣ける方向にいっちゃうんだけど……。 - 特に好きな場面って難しくて、
どこも好き。全部好きです。
わたし、小説を読むときも、書くときも、
結論がなくても気にならなくて、
むしろそこまでの「状況」だけあればいい方なので。
好きな場面……たとえば、
シリーズ2巻(『その後の仁義なき桃尻娘』)に
玲奈ちゃんのこんなシーンがあるんです。
浪人が決まって鬱々としているところ。 - 桜餅がそこにあります。製造元は第一パンです。
紙袋から桜餅と草餅入りのポリエチレンの
パックが半分だけ顔を出してるとこなんかは、
春は名のみの餅の寒さやです。
あたしはホッチキスで留めてあるパックの蓋を、
それでも丁寧に開けようとして、
結局はバリバリと乱暴に引っちゃぶきます。
『エイヤッ』と力が余った拍子に、
ピンクの桜餅が赤いチェックのテーブルクロスの上に
ベチャッとひっつきます。ひっつくのは、
テーブルクロスがビニールだからです。
ああ文明国。(中略)
パッコンと口をおっ広げたまんまにしてる
ポリエチレンの容器は、
もう輪ゴムででも止めておかない限りは
しょうがないやと言って口を閉じようとはしません。 - あげく、玲奈ちゃんはお母さんにこう言われます。
「食べないんだったら、
桜餅いじりまわすの止めなさいよ」
なんだろ、このおもしろさ。
読んでいて幸せな気持ちになるんです。
ほんとにあれ、開けたら閉まらなくなる。
ホッチキスで留めてあった時代なんて、
開けたら容器が割れるし、
もうどうしようもない、っていうのが蘇ってきて、
読み返しても楽しい気持ちになりました。
きっと、橋本さんが見ていた景色を
いっしょに見ていたんだと思います。
- ――
- 藤野さんの小説も日常のひとコマを
丁寧な言葉ですくっていかれますよね。
- 藤野
- 本筋とあまり関係ないかもしれない
「どうでもいいこと」が好きなんです。
ボリス・ヴィアンの「うたかたの日々」でも、
地下鉄の出口を出ると、
通りの反対側に出ちゃってる場面があって……。
ほんの1行くらいのところなんだけど、
そこが本当に好きで、
「人生ってそういうもんだな」と思うんです。
いつも反対側に出ちゃう。
本筋にあまり関係なくて、そのシーンは
なくてもいいといえばいいんだけど、
いちばん覚えているのが
その場面だったりするんです。 - 女の子が昭和にタイムスリップする
『時穴みみか』という小説を書いたとき、
結末がいいので、そこに至る途中経過を
もっと削った方がいいんじゃないかと編集者に言われて、
途中が書きたくてこの作品を書いてるんだから、
「削るんなら結末を50枚削る」と言って
ちょっともめたことがあります(笑)。
結論よりも、あれこれ考えてる課程が
楽しくてしょうがないんです。
橋本治さんの『ふしぎとぼくらは
なにをしたらよいかの殺人事件』なんて、
なかなか事件にたどりつかない。
わたしも、遠回りして
なかなか核心にたどりつかない書き方をするんですけど、
影響を受けていると思います。
橋本さんほど遠回りする知力も体力もありませんけど。
- ――
- やっぱり橋本治さんの影響は大きい?
- 藤野
- 『桃尻娘』を読んでいた当時、
将来小説家になるなんて思ってもいなかったけど、
結果的に小説家になったのは、
橋本治さんの影響があるかもしれません。
もっとマンガの影響を受けていると
自分では思っていたんですけど、文章にする段階で
「体内にあった目標」的なものが、
橋本さんの作品だったのかもしれません。
デビュー作「午後の時間割」を書いたとき、
楽しく読めて切ない感じの、
やわらかい小説にしようと思ったとき、
意識したのは橋本さんの作品でした。
書き方というより、根っこの部分で、
勝手に子どものように影響を受けていたと思います。
- ――
- 一部分だけ引用すると、誤解を招くかもしれませんが、
藤野さんらしくて、橋本さんと重なるリズムがあると
思ったところを「午後の時間割」から引きますね。 - テシロギはとんでもない弱虫だとハルコは思い、
とんでもない弱虫じゃ生きているのも辛かろうと
少し可哀想な気もした。
いつか夜中のTVで見たゲイ男の、
演出のせいで目から上が陰った姿が
テシロギにだぶって見えた。
男は本屋で万引きを咎められて
ビルの守衛室から飛び降りた少年の
話をしていたのだった。
万引きしたのは同性愛雑誌だ。
人と違うってことは辛いか、テシロギ、
とハルコは泣き笑いの顔に向かって声を掛け、
辛いのか、テシロギ、どれくらい辛い、
泣きたいくらい辛いか、
それとも死にたいくらいか、と訊いた。
泣き笑いの顔がさらに歪みながら頷いたので、
でも死ぬなよ、とハルコは言った。
ホモくらいで死ぬなよ、テシロギ。 - 藤野さんの作品には、
「人と違う」ことに躓くけれど、
それを肯定する明るさをもつ人物が
鍵を握るものが多いように思います。
『桃尻娘』に流れていたのも、
そんな考え方ではなかったでしょうか。
勝ち負けでねじ伏せなくても大丈夫な世界
- 藤野
- ポプラ文庫版『桃尻娘』の巻末インタビューで
編集者の矢内裕子さんが橋本治さんの言葉を
引き出してくださっているのですが、
橋本治さんが玲奈ちゃんについて語るとき
「自分がはっきりしている人っていうのは、
大抵の場合『居場所がない』ことで
苦労するんですよね」とおっしゃっています。
この作品は、橋本治さんが居場所がない子を意識して
書いてくれたのだと思いました。
だから、居場所がないと感じていた
わたしもハマったんだと思う。
居場所がなくて、ぶつくさ言いながらも、
「まあいいんだけどね」っていう包容力がある。
不安で退屈だった17歳の頃、
『桃尻娘』には本当に助けられました。
- ──
- 価値を押しつけない、
いろんなものを引き受ける大きさと暖かさが、
橋本さんと藤野さんの小説に共通していると思います。
- 藤野
- 橋本さんの『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』に、
「既成の哲学って怒鳴るんだもん」ってあるんです。
哲学も束縛になる。だから、そういうのが嫌だって。
なんとなくわかる気がするんです。
勝ち負けにこだわるあまり、相手を言い負かそうとか、
橋本さんの書くものには、そういうのがないから
読みやすくて、わたしにはしっくりきたんだと思います。
60年代、70年代の「勝ち負けでねじ伏せた時代」を
くぐり抜けて、「そうじゃなくても大丈夫」という世界を
橋本治さんは見せてくれていた。
そういう意味でも、感謝の気持ちがすごくあります。
- ──
- その意味では、ギスギスしがちないま、
この時代に橋本さんが不在なのは残念ですね。
- 藤野
- そうなんです。
橋本さんがいらっしゃることが
心の支えにずっとなっていたところがあったので、
亡くなってしまうなんて、
思っていた以上の衝撃でした。
訃報に触れたときは、
去年の暮れにお目にかかれなかったことが残念で……。
- ──
- 橋本さんが『草薙の剣』で
野間文芸賞を受賞されたときの贈呈式で
お会いできたら、感謝の気持ちを伝えようと
思っていらしたと追悼文に書いていらっしゃいましたね。
- 藤野
- はい。いつもこの式には出かけるので、
もしもご挨拶できたときのために、
繰り返し読んだ最初の単行本をバッグに忍ばせて
家を出たんですけど、他の用があって、
間に合いそうもないと自分に言い訳して、
贈呈式の会場へは向かいませんでした。
尻込みしたんだと思います。
結局、体調を崩されていた橋本さんは
贈呈式には出席なさらず、受賞メッセージは
代読されたので、お目にかかることは
いずれにせよできなかったんですけれど。
- ──
- お会いできていたら、何と?
- 藤野
- 緊張しすぎて、ぐだぐだになったと思いますが、
「助けられました」っていうことと
「大好きです」と、
「ありがとうございます」。
考えすぎて、気持ち悪くなったかもしれないけど、
それだけは伝えたかったなと思います。
- ──
- 本当に特別な存在だったんですね。
- 藤野
- 頼りすぎていたかもしれないと思っています。
わたしにとって、富士山みたいな存在。
どこを見ても橋本治さんがいらっしゃる感じ。
都内のいろんなところから富士山が見えるように、
いろんな分野で仕事をされている
橋本さんがいつでも見える。
ものごとに対しての答えというか、態度みたいなものは、
橋本さんが言われることが
いちばんしっくりくると思っていたので、
いろんな場面で「なるほど」と思っていました。
「都知事は猪木でいいや」って思うくらいに(笑)。
いつの時代にあっても、橋本治さんは
いろんな年代で、いろんな性別でいられる。
その大きさは、簡単には捉えきれなくて、
これからも何度も読み返しては、
そこから習っていくんだと思います。
藤野千夜(ふじのちや)さんプロフィール
作家。1962年生まれ。麻布中学校・高等学校卒業。千葉大学教育学部卒業。1995年「午後の時間割」で海燕新人文学賞、98年「おしゃべり怪談」で野間文芸新人賞、2000年「夏の約束」で芥川賞受賞。そのほか、『ルート225』『親子三代、犬一匹』『D菩薩峠漫研夏合宿』『編集ども集まれ!』など著書多数。デビュー作「午後の時間割」は、『少年と少女のポルカ』(キノブックス文庫)に収録されている。
(つづきます。最後は塚原一郎さんです。)
2019-11-29-FRI