2018年1月に「ほぼ日の学校」は誕生しました。
そして、2021年の春に
「ほぼ日の學校」と改称し、
アプリになって生まれ変わります。
學校長の河野通和が、
日々の出来事や、
さまざまな人や本との出会いなど、
過ぎゆくいまを綴っていきます。
ほぼ毎週木曜日の午前8時に
メールマガジンでもお届けします。
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2021年2月11日にこのページはリニューアルされました。
今までの「學校長だより」は以下のボタンからどうぞ。
河野通和(こうのみちかず)
1953年、岡山市生まれ。編集者。
東京大学文学部ロシア語ロシア文学科卒業。
1978年〜2008年、中央公論社および中央公論新社にて
雑誌『婦人公論』『中央公論』編集長など歴任。
2009年、日本ビジネスプレス特別編集顧問に就任。
2010年〜2017年、
新潮社にて『考える人』編集長を務める。
2017年4月に株式会社ほぼ日入社。
[ 河野が登場するコンテンツ ]
読みもの
・新しい「ほぼ日」のアートとサイエンスとライフ。
・19歳の本棚。
NO.155
自分はなぜ「Stand Up」するのか?
こんなにポジティブで、パワフルで、エネルギッシュな青年に会うのは久しぶりだなぁ(と、英語の形容詞が並んでしまうことに苦笑しながら)、感嘆のまなざしを向けた相手は、Saku Yanagawa(柳川朔)さん。
米国シカゴを中心に活躍する、いま注目の日本人スタンダップコメディアンです。1992年生まれの28歳。大阪大学在学中に単身渡米し、以来、まさに身ひとつで険しい芸能の道を駆け上がってきました。
彼の存在を最初に教えてくれたのは、ほぼ日の學校スタッフの出来(でき)君です。「こんな人がアメリカにいるんです!」のひと言に、思わず身を乗り出します。
スタンダップコメディといえば、ささやかな思い出がふたつ。
ひとつは、ダスティン・ホフマンが主演した映画「レニー・ブルース」(1975年日本公開)という作品です。1950年代後半から60年代前半にかけて、“反体制”の過激なトークで、伝説的ヒーローとなった実在のスタンダップコメディアンの悲劇的な生涯を描きます。
アメリカ社会でタブーとされた人種差別、セックス、宗教、政治ネタを大胆に取り上げ、あらゆる権威や権力をぶった斬る攻撃的なトークで人気を博します。しかし、差別語、卑猥語を連発する彼の言動は、次第に警察当局にマークされ、度々の逮捕、法的な弾圧の対象となります。そしてドラッグにおぼれ、私生活も破綻し、聴衆の支持も失って、40歳での孤独な死に追いつめられます。そのさまを、ダスティン・ホフマンの熱演と、鮮烈なモノクロ映像が浮かび上がらせます。
そしてTAMAYOさん。1990年代のはじめ、日本人女性初のスタンダップコメディアンとして、全米のニュースでも話題になりました。持ちネタはステレオタイプの日本人像を逆手にとった自虐ネタや、真珠湾攻撃、原爆、日本人のワーカホリック(仕事中毒)など、当時のきわどいテーマを笑いに仕立てたものでした。
ともあれ、驚かされるのはアメリカのコメディ映画に登場する大スター――エディ・マーフィー、ロビン・ウィリアムズ、ジム・キャリーといった俳優たち――が、揃ってスタンダップコメディの出身者だということです。
イギリスの『Mr.ビーン』のローワン・アトキンソンもそうですが、誰もが実力派の俳優たち。そんな狭き門のディープな世界に果敢に飛び込んだ日本人青年に、興味をかきたてられずにはいられません。
早速、Saku Yanagawaさんにコンタクトしてみると、なんと初の著書を出すところ、3月に帰国予定だというではないですか!
トントン拍子でお目にかかり、その『Get Up Stand Up!――たたかうために立ち上がれ!』
(産業編集センター)をじっくり読ませてもらいました。
本人の人柄そのままにケレン味のない、直球勝負の1冊です。まだ日本では知る人の少ないスタンダップコメディの魅力、真髄を伝えたい、そしていずれは日本にもスタンダップコメディを根づかせたい――その情熱がほとばしるように伝わります。
スタンダップコメディという職業は、成功をおさめればアメリカという国で、もっとも「尊敬を集める仕事だ」と言い切る姿勢もアッパレです。
<これまで、オスカーやグラミーなど、多くのアーティストを表彰するアワードの司会はスタンダップコメディアンが担ってきた。そこには俳優やミュージシャンを「束ねる」存在としての役割が期待されているに違いない。>
日々のニュースに接しながら、多くのスタンダップコメディアンがそれぞれの見方を「笑い」にまぶして表現します。つまり、彼らが担う「メディア」としての役割です。
<観客はこのコメディアンはこの問題をどう見て、あのコメディアンはどう考えるのか、ということを笑いながら感じ入るのだ。>
スタンダップコメディとは何か? 基本的には「コメディアンがマイク一本で舞台の上に立ち、ジョークを披露する芸能」と定義できますが、著者はさらに敷衍(ふえん)して、「自分の視点で笑いを届ける」と意義づけます。
多くの人が普段、見逃してしまうことを、彼らとは違う自分独自の流儀で「笑い」に仕立て、届けること。自分で書いたネタを自分で演出し、主人公として披露する。「脚本」「演出」「俳優」の3役に加えて、自己プロデュースの能力が求められます。
自分と意見の異なる人をも「笑い」に呼び込む。これこそ「スタンダップコメディ最大の魅力」だと胸を張ります。
いいジョークとは何か、といえば、「僕が言うからこそおもしろいジョーク」「僕という人間の口から発せられることで意味が加わりおかしみがあるものこそ、奥行きのあるジョーク」だと。「いいジョークを作るには、自分が誰なのかを誰よりも知らなければならない」と語ります。
多民族国家であり、差別にことのほか敏感な国アメリカならではのエッジの効いた「ギリギリのライン」を、批判も覚悟で、鋭く突いていくことこそが、スタンダップコメディの醍醐味である、と。
<ただ、この「ギリギリのライン」というのは時々刻々と変わっていく。極端な話、昨日まではOKだったネタも明日には言えなくなるかもしれない。だからこそ絶えず勉強しなければならないのだ。無学では舞台に立てないのである。無知のまま舞台に上がることは罪なのである。>
「ふたつのS」がキーワードです。“Strong”――腕っぷしの強さより、この場合は「そのジョークおもしろいね」と言う時の“This joke is strong!” “This is a strong joke.”のニュアンスです。含蓄があって、奥行きのある“Strong”。
もうひとつは“Smart”です。
<スタンダップコメディアンこそ、この「賢さ」、それも本や教科書から得たいわゆる「Book Smart(=知識)」のみならず、実際の経験から得た「Street Smart(=知恵)」が生命線なのである。>
だからネタ作りは、「インプット」と「町歩き」が秘訣なのだと語ります。
<毎朝、新聞を8紙読むと決めている。>
「ニューヨークタイムズ」、「ワシントンポスト」、「USAトゥデイ」、シカゴの地元紙である「シカゴ・トリビューン」、「シカゴ・サンタイムズ」を、この順序で読むのがルーティーン。はじめの頃は、読み終えるともう日が沈みかけていたこともザラだったとか。
日本の新聞も、3紙読みます。
<日本人として生まれ育った以上、日本から関心を失ったら、僕の価値は半減する。アメリカという国を、アメリカ人とは違った角度で捉えるためには、日本に対してのアンテナは不可欠だ。>
そして「町歩き」をし、町で起きていることを体感します。
<なにより「人」が好きだ。町に行けば人がいる。彼らをじぃっと観ているだけで一日を過ごせる。その人がなにを考え、なにに心を弾ませて、この「今」というひとときを過ごしているんだろうと想像するだけで、僕もニヤニヤしてしまう。>
「町歩き」という体験が、本からだけでは得られない「Street Smart」を授けてくれます。まさに、「自分の視点を探す旅」。
「インプット」×「町歩き」によって、「Strong(=奥行きのある)」なネタが作れると、Sakuさんは信念をもって語ります。
読むにつれ、かつて大リーガーに憧れて野球に打ち込んでいたというSaku少年が、長じて別のフィールドで、今度は“コメディ界のメジャーリーガー”をめざすべく、日々研鑽(けんさん)に励んでいる一連のシーンが目に浮かびます。
桐朋高校3年時の大会。四番打者で主将を務めた
冷ややかな聴衆のいる「アウェイで戦う」ことの大切さを述べているのもそうですし、「スベった日にどう立ち振る舞うかで、コメディアンとしての本当の価値がわかる」という自覚もまさにそう。
<おそらく、この仕事を続けていれば、まるで歯が立たない「打席」だってあるはずだ。それまで見たことのない豪速球を放ってくるピッチャーもいるだろう。そんな「打席」での立ち振る舞い方は人それぞれで、諦めて見逃し三振でベンチに帰る人、バットを短く持って必死に「ファウル」で粘る人。結果は同じ「アウト」でも、彼らは「打席」の中でなにかを学ぶ。相手ピッチャーの癖や、ときに自分自身のスイングの欠点さえも。そして、彼らの「第二打席」が違った結果になることは野球の経験から知っている。>
スタンダップコメディは行き当たりばったりの「フリートーク」ではなく、むしろ「話題」を構成し、作品にする芸能だと語ります。したがって、この本もきわめて構成的で、論理的に書かれた入門書。そして基調は、あくまで、どこまでもポジティブです。
言うまでもなく、コロナ禍はショービジネスにとって大打撃でした。劇場が閉鎖され、Sakuさん自身も昨年は、「3月13日のショーを最後に、舞台を踏むことは約5ヶ月間叶わなかった」とか。
オンラインでの「バーチャルコメディ」
そして、時代の大きな潮流として、差別に敏感な「ウォーク・カルチャー(Woke Culture)」が、「Black Lives Matter(略称BLM、黒人の命を軽く見るな)」や「#Mee Too(セクハラや性的被害を告発する)」の運動となって、高まりを見せます。
それがさらに「キャンセル・カルチャー(Cancel Culture)」となり、「目覚めた」人たちが、過去に差別的な言動をとった人物や組織を糾弾し、ボイコットする運動に発展しています。行き過ぎた「キャンセル・カルチャー」が、今度はまた、大きな社会問題になっています。
<そんな敏感な「ウォーク」の時代だからこそ僕たちコメディアンはその変わりゆく「一線」を見極めるために、日々繊細に感性を研ぎ澄ませておかなければならない。勉強だって必要だ。舞台でネタをかけるのに「覚悟」がいる時代になってきた。>
一方で、事なかれ主義の「当たり障りのない」作品になっていいのか、と問いかけます。
<これまで、多くの芸術が、受け手の心にハッとした気づきや、考えるきっかけを与えてきたはずだ。>
<ことばじりだけを「狩り」ながら、思考停止状態で、あれもこれもダメというのがもっとも暴力的な愚行に見える。>
<人に「衝撃」を与えることから目を背けては、マイクを握る意味もない。>
と踏み込んだ発言をしています。ダイバーシティ(多様性)が叫ばれる時代であればこそ、
<舞台の上の僕たちも、自分の「エスニシティ」にも「ジェンダー」にも誇りを持っていい時代だ。自分の努力で変えることの出来ないものを自虐する必要なんてない。陳腐な自虐から脱する時代がついにやってきたのだ。>
<だからこそ、大切なのは自分の「視点」を胸を張って伝えること。「違い」を笑える時代はもうそこまで来ている。>
‥‥等々、スタンダップコメディの可能性と、「笑い」の文化の価値を問い、自分がなぜ「Stand Up(立ち上がる)」するのか、という根っこの理由を確かめようとしたのが本書です。
鮮やかな文章が随所にあって、次のくだりにもハッとします。
<28歳の今、いったい僕はフィールドのどこを走っているのだろうか。ようやく微かに2塁ベースが見えてきた気がする。野球をしていた頃、1塁を蹴ったとき、急にフィールド全体が見えて、本当にホームまで帰れるのか不安に駆られた。けれども、進んだ先に必ず2塁があることは知っている。そして走るのをやめてしまえば、決して点は入らない。>
こよなく愛した野球と別れ、新たな「夢」を追いかける人ならではの景色が浮かびます。言うならば、Saku Yanagawa独自の視点です。
<そんな原野の旅路のど真ん中で、「今」を綴ったつもりだ。これから先、足を挫いてしまうこともあるだろう。予期せぬ走路妨害にだって出くわすかもしれない。それでもひとりの旅路は続いていく。/だからこそ、この本を「今」だけでなく、2塁に着いたとき、3塁に着いたとき、そして塁間で迷ったときにも読み返したい。>
書名は、ボブ・マーリーの歌詞から取ったといいます。著者自身の信条である「好きなことを好きなだけ、できるまでやり通す」ためには、どんなに挫けても、起きて、立ち上がることが不可欠だ、という決意を込めたとか。それは同時に、「スタンダップコメディよ、起き上がれ!」という切なる“おまじない”であるかもしれません。
2021年3月25日
ほぼ日の學校長
*写真提供:Saku Yanagawa
*Saku Yanagawaさんのトークは、いずれ「ほぼ日の學校」のコンテンツとしてお届けする予定です。どうぞお楽しみに!
*次回の「學校長だより」は、4月8日の配信予定です。
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(また次回!)
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