近ごろ『論語』のおもしろさに感動した糸井。
なかでも、呉智英(ごちえい)さんの著書
『現代人の論語』
「思想史は論語の変奏曲である」という言葉に、
どーんと感じ入りました。

「人間の考えることの土台には、なにがあるのか?
なにをよしとし、なにをあしとするかの軸は
どう決めているのか?
その基礎にあるものは、
ほとんど『論語』のなかに記されていた‥‥。
ほんとかよ?!
あらためて、いま、『論語』なのか?」

‥‥というわけで、
旧知の仲である呉智英さんをお呼びして
『論語』のたのしみを存分に語り合いました。
全8回でお届けします。

>呉智英さんプロフィール

呉智英(ごちえい、くれともふさ)

1946年生まれ、評論家。
日本マンガ学会元会長。
京都国際マンガミュージアム名誉顧問。
東京理科大学非常勤講師、
愛知県立大学非常勤講師、
京都精華大学客員教授などを務めた。
著書に『現代マンガの全体像』
(情報センター出版局、1986)
『危険な思想家』(メディアワークス、1998)
『言葉の常備薬』(双葉社、2004)
『つぎはぎ仏教入門』(筑摩書房、2011)
『現代人の論語』(文藝春秋、2003)など多数。

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第7回

おれが言い出したんだぞ。

糸井
呉智英さんは
「孔子が言ったことを、自分でも思いついたか」
ということに興味はありますか。
というのも、僕は『論語』を読んでいると、
「それ、おれも思ってたよ」と思うことが
けっこうあるんです。
ははは、たしかにねぇ。
糸井
でも、その「おれもそれ、この間発見したんだよ」
のおおもとにある僕の価値観は、おそらく、
子どものころに誰かから聞いたことが
基盤になっていて。
そして、子どもの僕に教えた誰かも、
さかのぼれば、孔子の考えていたことを
どこかしら受け継いでいるんですね。
つまりは、僕が自分ひとりで
発見したつもりになっていたことも、
紀元前500年にもう孔子が発見していたんだ、
ということです。
そのあたりに、ちょっと興奮しますね。

それはね、『論語』に限らず
いろんなことに言えると思います。
平安・鎌倉時代の古典を読んでも
「ああ、おれが発見したと思っていたことを、
こんな昔にすでに言っている人がいたんだ」
と気づかされることは頻繁にあって。
糸井
うんうん。
『論語』はその気づきの塊みたいなものですね。
だから、現代でも、自分なりに
「ああでもない、こうでもない」と
考えながら『論語』を読んだらおもしろいぞ
ということは、声を大にして言いたいです。
以前「このまま埋もれさせちゃいけない」と思った、
ものすごくいい本があったんです。
『マルクスに凭れて六十年』(岡崎次郎)
という本だったのですが、著作権などの問題で
ずっと絶版になっていました。
でも、うれしいことに、
僕が紹介したことがきっかけで復刻されたんですよ。
こういうことがあるから、
自分がほんとうにおもしろいと思うものは、
そう言っていかないといけないですね。
糸井
ああ、そう聞いて思い出したんですが、
呉智英先生が「これおもしろいんだよね」
と言うものを、ぼくは昔から信頼してます。
ありがとうございます(笑)。
糸井
なぜかというと、呉智英さんは
ただおもしろいものを紹介するだけではなくて、
「どういう見方をすれば
おもしろく感じられるのか」ということを、
一緒に教えてくれるからなんですよ。
あぁ、そういうところはあるかもしれないね。
糸井
世間での価値観じゃなくて、
「僕はこういうふうにおもしろがったよ」
ということを。
「こういうふうに読んでごらん、おもしろいよ」とか
「あなたが言っていることは、
この本にはこう書かれているよ」とかね。
糸井
それって、ものすごく親切だよね。
親切というか、言いたがりなんでしょうね(笑)。
糸井
言いたがりか。
おいしいものを食べたときに、ほかの人に
「これ食べてごらん」と言うような感じなんだ。
そう、それに近いです。
「ナントカ山に登ったらすごくよかったんだよ。
あなたも行きなよ」みたいな、
言ってしまえば押しつけ主義です(笑)。
糸井
そのなかには
「これはあんまりおいしくないんだけど、
二度と食べられないから食べてごらん」
みたいなことも、きっと含まれてますね。
全然おもしろくない山とかね。
そういうものにもっと光を当てて、
多くの人に知ってもらいたい気持ちと同時に、
「おれが言い出したんだぞ」と言いたい気持ちも
やっぱりあるんだよ。
糸井
わはは、言いたいんだ。
それが、呉智英のジャイアン性だね。
「ジャイアン性」って何ですか、
日本語になってないよ(笑)。
糸井
呉智英さんは昔から
日本語に厳しいんだ(笑)。
ジャイアン的なこと‥‥つまり、
孔子がときどき怒るようなことです。
そこが孔子の個性でもあるし、
呉智英さんの「自慢したい」も個性ですよね。
しかも、その気持ちをなくそうとする気がないから、
またいいんです。
いまだに、そうだね。
かっこつけている高校生のような感じですよ。
「おれはタバコ吸ってんだぜ」みたいな。
糸井
それくらい「自慢したい」という強い動機がないと、
あまり長続きはしなかったのかもね。

ものを書く人のなかには、ほとんど本は読まないで、
書くだけという方もいます。
一方で、僕は書くことと読むことの
どちらを取るかといったら、読むほうなんです。
とくに評論などの場合、自分が読んだものを
「こんなおもしろい本があるぞ」と紹介できるのが
すごくうれしくて。
それは、さっき言ったように、高校生が
「おまえ、タバコ吸ったことないのか。
うまいんだぞ」といきがるようなことと、
わりと似ている気がします(笑)。
糸井
孔子さんにも、そういうところがあると思う。
それはもう、露骨にあるね。
糸井
弟子と話しているときに、昔の王様を例に出して
「あの王様、いいんだよ」と紹介するようなことを、
よくやってますよね。
うんうん。当時の詩を
「こういういい歌があるんだよ」と弟子に教えたり。
糸井
思えば、呉智英さんも孔子も、
若いときからそんな
「教えたがり」な部分がありました。
ははは、そうかなぁ。
孔子の若いころはわからないけど、
たしかに、どこからも知識人として抜擢されなくて
苦労していた時代から、
弟子たちがついてきたんですものね。
糸井
孔子と弟子たちの人間ドラマとしての
おもしろさを味わうためにも、
自分がいままで白川静『孔子伝』のような
伝記を読んでこなかったのは、
もったいなかったなと感じます。
たしかに、伝記などから入るのも
おもしろいと思います。
もちろん、
普通に編纂された『論語』は重要です。
だけど、それらも
ある時代のイデオロギーにもとづいて
編纂されたものだから、
必ずしもそれだけを徹底的に読む必要はないんです。
とりあえず自分が興味を持てそうなところ、
あるいは白川静の『孔子伝』や
フィンガレットの『孔子』のような
派生した本を読んでみる。
そのうえで、もとの『論語』に立ち返ってみる
という読み方が、いいと言えそうです。

(続きます)

2024-07-15-MON

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