今年から読売ジャイアンツの監督は原さんです。
3年間の休息を経て3度目の監督就任。
若大将といわれた原さんも気づけば還暦で、
12球団を見渡すと年下の監督ばかり。
完全に野球から離れていたという原辰徳監督は、
いったいどういう野球を目指すのでしょうか?
宮崎キャンプを糸井重里が訪ねました。

>原 辰徳 プロフィール

原 辰徳(はら・たつのり)

1958年生まれ。読売ジャイアンツ監督。
東海大相模高校の中心選手として甲子園に四度出場。
東海大学時代は2度の三冠王に輝く。
1980年、4球団の競合の末、
ドラフト1位で読売ジャイアンツに入団。
1995年に引退するまで、巨人の四番を担う。
新人王(1981年)、打点王(1983年)、
MVP(1983年)、
最多勝利打点(1982年、1983年)、
ベストナイン5回、ゴールデングラブ賞2回。
2002年、読売ジャイアンツの監督に就任。
2003年オフにチームを離れるも
2006年から再びチームを率い、
通算11年中、7度のリーグ制覇、
3度の日本一に輝く。
2009年に開催された第2回WBCでは
日本代表チームの監督を務め、大会2連覇へ導いた。
2019年、読売ジャイアンツの監督に三度就任。

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第1回 カーっと血液が熱くなってきた

糸井
めちゃくちゃ元気そうですね。
いえいえいえ(笑)。
3年間、野球のことも考えず、
ぼーっとしてたからですかね。
やっぱり、休息って大事だなぁと思いましたね。
糸井
あー、そうですか。
だから、いまね、すごく新鮮なんです。
糸井
野球が。
はい。これが、監督をやめても
中途半端に野球を観ていたりすると、
ここまで新鮮な気持ちには
なれなかったと思うんですけど。
この3年間、まったく野球界に
いなかったわけですから。
糸井
ぜんぜん観てなかったんですか。
もう、ぼくの中では
完全に3年間、抜けてるわけです。
これまでは、なんていうかな、
つねに、時間というものを
追いかけているような人生でした。
それが、この3年間は非常に、
過ぎていく時間というものをたのしめた。
だから、野球についても、漠然とテレビを観て、
「あぁ、勝ったか」と。「あぁ、負けたか」と。
糸井
たしかに、ときどき原さんが
テレビで解説をするのを聞いても、
本当に野球の現場から距離を置いて、
のんびりと話しているなと思ってました。
なんというか、すごく落ち着いてて。
だから、逆におもしろかったでしょ?
糸井
おもしろかったですよ(笑)、
こんなに変わるんだと思って。
つまり、達観してるわけですよね。
本当にそのくらい、自分の中では、
この3年間の休息というのは大きかった。
なにしろ、自分がまさか野球界に、
もう一度またジャイアンツに
監督として戻るっていうのは、
頭の片隅にもなかったですから。
糸井
ああ、そういう感じでしたか。

はい。ですから、まぁ、
「また監督を」というお話を聞いたときも、
最初は「えぇーっ?」みたいな感じですよ。
でも、やっぱり、時間が経つうちに、
やはりこれはやるべきなのかな、
というふうに思いましたけどね。
ただ、一点だけ不安だったのは、
果たして自分に情熱というものが
残っているのかなぁ、ということで。
糸井
そう感じるほど、
完全に休んでたってことですね。
もう、まったくそのとおりです。
その情熱だけが、果たしてどうかなぁと。
それで、監督就任の会見が終わって、
メディアに発表されて、次の日かなんかに、
よみうりランドのジャイアンツ球場に
選手に会いに行ったんですよ、挨拶も含めて。
糸井
はい、はい。
そのときに、グラウンド、
こう1歩、2歩と、歩いていたら‥‥
こう、カーっとしてきましたから、
「あ、これだったら、大丈夫だなぁ」
というのがありましたね。
糸井
解説者としてグラウンドを歩いても、
まったくカーっとは。
もう、まったく(笑)。
平熱ですよ、36.5℃くらい。
糸井
(笑)
やっぱり、監督としてグラウンドを歩くと、
カーっと血液がこう熱くなってくる。

糸井
違うんですねぇ、監督というのは。
原さんがジャイアンツの監督を務めるのは、
今回で3回目ですが、
これまでの1回目、2回目のときとは
ずいぶん違いますか。
やっぱり違いますね。
1回目よりは2回目、
2回目よりは今回の3回目のほうが、
なんていうか、より、お願いされている立場で、
「お願いする側の気持ち」というのが
ものすごく深くまで伝わってきました。
糸井
最初の監督というのは、
ヘッドコーチからそのまま引き受けた感じでしたし、
まあ、当然といえば当然というか。
まぁ、1回目のときは、
ミスター(長嶋茂雄)がね、
グッとこう指さして、
「原監督だ! おめでとう!」って。
もう、それです。
一同
(笑)
糸井
いいですね、それはそれでね(笑)。
で、1回目が終わったときというのは、
今回のようには休息できなかったんですね。
堀内さんが監督をやられているあいだ、
自分でもまだまだ野球を勉強したいという
気持ちがあったものですから、
監督をやめてからも、
すごくどっぷりと野球を見ていた。
糸井
頭の中ではずっと野球に関わっていたわけですね。
そうなんです。
ユニフォームは脱いでいたけれども、
もう少し、指導者として、野球というものを
もう一度見つめ直したいということで、
真剣に見てたわけですね。
そういった状態のときに
2度目の監督を打診されたわけですから、
もう、考える余地もなく、
「じゃあ、やります」っていうことになった。
だから、1回目の監督と2回目の監督というのは、
気持ちも言葉も、あるいは見ている風景も、
ほとんど変わってなかったわけです。

糸井
じゃあ、3回目はずいぶん違いますね。
違いますねぇ(笑)。
まず、完全に3年間休息しましたから。
あと、プロ野球の監督って、
つねに「他動的」なんですよね。
だから、なんていうか、おもしろい。
自分から切り開いている道ではないわけですから。
糸井
運命として、向こうから来るわけですよね。
たしか、原さんは、
「監督というのは、自分がなりたいからって
なれるものじゃないから」って
おっしゃってましたけど。
まさしく、そういうことです。
糸井
あと、今回、原さんが監督になったとき、
ぼくはひとつそうかと思ったことがあって。
あの、お気づきかどうかわからないですけど、
原さんが尊敬する藤田元司さんが
監督をおやめになったのが61歳のときなんですよ。
え、そうですか。
糸井
原さんが今年61歳になりますよね。
ちょっとびっくりしませんか?
藤田さんって、もう、清濁併せ呑み、
いちばん上から物事を見てるような方で、
その方が監督をしていた最後の年齢に
「若大将」の役をしてきた原さんが
追いついちゃうんですよ。
ああ、そうですねぇ‥‥。
糸井
そう考えるとぼくはね、
人は原さんをみんな勝手に若大将として
いつまでも若くとらえようとするけど、
じつは、もう、かなりの古だぬきになって、
戻ってきたんじゃないかなと。
はははは。
糸井
だから、いわば、徳川家康ですよ、
第3期の原監督は。
(笑)

(つづきます)

2019-03-26-TUE

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