美術館や博物館の所蔵作品や
常設展示を観に行く連載・第2弾は
東京都現代美術館です。
今回は、おもに明治の終わりから
1950年代にいたる
日本人作家の美術の作品を、
たっぷりとご案内いただきました。
知らない作家が、たくさん‥‥!
近・現代の日本美術の「厚み」を
とくと味わって、
美術へのワクワクが深まりました。
社会情勢や美術・美術館の歴史を
しっかり押さえつつ、
作品の解説をしてくださったのは、
学芸員の水田有子さん。
担当は、ほぼ日奥野です。どうぞ!

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第1回 源流は上野の東京都美術館。

──
以前、画家の中園孔二さんのことについて、
ここの2階のサンドイッチ屋さんで、
小山登美夫さんにお話をうかがったんです。
水田
あ、そうでしたか。
──
25歳の若さで亡くなった中園さんが、
いかに早熟で天才的だったか‥‥について。
たくさん所蔵されてるんですよね、こちら。
中園さんの作品。
水田
ご寄贈いただいた作品も含め、全部で10点。
2019年のリニューアル後の最初のコレクション展
「ただいま/はじめまして」でも、
まとまったかたちで、ご紹介しました。

中園孔二《無題》2013年 中園孔二《無題》2013年

──
こちら東京都現代美術館さんのオープンは
1995年の3月だそうですが、
もともとは
上野の東京都美術館のコレクションを‥‥。
水田
ええ、東京都現代美術館が開館するときに、
それまで
上野の東京都美術館に収蔵されていた
近現代美術の作品3000点あまりを
引き継ぎました。
こちらが、
1926年に開館したときの東京府美術館。
──
東京「府」美術館。

東京府美術館 外観(写真提供:東京都美術館) 東京府美術館 外観(写真提供:東京都美術館)

水田
そうです、東京「府」美術館。
1943年の都政施行で、
名前が東京「都」美術館になりました。
当時はまだ、美術作品の収集が
本格的には行われておらず、
主には
美術団体による美術作品の発表の場でした。
──
なるほど。
水田
そして1975年に、前川國男設計による
現在の建築に建て替わりました。
東京都美術館では、この「新館」になって
はじめて「学芸員」が着任し、
本格的に作品収集を開始したり、
企画展やコレクション展など各種展覧会を
開催したりしていくようになるんです。
──
で、その後、こちらの東京都現代美術館が
1995年に開館するあたって、
東京都美術館のコレクションが移管された。
水田
開館に先立つ1988年から、
現代美術館としても
独自の収集を開始しています。
海外作品を含む
現代美術の収集を本格的にはじめたんです。
そして、ここ東京都現代美術館ではじめて、
作品の「常設展示室」が開室したんですね。
──
宮島達男さんのデジタル数字の作品などが、
いつでも見られたりとか。
75年の東京都美術館の新館の開館時には、
常設展示室というものは、なかった?
水田
コレクションの展示や、
収蔵作品展は行われていたのですが、
常設展示室が設置されたのは、
現代美術館になってから。
現在はコレクション展示室と呼んでいます。
──
こちらでは1年を何回かの「期」にわけて
収蔵作品を展示する
コレクション展を開催していますが、
現在、開催されているコレクション展では
「コレクションを巻き戻す」
というタイトルが掲げられていますね。
水田
今回はコレクションの成り立ちに光を当て、
収蔵作品で、
明治時代から1950年代の終わりまでを、
制作年代順にたどる、という展示です。
──
最初に展示されている、こちらの絵は‥‥。
水田
わずかの例外をのぞくと、
当館で、もっとも古い作品です。
五姓田義松(ごせだよしまつ)の
「清水の富士」という作品ですね。

五姓田義松《清水の富士》1881年 五姓田義松《清水の富士》1881年

──
富士山なのに茶色っぽい‥‥青でも赤でもなく。
すみません、素人の感想で。
そして、いきなり知らない人でした。
水田
日本における近代洋画の黎明期、
これから
洋画が日本へ広まっていく時代の作品です。
このころの日本では、まだほとんど
美術館というものも存在しませんでした。
──
たしかに、1881年というと、ちょうど
日本のミュージアムの大もとである
東京国立博物館の本館ができた年ですよね。
ジョサイア・コンドルさん設計の。
水田
当時の人々は、上野などで開催された
内国勧業博覧会などで、
美術や芸術作品に触れていました。
こちらも、1881年の
第2回内国勧業博覧会に展示された作品です。
──
洋画を描いてた人も、
それまでは、そんなにはいなかったんですか。
水田
《鮭》で有名な高橋由一など、
まだまだ、限られていました。
──
こちらの五姓田さんも、この当時、
近代洋画の父と呼ばれている
黒田清輝さんみたいに、
フランスへ学びに行かれたんでしょうか。
水田
はい、渡仏されています。
日本人で初めて
サロン・ド・パリに入選している人です。
──
はあ‥‥不勉強で存じ上げませんでした。
水田
チャールズ・ワーグマンという
当時の「お雇い外国人」の先生に師事して、
幼くして洋画を学んだんです。
この展示室では、
1910年代くらいまでの作品が並んでいますが、
そのほとんどが1975年以前、
つまり、東京都美術館の「旧館」の時代に
収蔵されています。

「MOTコレクション 第2期 コレクションを巻き戻す」展示風景(写真提供:東京都現代美術館) 「MOTコレクション 第2期 コレクションを巻き戻す」展示風景(写真提供:東京都現代美術館)

──
なるほど。
水田
と同時に、旧館時代に開催された、
最初の所蔵作品展に出された作品でもあるんです。
先ほど、1975年の
東京都美術館の新館オープンのときから
コレクションが本格化したという話をしましたが、
それより前、旧館の時代からも、
少しずつですが、収蔵は進んでいました。
──
その「最初の所蔵作品展」というのは‥‥。
水田
1962年の「日本洋画壇の流れ」です。
1880年代にフランスへ渡り
「外光派、新派」と呼ばれた黒田清輝や、
明るい画風の黒田らに対して
「旧派」や「脂(やに)派」と呼ばれた、
浅井忠などが紹介されました。

浅井忠《伝通院》1893年 浅井忠《伝通院》1893年

──
何かと黒田さんと比較された人ですよね。
浅井忠さんって。
水田
フランスから日本へ帰国した黒田清輝は、
浅井忠を中心に設立された
日本初の洋風美術団体「明治美術会」に
入会するのですが、
のちに脱退して「白馬会」を結成します。
久米桂一郎らの仲間と一緒に。
──
名前だけは知ってました、白馬会。

久米桂一郎《習作》1889年 久米桂一郎《習作》1889年

水田
黒田清輝をはじめとした外光派の画家は、
別名「紫派」とも呼ばれ、
それまでの日本にはなかった
明るい色彩表現を特徴とする作品を、
次々と生み出していきます。
──
黎明期は、そうやって「新派・旧派」が、
入り乱れつつ、比較されつつ。
水田
1962年の「日本洋画壇の流れ」は
学芸員もいない中での
小規模な展示でしたが、
そうした新旧の対立軸もふくめ、
日本洋画の歴史の流れを展示したんです。
──
ちなみに、
黒田清輝さんが渡仏した1880年代って、
フランスではポスト印象派の時代ですよね。
水田
そうですね。
──
つまり黒田さんがフランスで学んできた
当時のあちらの最先端の美術が、
さほどタイムラグなく、
日本に入ってきたということなんですか。
水田
当時、渡欧した画家たちは、
最先端というより、
アカデミックな美術教育を受けていました。
そして、彼らが帰国してくるとともに、
ヨーロッパで得た知識や経験が、
教育現場にも展開していきます。
1896年には、
東京美術学校に西洋画科が設立されたり。
──
ああ、そうだったんですか。
水田
それまで、
油絵というものが日本にはなかったので、
ある意味、みんな驚きを持って、
西洋画を描きはじめていた時代なのです。
──
びっくりしちゃったと。西洋の絵を見て。
水田
冒頭で見ていただいた五姓田義松は、
父である五姓田芳柳とともに、
浅草・浅草寺で
「油絵茶屋」と言って、
一種の見世物小屋みたいなかたちで、
自分たちの描いた油絵を展示していました。
はじめて油絵を目にした当時の庶民は、
ひとつのスペクタクルとして、
油絵を受け止めていたんだと思うんです。
──
へええ‥‥油絵茶屋。
水田
あるいは、
先ほどお話しした内国勧業博覧会でも、
人々は、
西洋には油絵という絵画技法があるんだ‥‥
ということに出会っていく。
今回の展示の最初のセクションでは、
そのようにして、
美術の制度や学校、美術団体などが、
徐々に確立しつつあった
明治時代の作品を中心に紹介しています。

2021-02-08-MON

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  • ※新型コロナウィルスの感染拡大防止のため、
    この記事で取材している
    「MOTコレクション 第2期
     コレクションを巻き戻す」
    は当面の間、臨時休室しています。

    また、次会期、3月20日(土・祝)~6月20日(日)
    開催予定の「MOTコレクション」は、
    一部のみ展示替えし、
    引き続き「コレクションを巻き戻す」を継続します

    常設展へ行こう!

    001 東京国立博物館篇

    002 東京都現代美術館篇

    003 横浜美術館篇

    004 アーティゾン美術館篇

    005 東京国立近代美術館篇

    006 群馬県立館林美術館

    007 大原美術館