- ──
- ちょっと脱線してもいいでしょうか。
さきほど岩田さんから
森谷さんの来歴を少しお聞きしたんですが、
盛岡で手紡ぎをなさっていたとか。
- 森谷
- そうですね。糸づくりから織物にする
最終仕上げまで経験しています。
生まれは奈良、育ちは京都、
大学は沖縄県立芸術大学に進み、
織物の勉強をしたんですよ。
- 岩田
- めちゃくちゃ暑い所から
めちゃくちゃ寒い所に行ったんですね。
- ──
- なぜ盛岡に行こうと思われたんですか。
- 森谷
- 沖縄で柳宗悦さんの民藝論に触れ、
盛岡のウールの仕事に興味を持ったんです。
もちろん沖縄は織物工芸が盛んなんですが、
やはりそれは土地に根差しているもので、
沖縄の人がやるほうがいいと感じていました。
そしてその勉強は、沖縄の最高峰の技術や伝統でしたから、
「ふつうの人々が使うもの」ではなかったんですね。
その点、盛岡のウールは、
もうちょっと生活に寄り添っているんです。
それで、縁あって、2年間だけという約束で
盛岡に行きました。
- 岩田
- 内弟子みたいなことだったんですよね。
- 森谷
- そうです。
そのあと、盛岡に残ってものづくりをするという
選択肢もあったんですけれど、
大きな社会の中で、
もっと産業に根差した生地づくりを
していきたいと考えました。
ですから盛岡を一旦出て、
京都に戻って就職活動をしているときに、
大学の先輩の紹介で、
三星とのご縁ができたんです。
- 岩田
- 京都と尾州は比較的距離が近いんですよ、
それに、ぼくと森谷は年齢も近いので、
上下関係という感じではなく、
「一回遊びに来てみて!」と、
気軽な感じで来てもらいました。
その頃、ぼくが思っていたのは、
三星のイメージを変えて行きたいということでした。
三星って、どっちかって言うと、
メンズの生地屋というイメージが
アパレル業界の中にはあるんですよ。
- 吉川
- そうなんですね。
- 岩田
- 古くは、黒い生地に定評があり、
高級テーラーさんや宮さまが使ってくださって、
「『黒い黒』が欲しいなら三星」
みたいな評判があったんです。
もちろん光栄なんですけれど、
でも、なかには、
織りや色の生地がよかったとおっしゃる
お客さまもいらっしゃって、
これからの三星は、黒ばかりじゃなく、
そういう方向にも舵が切れたらいいなあと思っていました。
嬉しいことに、森谷が参加してからの三星は、
ちゃんと変化をしてきているんですよ。
お客さまに褒めていただくものが、
森谷がつくる三星の生地であることが増え、
ぼくはとても嬉しく思っています。
- ──
- おもしろいものですね。
- 岩田
- 昔ながらの三星だったら、
たぶん「kijinokanosei」は
三星を選んでくれなかったと思うんです。
三星に森谷が混ざったから、
田中さんはピンときたんじゃないかな。
- ──
- 森谷さんがはじめて会った頃の岩田さんは、
どんな印象だったんですか。
- 森谷
- うーん?
自分が今まで関わったことがないような人でしたね。
- 岩田
- たぶん、もっとビジネスマンっぽかったんだと思いますよ。
三菱商事からボストンコンサルティングを経て
家業を継いだばかりでしたから、
「ものをつくっている人ではない」感じは、
すごく、したはずです。
- 森谷
- でも、きっとこういう人が、
これからの尾州を産業として成り立たせるんだろうと、
なんとなく思っていました。
そして三星の現場には、
ずっとものづくりに関わっている人がいて、
役割分担がいろいろあることもわかったので、
ここで働きたいなと思ったんです。
- ──
- 三星に来て、いきなり、
自由なものづくりを?
- 森谷
- いえ、三星らしさ、と言いますか、
ちゃんと自分で、三星のものづくりを理解していくのに、
数年は、かかったと思います。
そのうえで、こういうこともできる、というアレンジが
自分から提案できるようになっていきました。
- 岩田
- 彼女が1人で営業に出るようになったのも、
入社して4年目くらいからでしたね。
- 森谷
- そうですね。
先輩について行くんじゃなくて、
アパレルのデザイナーさんに、
自分の責任で生地の提案や、
糸づくりの提案ができるようになりました。
- ──
- そうして「kijinokanosei」との接点が?
- 田中
- 森谷さんとは、前職の時代に知り合ったんです。
当時、紡績工場さんなど、
これまで一緒に仕事をしてきた方たちに、
「素敵な機屋さんご存知ないですか」と訊いていました。
そのなかで「三星さんはどうでしょう?」と。
それで森谷さんにお目にかかったら、
すごく細かいウールの組織を書いた
古い三星のノートを見せてくださった。
わたしが「それを麻でつくったらどうなるんでしょう?」
みたいに質問をすると、
次にお目にかかるときにはその試織ができているんです。
それで一緒に、もともとはメンズのお堅い印象のものから、
わたしたちがかわいいと思う生地ができていく、
ということを一緒にやっていきました。
その実績が、何シーズンかで付いていって‥‥。
- ──
- 聞いていて思ったのは、
田中さんと森谷さん、似ているんですね。
ちょっとオタク気質というか‥‥。
- 森谷
- そうなんです!
- 田中
- そう、オタクです。わたしたち。
古い組織をそのまま生地にしたら、
まさしく昭和のおじいちゃんが着ていたような
スーツ地みたいになるんですが、
「じゃあ、もう黄色でやったら?」とか、
「シャンブレーにしてみたらどう?」とか、
そんなことを一緒にやっていくのが楽しくて、
しかも、本当いいものになっていって。
だから「kijinokanosei」をはじめるにあたって、
森谷さんは不可欠な人だったんですよ。
- ──
- なるほど!
岩田さんは経営者として
今回のプロジェクトをどうごらんになっているんでしょう。
- 岩田
- めちゃくちゃうれしいですよ!
仕事って、自分の想像通りになるのが100点だとすると、
そうじゃないすばらしいものが出てきたときって、
1万点くらいうれしいじゃないですか。
まさにそんな気持ちです。
- ──
- 経営者・社員の立場を超えて、
フラットな関係なんですね。
- 岩田
- 海外に仕事で行くときなんて、
彼女がボスでぼくがアシスタントですよ(笑)。
森谷さん、指示をだしてくれれば、
ぼくが英語で営業します! みたいな。
- ──
- 三星そのものが、もともと、
そういうあたたかさのある企業なんでしょうね。
- 岩田
- そうです。ぼくが5代目ですが、
父もなかなかチャーミングな人間で、
いまも仲良くしているんです。
「やるなら、一切合切任せる」というので、
自由にやらせてもらってます。
- ──
- 古い生地の魅力って、何なんでしょうか。
そして、そこにアレンジを加える必要性とは?
その2つを教えていただけたらなあと思います。
- 田中
- 古い生地の組織を見ると、それが小さな断片でも、
「なんだ、これは?」っていうものがたまにあるんです。
今では考えられない複雑なつくりで、
当時の職人の技術の高さや、
それをつくることができた経済的余裕などを感じて、
オタク的にはそこにまず興味があるわけです。
けれどもそれをそのまま大きな生地にしても、
ただ古いだけのものになってしまいます。
だからたとえば、
「これを、極太のウールにしたら?」と思う。
「きっと、ザックリしてて、
すごくかわいくなるだろうな」と。
そういう未知の魅力が、
その小っちゃな古い断片に入っているんですね。
- 森谷
- まさしく、そうですね。
- ──
- その特別な不思議な組織は、
なぜなくなってしまったんでしょうか。
- 田中
- お洋服として一般的に着やすかったり、
作りやすかったり、
何にでも応用ができるものが、
結果的に生き残ってるということでしょうね。
でもそんなサンプルの中に、
「なんでわざわざこんな面倒くさいことを
やってるんだろう」
「昔の人が時間あったときに考えたんだろうな」
みたいな不思議な生地がたまにあるんですよ。
- 森谷
- うんうん。
- 田中
- でも、「これで今、洋服をつくっても、
糸が引っ掛かっちゃって、着る人が嫌がるだろうな」とか、
「これは織り効率が悪いだろうから、
たぶん誰ももうつくらないんだろうな」みたいな、
へんてこな糸の絡み具合をしていたり。
でも現代に生きるわたしたちには、
そういうものが新鮮に見える。
だからニュアンスを加えていって、
また新しいものに生まれ変わらせたいって思うんです。
- ──
- 森谷さんはどう思われますか。
古い布の魅力と、古いものの復刻について。
- 森谷
- 当時はきっと限られた色を染めて、
限られた設備で、
いかにおもしろいものをつくるか、
うんと工夫をしたんだと思うんです。
今だと使える素材も多種多様になり、
色も自由に染められるわけですが、
制約があるからこそ生まれたんじゃないかなと。
でも今は効率や、失敗する可能性を考えて、
あえて冒険をせず、無難なものに落ち着いてしまう。
でも当時の人はいろんな工夫とチャレンジを
していたんだろうなということがやっぱり魅力なんです。
それを再現してみると、
やっぱりおもしろいなって思うものができますし、
今のものに置き換えていいなと思うのは、
風合いが当時よりいい感じになることです。
紡績の技術の発達とか、
整理加工のやり方のバリエーションによって、
風合いに関しては今の方がいい感じのものができますね。
- ──
- ありがとうございました。
製品化、たのしみにしています!
(つづきます)
2022-12-11-SUN