自分の名前で文章を書きはじめたら
どんどん仕事が舞い込むようになった‥‥。
そんな岸田奈美さんは、はっきり自覚しないうちに
いつの間にか文筆家と呼ばれるようになり、
結果的にあちこちで忙しく活動されています。
車椅子利用者のお母さんと
ダウン症の弟さんとの日常をつづったエッセイを、
みなさんもどこかで読んだことがあるかもしれません。
そして岸田さんがいつか絶対に書くと決めていたのが、
中学2年のときに亡くなったお父さんのことでした。
ある日、突然、いなくなってしまったお父さんは、
いまもずっと、岸田さんのなかにいるのです。
過去のお父さんに、お父さんの見た未来に、
岸田さんは向き合うことにしました。
長い連載になるのか、そうでもないのか、
岸田さん自身にもわからないまま、はじめます。
イラスト|くぼあやこ
岸田奈美(きしだなみ)
1991年、神戸出身。100文字で済むことを2000文字で書く作家。
車いすの母、ダウン症の弟、亡くなった父のことなど、
家族のことや身の回りのことなどをよく題材にされています。
家族で一番消費する海苔は海大臣。文藝春秋2020年1月号巻頭随筆、講談社小説現代連載など。noteはこちら。
第四回
ぬくもりのある、彼の部屋。
会社員を辞めて、作家になるとき、家探しに苦労した。
それまでわたしが住んでいたのは、会社の寮だった。
せっかくだから底抜けにかっちょいい家を
自分で見つけてやろう!と浮足だっていたのだが、
浮いた足はアッという間に地に落ちた。
保証人である家族に障害があり、
大学の奨学金も返しているわたしには、
びっくりするくらい信用がなく、
びっくりするくらい入居審査に通らなかった。
「真面目にコツコツ働きますから、どうか信じてくださいよ」
電話口で年貢に苦しむ
農民のような悲壮感をかもし出してみたが、
不動産屋さんからは乾いた笑いが返ってくるのみだった。
どうしても住みたい家を見つけ、
どうにかこうにか不動産屋さんや大家さんを説得し、
所属している事務所が間に入ってくれて
ようやく契約できたのは、社宅を追い出される
わずか二週間前だった。
なぜか引っ越しの前日に、ふるさと納税の返礼品である
霜降り黒毛和牛が1kgも届いてしまった。
頼んだことを忘れていた。
冷蔵庫が使えないので、とりあえずぜんぶ焼いて
醤油をかけて、段ボールの机でかっ込んだ。
上質な脂を突然かつ大量に受け止めた胃が
「最後の晩餐か」と死を錯覚したのか、なぜか涙が出てきた。
引っ越しは散々だったが、新しい住まいは上々だった。
築50年で外からの見た目は古く、そのぶん家賃も安い。
中はリノベーションされ、
無垢材の床や大きい窓のおかげでずいぶん明るく、
古さを上手に活かしていて味がある。
荷物を運び終え、部屋の写真を撮って母に送ると、
電話がかかってきた。
「あんた、パパが東京で住んどった部屋と
同じようなとこ借りてんなあ。パパも喜んでるわ」
感慨深そうな母には申し訳ないが、
ほんとうに無意識だった。
大きな不動産会社に勤めていた父が、
起業したきっかけは、二つあったと聞いている。
ひとつは、阪神大震災で
たくさんの住宅が壊れていくのを目の当たりにしたこと。
もうひとつは、ドイツに行ったこと。
母は今でも「あの時、わたしもドイツに
連れてってほしかったわ」とぼやいているが、
母を置いてまで父がじっくりと見てまわってきたのは、
ドイツのアパートメントだった。
「ドイツのアパートはどれも古いんやけど、
歴史のある町並みに、ようく似合っとる。
むやみに新しくするんじゃなくて、古さを活かして、
うまく改修しつつ大切に住んどるんや。
こういう家が、日本にもないとあかん」
ドイツから帰ってきた父は、そう言って、
古いマンションをリノベーションする会社を立ち上げた。
おばけでも出そうな使い古された家が、
父が手がけた必要最低限の改修や選んだ家具によって、
たちまち映画のワンシーンみたいな空間になった。
当時、日本でそんなことをやっているのは、
父だけだったらしい。
どんな部屋を作ろうか考えている父の目は、
まだ子どもだったわたしより、ずっと子どもだった。
「こんなんはどうや」「あれにしたらええんちゃうか」
父が次々に提案するイメージが、
わたしには今ひとつピンとこなかった。
それもそのはずだ。
その頃のわたしは、リノベーションされた部屋よりも、
とにかくラメとビーズでキラキラした
大きい筆箱がほしかったし、
つるりとした近未来的デザインの
卵型ゲーム機をほしがっていたのだから。
「あのなあ。こういうものの良さがわかるようになったら、
かっこええぞ。ほれ、ほれ」
ぶつくさ言いながら、父はわたしにいろんなものを、
手を変え品を変え、見せてきた。
ヨーロッパの画家が使う60色の重油パステル、
玄関で風見鶏がぐるぐる回っているレンガの家、
暖炉と埃の匂いがしそうな童話の本。
古くて、味があって、大切にされてきた、いいもの。
正直なところ、それらの良さはまったくわからなかったが、
「そうかそうか。やっぱりわかってくれるか」と
父が満足そうに笑うのを見たくて、
わかったふりをして頷いていた。
ああ、でも、父が大好きだという
小説をイメージして作った部屋は、
理由はよくわからないけどちょっとだけ気に入って、
見に行ったのを覚えている。
その部屋の中で、わたしは
麦わら帽子に白いシャツと穴のあいたジーンズを着せられ、
父の助手さんからパシャパシャと写真を撮られた。
翌年「ハックルベリー・フィンの家」という名称とともに、
わたしの写真がカタログに載っていた。
わたしはハックルベリー・フィンになったのだ。
だけど父は、写真ができあがる前に、死んでしまった。
知らぬ間に、娘がハックルベリー・フィンになっていたと
知ったら、父は一体どんな顔をしただろう。
助手さんは「きっと喜んだはずだよ」と涙ぐむのだが、
わたしは「お前はハックルベリー・フィンがなんたるかを、
全然わかってへん」と、やいやい言われる気がしている。
そのあとたぶん、手を変え品を変え、本や映画を、
これでもかと見せられるのだ。
そうに決まってる。
そしていま、わたしが選んだ大切な部屋は、
父が選びそうな部屋でもあった。
子どものときはさっぱりわからなかった、父の趣味と同じ
いまでもなにが良いのか言葉にできない、父の趣味と同じ。
あーあ。なんてこった。
嬉しいような、それよりも悔しいような。
わたしのなかのハックルベリー・フィンが、頭を抱えている。
そして、偶然というのは短い間に続く。
先日、この連載を読んだという男性から、
一通のメールが届いた。
なんと、父がリノベーションした部屋に住んでいたという。
「ある頃、人生に行き詰まりを感じ、知らない街に
引っ越そうと思って不動産屋さんへ飛び込みました。
そこで『とっておきの部屋がある』と紹介されたのが、
お父様が手がけた部屋です。
ブルックリンのスタジオのような、
はたまたパリの古いアパートメントのような、
オシャレでありながら血の通った、
不思議なぬくもりのある部屋でした。
まるで映画や小説に出てきそうです。
一目で気に入り、その場で申し込みをして、
八年間暮らしました。そして奥さんと出会い、
昨年、娘が生まれました。
この先の人生、心配や不安もありますが、
とても幸せに思えるのは、あの部屋での暮らしが
ひとつの礎となっているからです。
お父様のお仕事は間違いなく、
誰かの幸せの種になっていますと、
どうしてもあなたにお伝えしたかった」
もう引っ越してしまったけれど、
気に入って何枚も撮ったと添付されていた部屋の写真は、
まさしく、父のぬくもりがこれでもかというほど
投影された部屋だった。
ハックルベリー・フィンの部屋のように、この部屋も、
父が影響を受けたなにかの世界が再現されているのだろう。
いまのわたしには、それを確かめるすべはないけど。
ぼろぼろと泣いてしまった。
文句なしに、大好きな部屋だと思えた。
あの時、わたしもこの部屋が大好きと言えたなら、
どんなによかっただろう。
でも、それは叶わない。
だってわたしは、何年もかけて、
父と同じものを良いと思える目と心を育てたのだから。
父と母との日々によって。
「ハックルベリー・フィンの冒険」を書いた、
マークトゥエインはこんなことを言ったらしい。
“愛はもっともすばやく育つものに見える。
だがもっとも育つのが遅いもの、それが愛なのだ。”
父がわたしにくれた愛のひとつが、この趣味だとしたら、
本当にその通りだ。
(次回の更新は年内の予定です!感想もお待ちしています。)
2020-11-20-FRI