自分の名前で文章を書きはじめたら
どんどん仕事が舞い込むようになった‥‥。
そんな岸田奈美さんは、はっきり自覚しないうちに
いつの間にか文筆家と呼ばれるようになり、
結果的にあちこちで忙しく活動されています。
車椅子利用者のお母さんと
ダウン症の弟さんとの日常をつづったエッセイを、
みなさんもどこかで読んだことがあるかもしれません。
そして岸田さんがいつか絶対に書くと決めていたのが、
中学2年のときに亡くなったお父さんのことでした。
ある日、突然、いなくなってしまったお父さんは、
いまもずっと、岸田さんのなかにいるのです。
過去のお父さんに、お父さんの見た未来に、
岸田さんは向き合うことにしました。
長い連載になるのか、そうでもないのか、
岸田さん自身にもわからないまま、はじめます。
イラスト|くぼあやこ
岸田奈美(きしだなみ)
1991年、神戸出身。100文字で済むことを2000文字で書く作家。
車いすの母、ダウン症の弟、亡くなった父のことなど、
家族のことや身の回りのことなどをよく題材にされています。
家族で一番消費する海苔は海大臣。文藝春秋2020年1月号巻頭随筆、講談社小説現代連載など。noteはこちら。
第五回
いつかの父の、仕事の話
(後輩の市田さん)。
大きな窓の外には、父の好きだった街が広がっている。
春の陽光がさす西宮のレストランの席に、その人はいた。
「まさかぼくが、岸田さんの娘さんに会って、
こんなふうに昔話ができるなんて。
ぼくの話が、エッセイになるんですか。
やあ、うれしいなあ!」
市田俊博さんは、父が独立するまで勤めていた、
不動産会社の後輩だった。
「岸田さんと僕は、兄貴と弟みたいな関係でした。
リフォームの新規事業をはじめる部署で、
ふたりとも手さぐりだったから、たくさん色んなところへ
出かけたし、話もたくさんしました」
市田さんの話のなかでは、父は、
岸田さんだったり、岸田主任だったり、浩二さんだったり、
違う名前になる。まるでいまも生きているみたい。
市田さんはまちがいなく、
わたしが見たことのない会社員としての父を、
じっと見つめて、慕って、そばにいてくれた人だ。
「ぼくたちの共通点は、人と違うことが好きで、野心家で、
会社からすこし浮いていたこと。
当時のぼくはUFOにはまっていて、
手がかりを見つけに渡米するくらいだったんですけど、
その話を聞きつけた岸田さんが
『お前、おもしろいな』って言ってくれたんです」
言いそうだ。
家でテレビのドキュメンタリーを見ているときも、
よくわかんないことに異常な熱量で取り組む人の話に、
父は吸いよせられていた。
「岸田さんは論理的、僕は直感的で。
はっきりわかれていたから、
仕事でもすごく居心地がよかった。
気がつけば、一緒の仕事をすることが増えていました」
これは意外だった。
家にいる父は、直感的で、発想も突飛だった。
「企画書を作ったり、文章を書いたりするのが
得意だったはずです。なにより、着眼点のおもしろさと、
頭の回転の速さはすごかったですね……」
その才能は、わたしも少しわけてもらえているように思う。
「あっ、それで思い出した!」
よほどおもしろかったのか、ここからしばらく、
市田さんは思い出し笑いの波に飲まれてしまい、
戻ってくるまで時間がかかった。
「岸田さんと一緒に、視察で東京に行ったんです。
すると原宿のあたりで岸田さんが、
道に落ちてる犬のうんこを踏んだんです」
原宿で、うんこを。
「『俺ほど注意深い人間は、うんこなんて踏むはずがない』
って、岸田さんが信じられない顔をして」
いや、踏むよ。
「それで『俺が関西から来たからや。東京は、
関西人を受け入れたくないんや、
だから俺にうんこを踏ませるんや。
おのれテリブル東京!』って」
いや、関西人じゃなくても、踏むよ。
テリブル東京ってなんだよ。
「視察中はずっと、なにかにつけて岸田さんが
『テリブル東京』と言い、大爆笑でした。
よくそんな言葉がパッと出るなあって。
東京には2泊して、
何件も仕事先を回ったはずなんですけど……
岸田さんの『テリブル東京』しか覚えていないです」
ひい、ひい、と市田さんは息を必死に整えていた。
三十年近く前に父が作った意味不明なワードで、
ここまで笑えるのもすごい。
たぶん、そういう父のしょうもない才能も、
わたしはわけてもらっている。
ツイッターがある時代だったら、
父はバズったかもしれないな。
「とにかくおもしろい人でした。だけどそのぶん、
こだわりと熱意もすごくて、上司とよくケンカしてました。
してたっていうか、一方的にふっかけてた」
ぎくっ。
そういうイヤな話も、出る気がした。聞くのが怖い。
「オフィスに響き渡る声で
『やってられん!もうよろしいわ!』って、
こう、机をバーンッて叩いて」
話を聞いていたわたしのとなりで、
同じく話を聞いていた母が「あったわあ。申し訳ないわあ」
と、懐かしそうにつぶやいた。
父と母は、職場恋愛だ。でも部署は違う。
それなのに「あったわあ」ってなるのは、まあ、
相当、響き渡ってたんでしょうな。
おはずかしい。
「えっ、どういうときに? そうだな、あれは、
岸田さんが係長から調べ物を依頼されて、
過去の分厚い資料をずっとペラペラめくってたときだ。
誰にでもできる単純作業より、
自分はもっとクリエイティブな仕事をすべきって
思っていたらしくて、それで、こう、
『やってられんわ!』と……」
お、おはずかしい。
「あるときは、会議中でした。
ノルウェーをテーマにしたモデルルームを作ったので、
それの販促アイデアを次長と課長に話していて。
世界観をきっちり作り込んで、
お客さんにも感じてもらうために、
特別な花を配ろうと岸田さんが提案したんです」
すごくいい提案じゃないか。
父らしい。
父が手がけたモデルルームを、大人になっていくつか見た。
どれもノスタルジックな世界観が細部に宿っていて、
すばらしかった。
「それが『そんなもんに金かけて、なんの意味があるんや』
とつっぱねられたもんですから、それで、また」
やってられん!もうよろしいわ!バーンッ!
もうわたしの頭のなかにも、
ハイビジョンで鮮明に再現される。
「聞こえてくるたびに、おっ!岸田主任、やってるな!
とみんなで思っていましたよ」
市田さんの口ぶりから、少なくともそんな父でも、
多大に愛されていたようでホッとする。
バーンッ!のあとは、オフィスを出ていき、
近くの喫茶店でコーヒーを飲み、
しばらくすると何食わぬ顔で戻ってくるそうだ。
メンタルが強い。
そこは、わたしと違う。
「仕事に一生懸命でした。
企画をはねのけられるたびに
『市田、この会社はもうアカン。俺たちについてこれてない』
と怒っていました」
それは、家でもよく耳にしていたぞ。
ひいきのビデオは、VHSじゃなくてベータ。
買ってきたパソコンは、WindowsじゃなくてMac。
娘に贈るファービーは、海外製ファービー。
ことごとく、父が選ぶものは、
時代に速すぎて淘汰されていったのだが、
その度に「俺についてこれてない」と、
不服そうに腕を組んだ。
「事業計画のために、最新のインテリアを
会社の外で勉強しようと言い出したのも岸田さんです。
思えばあの頃から、独立を考えていたのかな……
ああっ、そうそう!
岸田さんって、人の縁と運にものすごく恵まれていて、
それが勉強にも役立ったんですよ。」
市田さんが言うには、こうだ。
インテリアを勉強するというので、市田さんは、
大手のデザイン会社や学校を調べていた。
すると父が「有名なところより、こっちにしようや」と
横槍をいれ、地味なタウン誌に載っている
個人経営の小さなスクールを選んだそうだ。
開催場所も、マンションの一室。
実績もわからないから市田さんは不安になったそうだが、
実際に行ってみたら、2人だけの集中できる環境で、
大当たりだったそうだ。
さらに、おどろいたのは。
そのスクールの先生が、なんと市田さんの奥さんになった。
父の縁と勘はあなどれない。
「突破力のある岸田さんがいなければ、
到底出会えなかった人、できなかった仕事がありました。
本当に感謝しています」
そんなに扱いづらいところがあったのに、
こうして部下から慕われ、ついには会社を辞めても、
仕事に打ち込むことができた父は幸せだっただろう。
父は仕事が大好きだった。
「たしかに岸田さんは仕事が大好きで、
頭も仕事でいつもいっぱいで。
ご家族の話も、あまり聞きませんでした」
ほら、やっぱり。
「でも、たまにご家族の話をされる時のことは、
よく覚えています」
えっ。
意外だった。
わたしは、ティーカップに口をつけながら、目を丸くする。
これから市田さんが語るであろう、
父が語ったわたしたちのことを、
聞くのがすこし怖いような、むずかゆいような。
窓の陽光が少しずつ、かげりはじめていた。
(次回の更新は来月の予定です!感想もお待ちしています。)
2021-01-14-THU