1981年に放送された名作ドラマ、
『北の国から』をご存じですか?
たくさんの人を感動させたこのドラマを、
あらためて観てみようという企画です。
あまりテレビドラマを観る習慣のなく、
放送当時もまったく観ていなかった
ほぼ日の永田泰大が、あらためて
最初の24話を観て感想を書いていきます。
イラスト:サユミ
#2
事件は淡々と。
『北の国から』第2回のあらすじ
富良野での厳しい生活に馴染めない純は、
冬支度の手伝いで父にこき使われ、
ますます不満が募るばかり。
「何とかしなけきゃ。マジで凍死しちゃう!」
そう思い詰めた純は、ついに脱出作戦を開始。
東京の母、令子(いしだあゆみ)に手紙を書き、
それを投函させるため螢を町まで行かせたのだが。
しかし夜、になっても螢が帰って来ないので、
大騒ぎになる‥‥。
誰に感情を重ねて観ているかというと、
圧倒的に純である。
たぶんぼくはいま
放送当時の田中邦衛さんよりも
年上だと思うけど、
気持ちを入れて観ているのは、
当時小学生の吉岡秀隆さんが演じる
純のほうなのである。
それは、第1回の冒頭数分で決まってしまった。
いしだあゆみさんと竹下景子さん(姉妹)の
ハードボイルドな会話で幕を開けたドラマは、
つぎの場面で北海道に移る一家を映し出す。
列車は見知らぬ土地へ向かっている。
お父さんは物静かで、
妹は旅行気分ではしゃいでいて、
お兄ちゃんは物憂げだ。
その純の表情を観ただけで、
ぼくの胸は締めつけられる。
なぜならぼくは幼少期に転校を繰り返していた。
幼稚園と小学校を2回ずつ変わり、
小学校から中学に上がるときも引っ越した。
幼少期の転校はつらいものだ。
とりわけ、最低限の社会性が成立しはじめる
小学校のときの転校はつらい。
なにを大げさなと思うかもしれないけど、
近所と学校が生活のほとんどを占める小学生にとって、
見知らぬ土地への引っ越しは
世界が終わるようなものである。
だから、列車の窓の向こうに広がる
豊かな自然にまったく心躍らない純の瞳を観たとき、
ぼくのこころは彼に固定されてしまった。
この先、その気持がどこに移るかはわからない。
いつかは、五郎さんの気持ちに
自分を重ねるときが来るのだろうか。
さて、第2回では事件が起こる。
純は東京にいるお母さんに手紙を書く。
なんとかじぶんを呼び戻してほしい、と。
純はその秘密の手紙を、螢に命じて町へ投函させに行く。
螢は手紙を川に落とす。
慌てて、川沿いに、追いかける。
たいへんだ。北海道だぞ。富良野だぞ。
電気も水道もガスもないところだぞ。
夜になったら寝るんだぞ。
そしてこの大事件は、
いまのドラマのようにたっぷり演出されたりしない。
そこが、なんというか、
観ていてとてもひりひりする。
ドラマは淡々とそれを表現する。
日が暮れていく。
みんなが、螢がいないことに気づく。
でも、不穏なBGMは鳴らない。
誰かがヒステリックに叫んだりしない。
おとなが探しに行く。
あたりは真っ暗になる。
探しに行く人数が増えていく。
帰ってきたおとなが無念そうに首を振る。
それを、ドラマはまったく盛り上げない。
螢が見つからないということは、
そういった全体の風景によってのみ、
観るものに伝わる。
懐中電灯、夜空、川の水面。
首を振るおとなたち。
純は、手紙のことを言わない。
秘密と後悔と責任をぐるぐると背負い込み、
膝を抱えて、呆然としている。
ぼくが純でも、そうだろうと思う。
車が帰ってくる。
ドアが空いて降りてきたおとなが、
「大丈夫、きっと見つかる」と言う。
ああ、これがいちばんキツい。
不気味な効果音も流さず、不吉な影も映さず、
「大丈夫」ということばで
観るものをもっとも不安にさせる。
螢が見つかるシーンが、
どのように演出されたか教えよう。
車が帰ってくる。ドアが開く。
降りてきた螢が走り出す。
ことばは、ない。
ただ、降りてきた螢が、まっすぐ走る。
演出に変化はない。
相変わらず世界は淡々としている。
五郎さんが立っている。
螢が近づく。すがりつく。
螢が、ちいさなちいさな声で、
「ごめんなさい」と言う。
五郎さんは何も言わない。
上着を脱いで、螢の小さな背中をくるむ。
こんなふうに、ドラマは進む。
ぼくは、観ていて、
ああよかったと、こころから思った。
(つづきます)
2020-01-26-SUN