1981年に放送された名作ドラマ、
『北の国から』をご存じですか?
たくさんの人を感動させたこのドラマを、
あらためて観てみようという企画です。
あまりテレビドラマを観る習慣のなく、
放送当時もまったく観ていなかった
ほぼ日の永田泰大が、あらためて
最初の24話を観て感想を書いていきます。
イラスト:サユミ
#20
波紋。
『北の国から』第23回のあらすじ
母の令子が急死した。
雪子とともに上京した純と螢は、
母の柩の前で呆然自失の吉野の姿に戸惑う。
それにひきかえ、葬儀の朝になって
やっと現れた五郎は、焼香もそこそこに
翌日にはもう北海道へ帰ると言う。
純はそんなつれない父を不満に思った。
しかしその夜遅く目を覚ました純は、
母の遺骨の前で呻くようにひとりで泣いている
五郎の姿を目撃する‥‥。
たっぷりとお葬式が描かれた回だった。
ぼくはこのドラマをDVDで観ていて、
全24回だとわかっているので、
この回を合わせてあと2回で
最初にテレビで放映された『北の国から』が
終わってしまうと知っている。
つまり、もう、最後なのだ。
だから、令子さんが死んでしまったことは、
言い方はよくないけれど、なんというか、
ほどよく済ませてほしいという気持ちもあった。
「あれから半年が過ぎた‥‥」というような
冒頭の純のモノローグで終わらせてほしかった。
けれども、このドラマは、
そういうところをこそ、きちっとやる。
気まずさや、心苦しさや、やるせなさを、
最後の、消え入るぎりぎりの、
際のところまで見届けさせる。
たぶん、そういうドラマはもう現代のテレビの枠では
なかなかつくることができないのではないかと思う。
ドラマという池に、
なにかの出来事が石として投げ込まれる。
ふつうのドラマはその「石」が主役で、
石そのものや、投げ込まれた瞬間の飛沫に、
意外性やカタルシスや不安をおもしろく
感じられるようにつくられていると思う。
なんならつぎつぎに石を投げ込み、
美しい水柱を連ならせて観る者を呼び込む。
一方で『北の国から』の「石」は、
いってみればとても平凡である。
恋愛だったり、心変わりだったり、
未練だったり、成長だったり、過去だったり。
ありふれた地味な石が、
ドラマの水面にぽちゃんと投げ込まれる。
しかし、このドラマは、
池に生じた波紋を最後まで描く。
同心円状に広がったそれが
しだいに速度を落として池の岸に届くまで。
なんなら、岸からまた跳ね返って、
池に戻っていくまで。
抽象的な話で申し訳ないけれど、
石ではなくて「波紋」のほうが
『北の国から』では描かれるべき
主役なのだろうとぼくは思う。
だから、ドラマは、なにかにつけ、
最後まできちんと描く。
純が女性の胸や足に目を奪われて
ちんちんが大きくなることを
ちょっとした愉快な場面にとどめず、
「とうさん、ぼくは病気と思われ」
「純、それは病気じゃないぞ」という
父子の会話による安定まで描く。
つららさんと雪子さんの間で揺れる草太の波紋は、
ドラマティックな夜にキスやハグで
劇的に解決するのではなく、
三者の間を、いや、それぞれの家族も含めて、
複数の岸を何度も何度も行き来する。
令子さんの医者の誤診問題も、
涼子先生の過去に対する偏見も、
笠原のおじいさんの偏屈さも、
すぱっと終わりにはならない。
まったくもって「一話完結」しない。
そういうドラマが24回続き、
視聴者がある種の魂を注ぐように観るというのは、
なかなかもう、難しいのではないかと思う。
たぶん、現代のドラマであれば、
最終回の直前の回であるこの回は、
クライマックスの最後の大山か、
終わりへ向かうさまざまな解決に費やされるだろう。
しかし、『北の国から』の第23回は、
令子さんの葬儀をつぶさに表現する。
親戚の人たちが何人も新しく登場し、
ばたばたと葬儀の準備をしたり、
嫌味を言ったり、軽口を叩いたりする。
富良野の美しい風景は映らず、
東京のごみごみとした住宅地が描写される。
そして結果的にこの回の軸となっているのは、
五郎でも雪子さんでも純でも螢でもなく、
令子さんの新しいパートナーだった吉野さんと、
葬儀に富良野からやってきた
清吉おじさんだったと思う。
柩のそばに座り、ただただ呆然としている吉野さん。
喪服を着て富良野の代表として
葬儀に参列したかのような清吉おじさん。
令子さんの死は、
受け止める純や螢や五郎さんや雪子さんという
当事者を直接描くのではなくて、
あえて関係の遠いふたりを通して
表現されていたようにぼくには思えた。
キレ者だったのに葬儀中まったく役にたてず、
公園で砂をいじる吉野さん。
五郎が葬儀に遅れてきたのは不人情ではなく、
お金を工面できなかったからだと
とつとつと説明する清吉おじさん。
前の奥さんと3年前に死別したことを明かし、
自分にとって人を好きになることは
もう終わったのだと純に語る吉野さん。
富良野で自然を相手に暮らす人たちは、
運命に対するあきらめがあるのだと語る清吉おじさん。
ああ、どれもこれも、池の鈍色の水面に
静かに広がっていく波紋みたいだ。
すっきりすっぱりしないことこのうえない。
でも、こういうドラマだからこそ、
人々は40年も忘れないのだろうと思う。
そして最終回の前の回であるこの第23回で、
まさにドラマ全体の消えゆく波紋として、
倉本聰さんがじっくりと描いたのは、
「赦し(ゆるし)」だったのではないかとぼくは思う。
清吉おじさんは屋台でおでんを食べながら、
雪子さんに、東京の女性は信用できないから
この家から出ていってくれと言ったことを謝る。
吉野さんは雪子さんに病院のことを問い詰められて、
責任はすべて自分にあると噛みしめるように言う。
笑顔で握手を交わす場面なんてなく、
もっといえばちっとも解決されていないけれど、
淀んでいたひとつひとつが、
しだいに静かに不格好に赦されていく。
そして、螢だ。
おかあさんの過ちを目撃した「あの夜」のことを、
まるで自分にかける呪いみたいに
思い出している螢を抱きしめながら、
五郎さんは、言う。
「父さんは、もう赦してる」と。
おかあさんが死んで、東京に来て、
お通夜があって、お葬式が終わって、
それでもずっと泣かなかった純は、
捨てられた靴をおまわりさんに探してもらって、
「急に涙が突き上げる」。
これもひとつの赦しであるようにぼくには思えた。
おまわりさん(平田満さんだった)が
北海道なまりだったことも、
いろんなことを象徴しているように思えた。
そして、ああ、とうとう最終回だ。
このドラマのおおきな波紋はどう描かれるのだろう。
関係ないけど、このドラマに登場する女の人たちは、
みんな寒い名前がついているんですよね。
冷たい、涼しい、凍える、氷柱、雪。
(最終回に向かうわけで。)
2020-02-23-SUN